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【番外編】 私立中学の実態

しばらく娘の転学が決まり、
バタバタしていて更新できませんでした。

先週末にギリギリ手続きが終わり、
今週何とか転学先の公立中学で始業式を迎えられました。
2年間、トラブルがない事を祈ります。

転学に関するお話は時系列に沿って
改めて書き記すつもりですが、
それよりも今回の転学に対応した私立中学の実態が
あまりにもショックだったので
番外編としてお伝えします。

最終的に学校自体の方針なのか、
担任の個人的攻撃なのかは定かでないまま退学したのですが。

まず事の発端は娘の問題行動が原因ですので、
それに関しては深く反省し、
このような結果になった事も重く受け止めております。

入学してすぐに担任に対する不信感を持ち始めたのは
コロナで緊急事態宣言が発令された4月の事でした。
自宅学習となり、オンラインで出された課題をこなして
メールで提出する授業だったのですが、
朝の出席点呼不在から課題の提出漏れに至るまで
全てクラス全員の掲示板に名指しで書き出され指摘されました。
しかも嫌味たっぷりのコメント付きで。。。

個々に連絡がとれるわけですから、
個々に不備等連絡すればいいだけの事なのに。
あからさまにさらし者にする性格の悪さに嫌悪感を抱きました。

登校が始まった2学期では
小テストで他クラスより成績が悪いと怒るそうです。
あきらかに自分の株を上げることしか考えていないと思いました。

そして3学期。

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娘が問題行動

事実確認/この時担任が自主退学を本人に勧める

処分通知/退学処分ではなかったが担任が娘に「通学を続けるのであればクラス全員に話をする」と脅す
また修了式は休んでも構わないと言われる

修了式欠席後、担任から電話がかかってくる
上記対応に娘が傷つき自主退学すると伝えると「それは全て娘が退学を望んだからだと言い返される」
娘なりに責任を感じて退学を覚悟していると伝えただけなのにそれを逆手に取る担任に呆れて自主退学を決める

翌日(平日)日中自宅に電話があり、娘に直接今日の19時までに捺印が必要と伝える(有り得ない)
娘が私と主人に連絡をとりその旨を説明する
捺印理由として4月分の引き落としを止めるのに間に合わなくなるのでとの事
お互い仕事で行けるわけもなくその後電話で明日の午前中で間に合うと言われる

学校へ行くと引き落としが間に合わなかったとの事を伝えられる(来た意味がない)
その場で退学理由を書かされる(多分余計な事を書かれない為に呼び出したと思われる)
担任に勧められたからだと伝えると、担任ではなく学年主任が狼狽して全否定する

その後受け取った期末テスト結果で唖然とする
娘の英語2教科だけがクラス最低点になっていた

補足1:担任は英語担当
補足2:1つは47点(学年最低点7点)もう1つは57点(学年最低点17点)

うちのクラスだけ英語の成績が高すぎる
明らかに改ざんして娘の点数を最下位にしたとしか考えられない
娘の問題行動の比ではない

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ざっと書くとこんな感じです。
発達障害の事は事前に学校側へ伝えておりました。
でもこの対応です。
進学校に発達障害児の居場所はないんですね。

今、娘は公立中学に温かく迎え入れられ心機一転頑張り始めました。
もちろん発達障害の事も親身になって対応して頂いてます。
この話はまたあらためて。



# by drunkcat0220 | 2021-04-07 17:20 | 私立中学校【番外編】 | Comments(1)

父が入院したことで、兄は数日後に実家を離れ自宅に戻りました。

私も娘が受かった高校の入学説明会や制服採寸などを済ませ、
気付いたら2月も終わりになっていました。

兄と四十九日の日取りを相談していたのですが、
お互いの予定とご住職の予定を確認すると、3月初旬でないと都合がつきませんでした。

そういえば葬儀の時に親戚から四十九日の話が出た際、

「三月(※)またぎは縁起が悪いからね」

と言われた事を思い出し兄に伝えると「このご時世そんな縁起担ぎは必要ない」
とご住職に言われたと言い、3月5日(日)に執り行う事に決めました。


※ 三月(みつき)→身付(みつき)→身に付く 四十九日と合わせて「始終、苦(しじゅうく)が身に付く」


親戚に嫌味のひとつでも言われるかなと思いつつ連絡したのですが。
いざ連絡すると都合のつかない親戚が何人もいて、
結局集まったのは私たち家族を含めて10人足らずでした。

受験で葬儀に出席出来なかった主人と娘は昨年末に帰省したところで時が止まっており、
特に娘は遺影と骨壺を前に感情移入が出来ない様子でした。
一番前に兄夫婦が座り法要が始まりました。本来であればあの場所に父が座っているはずなのに…
慎ましやかに法要を終え、実家近くで夕食を済ませた兄夫婦と私達5人は実家へ戻りました。



誰もいない実家。

母の湯飲み。父の寝間着。

何もかもがそのままで、今にも父と母が出迎えてくれそうでした。

でもここに父と母が戻ってくることはありません。




こうして昨年12月に綻び始めた実家は、たった90日で崩壊したのでした。




--------------------------------エピローグ--------------------------------


あれから2年の月日が流れ、娘は高校2年生になりました。



兄は月に1度、私は隔月に1度。
父の見舞いを兼ねて実家を訪れ、少しずつですが実家を片付けています。

父は入院してから日を追うように壊れていきました。

入院直後は歩いて面会室まで来ました。
母が会いに来ないと怒り、逃げ出したいと愚痴をこぼしました。


2か月後には車いすになって私がわからなくなりました。
様相も覇気がなくなり、腕には意味深な青アザがありました。

私は心配になって小さな声で「これって縛られたりしていない?」と聞きましたが
兄は「一概には言えないし、徘徊がないとも限らない」と事務的に無感情で応えました。

さらに2か月後には鉛筆も持てなくなりました。
もちろん字も書けなくなっていました。
会話が成り立たなくなり、無精ひげを生やし、食べこぼしもそのままでした。

私は東京都八王子市にある精神科病院のニュースを思い出し、不安だらけになりました。

さらに2か月後にはベッドから落ちて危ないとの事でヘッドギアを装着されていました。

さらに2か月後には車いすからずり落ちそうになり、座っている事もままならないようでした。

さらに2か月後にはベッドのまま面会室に来ました。
この頃には話をすることもなく、寝ているだけになりました。
体はやせ細り、大きなベッドの中で体を縮めて小さくなっていました。


病院に入れば回復すると思っていた私の考え方は全く間違っていました。
異常行動を伴いながらも感情表現豊かで時折笑っていた父は
入院してたった1年で植物人間のような状態になってしまったのです。

1年が過ぎた頃、病院側との面会がありました。
父の状態が寝たきりで精神科治療を要する状態ではないとのことでした。

つまり特養などの介護付き老人ホームへの転院を促されたのです。

この判断は私にとって朗報でした。
地下1階の窓もないよどんだ空気のこの場所で天命を全うさせることだけは避けたい。

院長がいくつか紹介出来る特養があると言っていただいた中に
この病院の最上階に併設されている特養がありました。

そこなら病院内で転院作業が行えるとのことで、見学させてもらうことにしました。
エレベーターで7階まで上がるとそこには先ほど面会していた場所からは
想像も出来ないほどの景色が広がっていました。

四方から陽の光が差し、空が見え、フロア全体が見渡せるほどのオープンスペースとなっていました。
兄も私もその場で気に入り、空きがないか調べてもらうことにしました。
するとタイミングよく1床だけ空きがあるとのことで、その場で転院手続きに入りました。
週明けには転院されることを確認し病院を後にしました。



そして2か月後。
面会した兄と私は驚きました。

縮こまっていた四肢を思う存分のばし、洗い立ての入院着を着て、
髭もキレイに剃ってもらい、散髪もしてもらった肌つやの良い父が大きなイビキをかいて寝ていたのです。
そして部屋には心地よい太陽の光が差し込んでいました。

看護師さん曰く、来て2日ばかりは怖がっていたけれど今は会話も出来ますよって。

本当に?

それから半年ほどになりますが、今の父は見違えるほど元気になりました。
壊れた記憶は戻らず、母の死や兄や私の事は理解できていませんが、
自分の名前を理解し、自分で食事を摂り、機嫌がいいと歌を歌うそうです。

辛かった1年だったけれど、これからは長生きして穏やかな余生を送ってもらいたい。



母の遺骨は本人の望み通り京都のお寺へ永代供養しました。
兄が納骨し、私はまだ手を合わせに行けてないので近いうちに母に会いに行こうと思います。
行って父のこと、実家のこと、そしてたくさんの思い出話をしたいです。





このブログはここで一旦終わりです。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
# by drunkcat0220 | 2024-10-03 13:04 | たった90日で実家が崩壊した件 | Comments(0)

2月1日(火)


午後、兄から父が入院した連絡を受けました。

MRIの結果、脳の血管が詰まりいくつかの機能が働いていない事で生じる
「脳血管性認知症」と診断されました。

原因として食生活の乱れにより水分をあまり摂取しない生活が続いた事で慢性の便秘となり
結果、血液の循環が悪くなり脳血栓を引き起こしていると。

検査の後、再び診察室へ戻った途端「ではこのまま入院という事で」と伝えられた父。
兄から聞いた限りでは、酷く動揺し「一度家に… $#&!%&!!!」と言葉にならない言葉を発し
席を立ち帰ろうとしましたが、両腕を看護師に抱えられ病室へ連れていかれたそうです。

この頃、東京都八王子市にある精神科病院の「滝山病院」で起きた
患者虐待のニュースが連日報道されていたので、
父が精神科の病院へ入院することになって焦りと不安を感じました。



私に連絡してきた兄は

<この選択で本当に正しかったのだろうか>

と自問自答を繰り返し、置いてきた自分を責めていました。


私もまた、こんな事になる前に引き取ってあげれば良かったのではないだろうかと思い始めましたが、
現実として同居すれば家族は必ず崩壊する。

どうすることも出来ず後悔と懺悔をくり返す私たち兄妹にケアマネージャーが
「親を思う気持ちも大切ですが、それよりも自分の家族を大切にすることが大事ですよ」
と慰めてくれました。

母の入院準備が大変だったことを思い出し、私は兄に何か準備するものはあるか聞きました。

兄曰く、精神病院の入院は私物の持ち込みが禁止だそうです。
理由として精神に病を抱えている患者たちは私物と他人物の区別が出来ず、
人の物を勝手に使ったり、持って行ったりとトラブルになってしまうからだそうです。

そんな状況の病室に入れられている父をとても可哀想に思いましたが、
その父が人の物を勝手に持っていく可能性も十分ありうると考えると胸が痛みました。


2月2日(水)


今日は公立推薦入試合格発表の日。

娘はさほど緊張した様子は見られませんでしたが、
私はこれまでの学校生活を振り返り、
娘が初めて自分から行きたいと思った学校なので
受かっていて欲しい気持ちでいっぱいでした。

発表は8時30分。

3年前に同じ入試サイトから私立中学の合格発表を確認し、
大喜びで抱き合った記憶がまだ鮮明に残っています。
あの時再びこのサイトを開けることになるとは思ってもみませんでした。

8時29分。

ドキドキしながらマウスをクリックしました。

●●高等学校 ●●科 合格おめでとうございます>

受かった!

3年経った娘は少し大人になっていて抱き合うことはなかったけれど、
一緒にハイタッチをして喜びました。

入学手続き書類を受け取ってから中学校へ報告に行く事にし、私と娘は高校に向かいました。

学校の正門まで行くと、合格者が張り出されているボードが見えました。
改めて自分の受験番号を確認し、2人で喜び記念撮影をしました。

3週間前まではその場で実家へ電話して父と母にこの喜びを伝えるつもりだったのに…
こんな幸せな日なのに電話をしても誰も出なくなった実家を思い浮かべながら
入学手続きの日と父の見舞いと母の四十九日の日取りを考えている自分がやるせなくなりました。


この日から私は隔月で新幹線に乗り、父の見舞いに行く生活が始まりました。
そしてもう誰も住むことのなくなった実家を片付け始めました。


たった90日で実家が崩壊した件(15)につづく


# by drunkcat0220 | 2024-09-09 12:37 | たった90日で実家が崩壊した件 | Comments(0)

1月28日(金)

今日は母の誕生日。
< 90歳おめでとう !>
直接伝えたかったな。。。



1月29日(土)

日に日に兄から送られてくるLINEの内容が酷くなってきました。

この日はケアマネージャーや関係者が訪れ、
再度父の要介護度認定の為の話し合いがありました。

認知症にしてはあまりにも進行スピードが速いので
翌週精神科で診察してもらう手配をしました。



1月30日(日)

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意味もなく部屋をウロウロし続け食べ物を漁る。
食べ物への執着が半端ない。特にパン。
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この頃、兄が自分用に買ってきた弁当がなくなってたり、
父に買ってきた弁当がなくなってたりしていたので、
兄がリモートワークをしている間に食べ続けていたと思って2人で呆れていました。

しかし1か月後に片付け始めたら
冷凍庫から凍った兄の弁当が、水屋から腐った弁当が、
引き出しから食べかけの総菜が(もちろん腐っている)と
消えた食料が悍ましい状態で止め処なく出てきました。

生ゴミも至る所(洗濯機の後ろや押し入れの中など)で見つかり、
母が入院する前にどこに片付けたかわからなくなっていた2人の茶碗も
生ゴミと一緒に洗面所に捨てられていました。

あまりにも悲しい状況に気付いてあげられなかった申し訳なさで涙が溢れ出ました。



1月31日(月)

父がおとなしくリビングでテレビを見ていると思って
台所で様子を見ながら昼食の準備をしていた兄。

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父が食い入るように観ていたのは北朝鮮の軍事パレード。
観ながら「スパイが」「世界が」とブツブツ呟いている。
突然立ち上がり壁に向かって手を合わせ誰かに謝罪を始める。
最後には土下座を始めた。。。
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兄が恐怖を覚えて私にLINEを送ってきました。
明日は診察日。原因と治療方法が明確になる事を願う。



2月1日(火)

今日は父の診察日。

朝から兄は父が粗相をして車が汚れないよう、
ビニールシートを敷いたり準備をしていました。

出る直前になって父は何か不信感を感じたのか
どこに行くのかと執拗に確認し始めました。

と言うのも先週行ったケアマネージャーたちとの話し合いで診察を受けるよう促された際、
「自分はかかりつけの内科があるから大丈夫」
と言い張り頑なに拒否していたのです。

父が言うかかりつけの病院とは、以前「財布を盗んだ」と言いがかりをつけ、
押しかけた町の診療所で、元々は母がお世話になっていた信頼のおける病院でした。
事件の後、兄が謝罪に行き何とか治めていたのです。

そんな事実も覚えていない父に精神病院へ行くと言って納得するはずもなく
診察時間が迫ってるのに出発出来ない兄が逆上していました。

罵詈雑言を浴びせてくる父にオムツを穿かせ、
なんとか時間ギリギリで連れて行き、問診や採血・MRIなどの検査を受けました。

そして

この日から父は二度と家へ帰ることはなくなりました。。。


たった90日で実家が崩壊した件(14)につづく
# by drunkcat0220 | 2024-08-24 11:07 | たった90日で実家が崩壊した件 | Comments(0)

1月25日(水)

色々と考えていたら朝になったので、起きて娘のお弁当を作りました。

いつもと同じように起こし
いつもと同じように送り出しました。

明日は公立高校の推薦受験。

娘の前では平常心を保つよう心掛けましたが、
送り出して一人になると心が崩れ落ちました。


兄は葬儀の後も壊れてしまった父を一人に出来ない為、
実家に残ってリモートで仕事をしてくれていました。

父は母が入院したその日から一歩たりとも母の部屋へ入ろうとはせず
遺骨の置かれた仏壇に手を合わせる事さえありませんでした。

<母の死を理解しているのか?>

理解しているけど認めたくない気持ちが上回り、
父の中でなかった事になっているのだとしたらそれはあまりにも自分勝手で許せない…


兄に喪主を務めた労いの連絡をしようと携帯を手に取ると
すでに父の異常行動に疲労困憊したLINEが溜まっていました。

そして添付されていた画像を見て唖然としました。
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ダイニングに置かれたティーポットに菓子パンがぶち込まれ
お茶を吸い込んだパンがふやけて倍の大きさに膨張している
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別の画像には
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皿にレトルト味噌汁の味噌が塗りたくられている
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兄曰く、菓子パンは昼食の支度で味噌は夕食の支度らしい。
もちろんそれを食べることはなく、
兄が準備した食事を何事もなく食べるのだそう。
そして兄が父を咎めると逆切れして暴言を吐いてくると。

父はすでに兄を認識出来ておらず、
時にはヘルパーであったり時にはレントゲン技師であったりと
自分の身内という認識でさえ全くありませんでした。


それから数時間おきに父の異常行動が兄から送られてくるようになりました。

この日の夜、一旦自宅へ帰る予定だった兄。
しかし21時を過ぎても帰る様子が見られなかったため、連絡すると…

「洗濯機を回していざ干そうとしたら、親父がオムツを放り込んでいて大変な事になっている」

と泣きそうな返事が返ってきました。
ダメだ、このままじゃ兄が壊れる。

結局兄が実家を出たのは23時前。実家から兄の自宅まで約2時間。
疲れ果てて終電で帰宅したようでした。

その間も独りの父が気がかりでなりません。

それ以上に明日は娘の受験です。
結局この日も眠れずに朝を迎えました。



1月26日(木)

+++++++++++++
娘の公立高校受験日
+++++++++++++


昨夜、兄に受験で今日は実家の対応が出来ない事を伝えていましたが
やはり父の様子が気になります。

とりあえず朝から実家の防犯カメラの通知をチェックし
父が外出せず実家に居る事を確認して携帯を鞄に入れました。

いざ出発。

しかし娘と駅に着くと電車が運転見合わせに。
周りを見渡すと独りでそれぞれの高校へ向かう受験生たちが焦っていました。
とりあえず、受験校のHPを確認しましたが何も情報はアップされていません。

それから15分ほど経った頃でしょうか。
構内アナウンスが入りました。

「本日受験の皆さん、遅延しても受験出来ます。焦らずゆっくり受験校へ向かって下さい。」
「本日受験の皆さん、遅延しても受験出来ます。焦らずゆっくり受験校へ向かって下さい。」
「本日受験の皆さん、遅延しても受験出来ます。焦らずゆっくり受験校へ向かって下さい。」


何度も受験生に向けてアナウンスされていました。
そして発着案内の電光掲示板にも同じ内容のテロップが流れ始めました。

そのうち学校のHPにも受験開始時間をずらして行われる旨の案内がアップされました。

各高校とJRの連携プレーに感心しながら
約1時間遅れで無事に娘を受験校の最寄り駅まで送ることが出来ました。


試験は予定より3時間遅れで無事終了。
あとは来週の結果を待つのみ。

娘には失礼ですが、家に帰って私立高校の推薦受験と公立の一般受験の確認をしました(笑)。

私立高校は昨年末に個人面談を行ってほぼ内定をいただいていましたが
中学受験で私立に対しての嫌悪感が拭えなかった私は公立の受験がすべて不合格だった場合、
私立を蹴って通信制高校に入学させようかなーなんて思っていました。


その夜。
実家に戻った兄から再び父の異常行動がひっきりなしに送られ、一瞬で現実に引き戻されたのでした。


たった90日で実家が崩壊した件(13)につづく
# by drunkcat0220 | 2024-08-01 12:50 | たった90日で実家が崩壊した件 | Comments(0)

1月24日(火)


亡くなってから4日目の朝。朝から雪交じりの冷たい風が吹いていました。

私が誰かは理解出来ていないようでしたが不信感はないらしく、
父は私が話しかけると素直に返事してくれていました。

昨夜6個ほど持ち帰ったパンはすでに残り2個になっていました。


年末に片付けたと思っていた実家はよく見ると埃だらけのゴミ屋敷でした。
父や母と共に朽ちていった実家を私は何も見ていなかった。
こんなゴミだらけの場所で母は何を思って生活していたのだろう。

この後、葬儀へ行ったら私はそのまま自宅へ帰るけれど父と兄はこの家へ戻ってくる。
とりあえず父の相手をしながら出来る範囲で部屋を片付け始めましたが
母が書いたメモの文字を見る度に涙が溢れてきて片付けになりませんでした。

お昼前になり、兄から「今から迎えに行く」と連絡が入りました。

私はトイレを済ませた父に喪服を着せ始めました。
パジャマさえまともに着ることが出来なくなっていた父でしたが、
40年間スーツで出勤していたのが身に沁みついているのか
手を貸さずともネクタイに至るまでさっさと着こなしていました。

「お父さんスゴいね、さすがだね」と褒めると少し照れていた父。

<今からお母さんに会いに行こうね>


葬儀場へ戻り、急いで自分も喪服に着替えました。

母は最後に自分で仕立てた濃紺の着物を掛けてもらい穏やかに眠っていました。
私は1週間後に送る予定だった誕生日カードを母の枕元に入れました。

本当は「お誕生日おめでとう」と書くつもりだったカードでしたが
それは「いままでありがとう」と書くことになってしまいました。

静かに眠る母の顔を撫で、これでもう2度と母の顔を見る事は出来ないと思うと
涙が溢れて止まりませんでした。


葬儀が始まりましたが昨夜と同じように私は父の隣に座り

独りごとを制し
作法を忘れた焼香を手伝い
帰ろうとするのを制し
寝始めたのを起こし
時折思い出しように母の遺影に咽び泣くのを慰め
空腹を訴えるのを制し


母との思い出を振り返る間もないまま時間が過ぎました。


出棺の頃には、空が真っ暗になり強風で吹雪いていました。
凍えるような寒さで母が悲しんでいるように思えました。

斎場に着き、棺が火葬場へ収められても
父はヨロヨロと立ったまま悲しむでもなく泣き崩れるでもなく
ただただ立っていました。

もし四十九日まで人の魂がこの世に残っているとするならば
母はこの父の姿を見てどんな気持ちになっていたのか。

せめて私たち兄妹が最期の点火ボタンを押しながら言った
「お母さんありがとう」が届いていたことを祈りたい。


葬儀場へ戻り会食が始まると
父は喪主(兄)の挨拶を待たずして食べ始めました。

メニューもわからないまま口へ運び、食べこぼし、
食べにくいと箸を使わず手で掴み、
デザートにいたるまで全ての料理に醤油をかけようとし、
自分の食事が終わると私の料理にも手を出し食べ出す…

父に話しかけ、なんとか穏やかな時間にしようとしましたが
母の遺影が目に留まった瞬間、なんでこんな事になってしまったのかと
虚しくなり一方通行な会話をやめました。

<父が壊れていく>


そしてタイムリミットの時間になりました。
お骨上げと初七日法要には出席できない事が心残りでしたが
今から急いで自宅へ戻らなければならない。
私は急いで普段着に着替え、
帰宅して娘にバレないよう喪服をバッグの底へ入れました。

食べこぼしのついた父の口を拭いてやり
トイレに連れていった後、兄に託しました。

再び斎場へ向かうマイクロバスに手を振り
親族を見送ると慌てて新幹線へ向かいました。

新幹線は猛吹雪の悪天候で途中ストップし、
予定より遅れて夜中に自宅へ戻りました。

停車してしまった新幹線の窓から吹きすさぶ雪を眺めながら
母が途中で帰る私に「行かないで」と言っているようで涙が溢れました。

<ごめんね、お母さん ありがとう>


たった90日で実家が崩壊した件(12)につづく
# by drunkcat0220 | 2024-07-19 11:43 | たった90日で実家が崩壊した件 | Comments(0)