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小説『夫のちんぽが入らない』感想文

 これは、もう読んだ人も、まだ読んでない人も、等しく「何言ってんだこいつ」と思って頂いて差し支えないのですが、僕のこの読後感を形容するならばと考えて最初に思いついたのは十三の齢にTHE BLUE HEARTSの『チェインギャング』を初めて聴いた時のあの感じ。俺が何にむかついて、俺が何を恐ろしいと思ってて、俺がどうして自分のことが嫌いなのか、俺が何かにむかついてることも俺が明日を恐ろしいと思ってることも俺が自分が嫌いなことも、せっかくずっと何一つ知らんぷりができていたのにいきなり理由まで含めて全てをいっぺんに知ってしまった気になった、『チェインギャング』を聴いた時のあの感じ。その感じを思い出して僕は、十三の齢の僕と三十の齢の僕が同一人物である可能性を肌感覚で理解して思わず後ろを振り返る。

 僕が顔を向けている方が前ならば後ろはなんだ?

 突然男が一人、舞台に現れたかと思ったらうんこうんこと連呼する。

 そういう風に始まるのが野田秀樹の戯曲『農業少女』の冒頭なんですけれども、それは本当に何気なくそのままにまだ明るい場内に、みんな油断して一緒に観劇にやってきた隣の席の友人と談笑しているすきに藪から棒に始まるものだから、みんなうんこうんこと連呼されてはなんだかにやにやとしてしまうのだけれども、そこで男は言うのだ。

 とりあえず笑うのが正解なのだろうと悠長に構える客席を嘲笑うように言う。

「今、うんこと聞いて心のなかでクスクスと笑った方は子供です。大人はうんこで笑いません」

 実はこの男、有機肥料・つまりうんこを用いた農業の可能性を模索する、至って真面目な大人だったのだ。うんこで笑うのが子供、うんこを真面目に考えるのが大人なのです。

 さて、そこで今回紹介するのが『農業少女』初演でこのうんこうんこと連呼する大人を演じた松尾スズキが帯に推薦文を寄せて発売された小説『夫のちんぽが入らない』です。なかなかにパンチの利いたタイトルです。そういう本が出るんだよってことはネットで事前に知っていた僕ですが、今日書店で実際に面陳列してるのを見た時にはなかなかに面食らいました。そりゃ店舗の事情や都合にも寄るだろうとは思うんですけど、また面陳列の左右に並んでる他の本とのギャップがもう僕なんか面白くって鼻水出ましたけど、その両隣の本の名前挙げるのは我慢しますけども、だってそういう他をdisるみたいな言い方をして少しでも『夫のちんぽが入らない』が誰かの悪印象を受けてしまっては申し訳が立ちませんから。

 このトチ狂ったタイトルは誰だって売る方だって重々承知なはずです、トチ狂ってるってことは。だって僕、レジに持ってったら店員さんバーコードを擦るやいなやアズスーンアズで何も言わずにカバーを掛けてくれたからね。そんなコンビニで買うコンドームみたいな扱いを受ける文芸書なかなかないですよ。ほんとなんかちょっと、中学生の時に野中くんが、飼い犬のマチコがどっかの飼い犬だか野良犬だかと交尾してるのを黙ってそのまま見てて、後日おれたちはその話を野中くんから聞かされて「交尾をやめさせようともせずに見過ごして、マチコが妊娠したら俺は親に怒られるのかな」って言うからとりあえず妊娠してるかどうか確認しなきゃ駄目だってなってチャリを30分くらい漕いで学区外のドラッグストアにみんなで行ったんだよね。それで一番大柄で相対的には一番中学生には見えない大塚くんが中学生以外誰が着るんだよみたいな糞ダサいパーカーで妊娠検査薬を買ったのね。お金は野中くんだけどね。俺らは面白がってるだけだから割り勘なんかしねえ。大塚くん胸に「P」って書いてたけど、何の「P」だったのかはもう誰にもわからないですけど、その時の電光石火で妊娠検査薬を紙袋にしまわれるあの感じ、あの感じを俺は思い出したんだよ、『夫のちんぽが入らない』をレジに持ってった時に。ちなみに人間用の妊娠検査薬が犬にも効くのかは未だによくわからない。

 うんこと聞いて笑うのは子供です。大人はうんこを真面目に考えます。

 松尾スズキが作中でそんなことを言っていたように、大人がわざわざ金を賭けて何かやるっていうのはシャレじゃぁありません。どんなにふざけているように見えたとしても、そうふざけてるんだと思うのは子供であって、大人は商業出版なればこそ金がかかればこそ仕事であればこそ、常に本気で大真面目です。

 そのうえでのタイトルが『夫のちんぽが入らない』。これはちょっとタダゴトじゃありません。緊急事態です。エマージェンシーです。よっぽど何かが何かにガチッとパイルダーオンでもしていないと、こんな状況になるはずがありません。

 特設サイトを見てもわかる通り、『夫のちんぽが入らない』というタイトルで書籍を出すことの大人じゃない感じ、みんな重々承知しています。そのうえで『夫のちんぽが入らない』というタイトルでこの本を出さなくてはならないという大人の一体感もこの特設サイトから滲み出ているのは見ての通りで、僕もこのブログエントリを書くことでもしかするとこのカウパー臭い血判状の末端にでもその名を連ねることができているのかもしれません。

 しかし、実際に本書を読み終えてみると、この一連のプロモーション、ちょっとアンフェアではないかという気も、僕にはしてしまうのです。あまりにネタバレしてなさすぎなのではないか。『夫のちんぽが入らない』というパワーワードにかまけて、この本がいったいなんなのか、あまりに伝えなさすぎなのではないかという危惧のようなものも感じたりはしたのです。

 そういうわけなので、少しネタバレというか。核心には触れないまでもちんぽ以外にどんな要素が含まれているかに触れます。それを読みたくない人は回れ右。というか、ここまで読んで回れ右するやつは買って読むってことだろうから買って読め。

 

 直接、その話題をずっとしているのかというとそんなこともなくて、夫のちんぽが入らない話は字数で言えばそんなに多くもありません。僕だって四六時中ちんぽを何かしらの穴に入れて毎日を過ごしているわけでは全然ないのと同じように、この本の大半もちんぽ以外のこと、それは自分以外は自分じゃなくて世界は他人ばかりだということ、そのなかでたとえば職業を通じてだとかなんらかの方法で自分の成長を感じたいこと、それが叶わった時なんでもいいから人に必要とされたいと思ってしまうこと、それで満たされるんならみんなそうしてるということ、とにかくまぁ僕らにとって身近で身につまされる億劫なあれこれが、面白半分の真顔で迫ってくるのが本書です。ギャグだと思って手を出すときっとけっこう疲れる。

 そんな、ともすれば出来の悪い走馬灯、「あの時ああすればもっと」の集合体。著者40年分の雑多なエピソードを「夫のちんぽが入らない」という事実が貫き、幹となることで、それはひとつの物語となる(貫きはするけど入ってはいない)。

 上を向いて歩こう。涙がこぼれないように。

 昔の人気者がそんなことを言っていたらしいが、泣きたい夜だってある。そんな時、俺は、どうしたって下を向かなくてはならないのだろうか。

 なんか偉そうにぐだぐだよくわからない感想を書いているけれど、読んでてけっこう僕は、泣けてしまった。僕はそうして流した涙に近いそれを、どうやら僕は知っている。

 実のところ僕も作者の人と同じまあまあ田舎の出身で、言うてもこだまさんの田舎に比べたら全然かわいいもんで、僕が高校生になった頃、町にユニクロと吉野家がいっぺんにやってきた時は、盆と正月がいっぺんにやってきたような大騒ぎでした。来るだけ全然マシではあるもののそんな程度には田舎の人間だからこそ、こだまさんの言う田舎がどれくらいの田舎なのか、僕の地元を外様の田舎とした時に外様ではなく譜代のガチの田舎がどんなもんなのかをなんとなく想像することはできる。ここまで余談。そして僕は僕でなんやかやあって、やがて大阪に居を移す。それからこうして今も大阪にいる。そうして生きてるなかで泣きたい夜も、そりゃあある。

 そんな夜に、僕は空を見上げるのだ。だって人が多すぎるこっちが眩しすぎるから、星なんてひとつも見当たらない都会の夜空を僕は見る。

 手垢のついた話で、高いところにのぼって夜の街を見下ろし、「あの灯りのひとつひとつに生活があるんだよ」なんて言うらしいけど、僕はそういうの全然わからない。むしろウォーリーが寄り目になっても気付けないようにどこか一つの灯りのひとつが消えても気づけないだろう景色に嫌気がさす。けど、星のない夜空は違う。特に僕が大阪に移り住んで最初に暮らしたその場所は、空港にそこそこに近い場所で、いつだって飛行機が飛んでいた。星ひとつない夜空に飛行機がチカチカと発する赤い光源が、僕の目に飛び込んだ。そしていつからかそれを見上げる僕の目より涙がこぼれ落ちるようになった。それが悲しい涙なのか、嬉しい涙なのか、僕にもさっぱりわからなかった。

 そこにあるのは絶望的な距離だ。あのチカチカと光る飛行機にはきっと多くの人が乗っていて、きっとどこかに向かってるんだ。それはもう確定事項で、よっぽどのことがない限り、彼らはどこかにいってしまう。それが僕にとって嬉しいのか悲しいのかもさっぱりわからない。どこかに行く彼らが羨ましいのか何なのかもわからない。自分がどこに行きたいのかもわからない。ここにいたいのかもわからない。かと言ってどこに行きたいというのでもない。わからないけど、靴を履いて、地べたを足の指で掴んで、僕は飛行機を見上げている。そのことに僕はもうどうしようもなく泣けてしまう。そんなどうしようもない夜があるのだ。

 『夫のちんぽが入らない』を読んでいる最中に僕が流した涙は、きっとそれに類した涙だったのだろうなと思って、僕はとりあえず今日明日のコンディションを整えようとしている。その先のことはわからない。ともすれば、変な罪悪感を覚えてしまうような話ですらある。僕なりの最低限を僕が望むことが、誰かを傷つけてしまうのかもしれない。そういう嫌なことを考えさせられる本でももちろんある。それでも。それでもだ。きっと僕がこの本を、作者こだまさんのことを思い出そうとする時、ジャリジャリッと思い出すのはやっぱあの飛行機のチカチカで、上を向いてたって泣けるんだっていうそこらへんのことだと思うので、俺は読んでよかったなぁと思うし、俺も誰かにとってのそういう飛行機みたいな存在になりたいなと思った。

 たぶんこの本が書店に並んでるってことは、作者であるこだまさんが何かしらの飛行機に乗って、赤い何かをチカチカさせながら色んな人の上空を通り過ぎていってるところで、僕は隣にいる誰のこともどうしようもなくわからなくて、想像するほかないのだと思う。この本はインターネットがなかったらたぶん出版されていなかった本なのだろうとは思う。けど、「ネット発!!」みたいなことはあんまり言いたくない。ただ、僕達は自分の知覚する自分の生を引き受けるより仕方ない。ほかのことは想像するほかない。世界のことも、隣人のことも、愛する人のことも。その想像の助力に、書くとか読むとかいう行為があるのであれば、そんな福音はないだろう。そんなことを、頭上を見上げながら想像できる本だと思った。

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

『夫のちんぽが入らない』。実に変なタイトルの本だ。別にそんな話をしているばかりの本ではないのだけれど。読み終えた人ならわかるのかもしれない。我々が「ルーブル美術館」という単語を目にすると無意識からモナリザの微笑が連想されるように、読後こだまさんの半生に思いを馳せようとした時自然に、こだまさんの暴力的で実体験的な比喩の影響を受けて赤子のガッツポーズのように屹立するちんぽが想起されて、そのちんぽはシン・ゴジラのラストみたいにカチコチになっていて、それを見て何を受け取るかは自由ですよという感じは庵野と同じで。

 この本が、キキキンとジャンボジェットみたいに数多の人の頭上を駆け抜けて、誰に何を思わせて、今後、何がどうなるのか皆目検討がつかない。でも僕もやっぱこの馬鹿げたタイトルの本を一人でも多くの人に読んで欲しいと思ってしまった一人であり、だからこんなブログエントリを書いている。みんな読みましょう。読んだら感想を書きましょう。それがどうなってどうなるのかはわからない。しょせん何事もどうなるかはわからないということがどういうことなのかは本書を読めばよくよくわかるだろう。それ以上のことはなんともわからない。実写化するなら主演・門脇麦かなということくらいしかわからない。しかし、本当に良い本読んだなという感慨だけが残る。ありがとうございました。以上です。