高永楽とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 高永楽の意味・解説 

高永楽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/28 03:31 UTC 版)

高 永楽(こう えいらく、生没年不詳)は、北魏末から東魏にかけての人物。陽州公[1]本貫渤海郡蓨県高歓の祖父の兄の高真の曾孫にあたる。

経歴

高昋の子として生まれた[2]太昌元年(532年)、陽州県伯に封じられた。爵位は公に進み、北豫州刺史に累進した[3][4]元象元年(538年)、河橋の戦い高昂西魏軍に敗れて撤退したとき、永楽は河陽の南城を守備していた。高昂が入城しようとしたが、西魏軍の追撃が迫ったため、永楽は城門を明けず、高昂は西魏軍に捕らえられた。高歓は激怒して、永楽に杖罰200を加えた[5][4]。後に北豫州刺史を退任したが、永楽の家には財産がなかった。高歓が理由を訊ねると、永楽は「裴監が長史として、辛公正が別駕として、王の委任を受けて1斗の酒や2羽の鶏さえ入れようとしないのです」と答えた[6][4]興和年間、永楽は驃騎大将軍・儀同三司済州刺史に任じられた[2]。裴監は済州長史に、辛公正は済州別駕になった。永楽が済州に赴任すると、裴監と辛公正の諫めが聞き入れられないむね、報告が高歓のもとに届いた。高歓は2人が清廉で実直なことを知り、ともに抜擢して任用した[6][4]

永楽は済州で死去した。太師太尉録尚書事の位を追贈された。は武昭といった[6][4]

子はなく、従兄の高思宗の次男である高孝緒が後嗣となり、爵位を嗣いだ[6][4]

脚注

  1. ^ 『北斉書』および『北史』では陽州公、『魏書』では陽川県開国公とする。『北史』中華書局校勘記は『冊府元亀』巻284を引いて「陽周」の転訛とみなしている。
  2. ^ a b 魏書 1974, p. 754.
  3. ^ 北斉書 1972, p. 181.
  4. ^ a b c d e f 北史 1974, p. 1851.
  5. ^ 北斉書 1972, pp. 181–182.
  6. ^ a b c d 北斉書 1972, p. 182.

伝記資料

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', ''];function getDictCodeItems(index) {return dictCodeList[index];}

すべての辞書の索引

「高永楽」の関連用語

1
18% |||||


高永楽のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable() {return sideRankTable;}

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高永楽のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高永楽 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS