魚津城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 12:41 UTC 版)
歴史
伝承では、建武2年(1335年)椎名孫八入道によって築城されたとされる。城の周囲は鴨川(神明川)、角川、富山湾、友道の沼に囲まれた場所に立地し、本城は二重の堀と石垣に守られ、天守閣も備えられていたと伝えられている[4]。
戦国時代に椎名康胤が上杉氏から離反すると、椎名氏を追討に出た上杉軍の手に落ちた。以後上杉氏の越中支配における重要拠点となり、河田長親が長く城代を務めた。天正10年(1582年)の魚津城の戦いで織田軍と上杉軍が凄まじい攻防戦を繰り広げた。 しかし、直後の6月6日に本能寺の変の報が届いたため、織田軍は撤退し、すぐに上杉軍が奪回した[5]。
その後、天正11年(1583年)3月[6]に態勢を整えた佐々成政により再び攻囲され、城将須田満親は開城し信濃の海津城に転出した、その成政も富山の役で前田・上杉軍に挟撃されたうえ秀吉の大軍の前に降伏、天正15年(1587年)に肥後移封されたが一揆が発生し没落した[7]。
文禄4年(1595年)には前田利長に新川郡が加増され、上杉家の越中衆(土肥氏・柿崎氏・舟見氏など)から郡内の諸城を受け取る[8]。 これにより長尾能景以来の上杉氏による越中支配が終わった。前田氏の治下では青山吉次などが城代を務めた他、富山城焼失後の慶長14年(1609年)3月22日から高岡城に移る同年9月13日まで前田利長が拠点としていたが[9]、元和の一国一城令により廃城となったとみられる。廃城後は加賀藩の御蔵「古城御蔵屋敷」として使用された(1785年発行の魚津町惣絵図にも記載されている)[10]。
現在、本丸跡地は大町小学校跡(2018年4月に魚津市本江にある魚津市立よつば小学校に統合された。)、二の丸跡は魚津簡易裁判所などの敷地となっており、遺構は殆ど残っていない[11]。
- ^ 「魚津市の文化財リスト」魚津市公式HP
- ^ 「とやま城郭カードが完成しました!」砺波市公式HP
- ^ 「とやま城郭カード一覧」砺波市公式HP
- ^ 『魚津の楽しい絵ほどき歴史』(1986年3月31日、広田寿三郎著、北陸堂書店発行)40ページ『魚津城の戦い - 戦国時代』より。
- ^ 『北陸の名城を歩く 富山編』(2022年9月1日、佐伯哲也著、吉川弘文館発行)217頁。
- ^ a b 『北陸の名城を歩く 富山編』(2022年9月1日、佐伯哲也著、吉川弘文館発行)218頁。
- ^ 佐々家は養子や兄の一族が細川氏・水戸徳川氏・上杉氏などで存続。
- ^ 同年発生の死者まで出した蒲生騒動に伴う上杉家の東蒲原と新川の交換による。このため秀吉もしくは豊臣家からの新川郡の領知判物がなく(現在の前田家(「加賀藩文書」前田育徳会など)にも加増や城の受け取りを記した記録はあるが、公儀の領地宛行状などは現存せず)、江戸時代に徳川幕府から越中国の返上を迫られる一因にもなる。
- ^ 『ふるさと石川歴史館』(2002年6月10日、北國新聞社発行)530頁。
- ^ 『とやま文化財百選シリーズ(5) とやまのお城』(2009年3月、富山県教育委員会 生涯学習・文化財室発行)16ページ。
- ^ 角川日本地名大辞典 16 富山県(1979年(昭和54年)10月8日、角川書店発行)147ページ
- ^ 『北陸の名城を歩く 富山編』(2022年9月1日、佐伯哲也著、吉川弘文館発行)219頁。
- ^ 「魚津市史」に、「天正元年(1573年)4月に甲斐の武田信玄が病没し、上杉謙信が越中及び加賀の半ばを制圧し魚津城外にて詠む」と記される。
- ^ 魚津市ホームページ「天地人と魚津」、「魚津の城」ほか
- ^ 「魚津古城絵図」(魚津図書館蔵)による。
- 魚津城のページへのリンク