身代金の要求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 07:56 UTC 版)
1942年3月初旬、マライ軍政部次長・渡辺渡大佐配下の高瀬通は、軍政部で対日協力団体・昭南華僑協会の代表・林文慶博士ら協会幹部に対して、「中国・国民政府を支援し、英軍に協力して日本軍に仇なした華人は本来皆殺しにするところであるが、罪を贖うことを行動で示せば赦してやる」として、日本軍への献金を要求した。華僑協会の幹部たちは、高瀬に献金を行う意思を伝え、高瀬の「上層部に伝え、追って指示する」との話を信じて指示を待った。その間に、華僑協会の事務所が置かれていた吾廬倶楽部などから資産家の華人が次々に憲兵隊に連行され、Y.M.C.A.や中央警察署で拷問を受けているというニュースが伝わってきた。 数日後、華僑協会の連絡会員約50名は、ナッシム路(Nassim Road)にあった軍政部の宿舎に呼び出され、渡辺・高瀬から、改めて、5,000-6,000万ドルの現金を日本軍に献金すれば、身の安全と財産の保全を約束し、国民政府に献金を行い英軍に協力した罪を不問に付す、と献金するよう提案を受けた。
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