1950–1999
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 09:58 UTC 版)
「ストックポート・カウンティFC」の記事における「1950–1999」の解説
1950年代のクラブはほとんど好成績を収めることはなかったが、ジャック・コナーのゴール数では注目を浴びた。彼は5シーズンで140得点をあげ(この数字は今でもクラブの最高記録である)、13回もハットトリックをしたのである。この内訳は、1試合3得点が3回(クルー・アレクサンドラ戦で1回、チェスター戦で2回)、1試合4得点が2回(ワーキントン戦とカーライル・ユナイテッド戦)、1試合5得点が2回(ブラッドフォード・パーク・アベニュー戦とトランメア・ローヴァーズ戦)である。1957-58シーズンの後にフットボールリーグが今まで南北で3部リーグが2つに分かれていたのを、3部リーグと4部リーグという全国規模の2つのリーグとして再編することにし、このシーズンの結果でリーグ編成を決めることにしていたが、ストックポートはリーグ上位でフィニッシュしたため、1958-59シーズンでも3部所属となった。 新たなリーグで3部所属となったストックポート・カウンティだが、次のシーズンでチームは4部に降格することになった。1960-61シーズンから創設されたフットボールリーグカップにストックポートは参戦し、1回戦はホームでカーライル・ユナイテッドに2-0と勝利したが、2回戦ではマンチェスター・シティに0-3で敗北した。1964-65シーズン、変わらずチームは4部所属であったが、そのシーズンのFAカップでは、昨季フットボールリーグ王者のリヴァプールとアンフィールドで対戦した。試合は、ストックポートが前半でリードを奪い、勝つ可能性が十分あった内容であったが、後半に追い付かれて1-1の引き分けとなった。残念ながら、ホームでのリプレイはリヴァプール相手に素晴らしいパフォーマンスを見せて健闘したが、0-2での敗戦となった。1964-64シーズンのヨーロピアンカップ準決勝進出チームと互角の試合をしたチームであったが、リーグ戦では勝ち点を27しか得ることができず、4部で最下位となった。しかし、フットボールリーグに残留するための選挙で45票を獲得したため、更なる降格は免れた。また1964-65シーズンには、当時のストックポート・カウンティの会長であったヴィック・バーナードが以前のチームカラーであったロイヤルブルーのストライプをユニフォームに再採用した。バーナードはクラブ認知度とイメージの向上を目指して、ゼネラルマネージャーにバート・トラウトマンを招聘した。2人は金曜日の夜に試合を開催する策を採用して、収入を増やすことには成功したが、前述した通りチームの試合結果は喜べるものにはならなかった。トラウトマンの出身はドイツであり、そのつながりから、チームは1964-65シーズンの終わりにハンブルガーSVと親善試合を行った。この試合は1-3でハンブルガーSVが勝利した。翌シーズンのプレシーズンマッチでは、ストックポート・カウンティはドイツに遠征し、VfLボーフムやSCオペル・リュッセルスハイム、そしてハンブルガーSVと、5日間で3試合を戦った。その後、トラウトマンは1966年で解雇された。ドイツ遠征した年から2年後の1966-67シーズン、チームは64もの勝ち点を得て4部優勝を果たし、3部復帰に成功した。 1969-70シーズンに再び4部に降格した後、1970年代と1980年代のリーグ戦の成績が良くなることはなく、中位に留まるか、更に悪ければ残留争いに巻き込まれるばかりであった。この間の1975年にはジョージ・ベストがクラブに加入して、3試合2得点という成績を残した。また、当時のクラブ会長のドラガン・ルキッチが協力し、1983-84シーズンに創設されたアソシエイト・メンバーズ・カップ(現EFLトロフィー)にも初年度から参戦したストックポートの、この大会の初の試合の相手はクルー・アレクサンドラであり、この試合は90分、そして延長戦が終わって2-2と決着がつかず、クラブ初のPK戦へ突入した。このPK戦のスコアは0-3となり、チームはここで敗れた。1886-87シーズンから、フットボールリーグとカンファレンス・ナショナルとの間に自動昇降格制度が設けられたが、これはストックポート・カウンティにとっては良い知らせではなかった。このシーズンでは13試合で6ポイントしか獲得することができず、またFAカップでも、当時格下のカーナヴォン・タウンに敗れるなど、カンファレンス・ナショナルへの降格は現実感があり、架空の話として笑って話せることではなかった。結局、シーズン序盤に監督職を解かれたコリン・マーフィーが再び監督に就任し、31試合で勝ち点45を獲得して何とか4部残留を果たした。しかし、このシーズン終了後すぐにコリン・マーフィーはチームを去った。 前述の通り、決して良いとは言えない20年間を過ごしたストックポート・カウンティだったが、ダニー・ベルガラが1989年3月に監督に就任すると、チームは急速な変貌を遂げ、1990-91シーズンには遂に3部への自動昇格を達成した。その後の3シーズン、昇格直後からチームは昇格プレーオフに進出したが、いずれも敗退した。1993-94シーズンのプレーオフでは決勝でバーンリーと対戦して1-2で負けたが、この試合が終了した時、ストックポートの選手はピッチ上に9人しかいなかった。というのも、マイケル・ウォレスがテッド・マクミンに唾を吐いたとして退場処分を受け、またクリス・ボーモントもレッドカードを受けて退場したのである。このような形で負けたこともあり、試合終了後の観客席で騒動が起きたという。 1995年3月、ベルガラは当時の会長であったブレンダン・エルウッドと口論になり解任され、同年4月にはデイブ・ジョーンズが監督に就任した。1995-96シーズンの開幕時には、5000以上の座席が設けられたチードル・スタンドが新設された。このシーズンには目立った実績を得ることが出来なかったが、FAカップでは3回戦に進出し、昨季の優勝チームであるエバートンと対戦した。ストックポートはグディソン・パークでエバートンと2-2の引き分けに終わり、その10日後にはホームエッジリー・パークでリプレイが行われ11000人以上の観客が集まったが、2-3で敗れた。 1996-97シーズン、3部で2位となり、遂に2部への自動昇格を果たした。また、リーグ・カップでも快進撃を見せ、プレミアリーグの3チーム(ブラックバーン・ローヴァーズ、サウサンプトン、ウェストハム・ユナイテッド)を撃破して準決勝まで進出した。準決勝でミドルズブラに1-2で敗れてしまったが、このシーズンは、クラブの歴史の中で最も成功したシーズンの1つとして記録されている。1997-98シーズンの始めにデイブ・ジョーンズがサウサンプトンの監督に就任してクラブから去ってしまったが、代わりにブラックプールからガリー・メグソンを招聘した。このシーズンでは昇格後初のシーズンながら2部で8位となり、プレミアリーグへの昇格プレーオフの進出ラインとなる6位まであと2つという素晴らしい結果を残した。この順位は、クラブの歴史で最高の順位である。 しかしながら、1998-99シーズンは16位に終わった。降格こそ免れたが、最後の14試合で僅か3勝という数字を残してしまった。8位という成績を昨季達成したメグソン監督は、最終節に既に降格が決まっていたオックスフォード・ユナイテッドに0-5で敗れてしまい、この試合をもってチームを去ることになった。次の監督はクラブでの内部昇格によってすぐにアンディ・キルナーの就任が決定した。キルナーは、敵地メイン・ロードでマンチェスター・シティに2-1で勝利するなど、監督として力強いスタートを切った。ボクシングデイの第24節終了時点でチームはプレーオフ進出圏内の6位に位置していた。
※この「1950–1999」の解説は、「ストックポート・カウンティFC」の解説の一部です。
「1950–1999」を含む「ストックポート・カウンティFC」の記事については、「ストックポート・カウンティFC」の概要を参照ください。
- 1950–1999のページへのリンク