趙思温とは? わかりやすく解説

趙思温

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/08 05:06 UTC 版)

趙 思温(ちょう しおん、生年不詳 - 会同2年3月20日[1]939年4月12日))は、(契丹)の軍人政治家は文美。盧龍軍の人。

経歴

若くして果断で、膂力にすぐれ、盧龍軍節度使の劉仁恭の幕下に入った。李存勗が燕に対して問罪の軍を起こすと、思温は偏師を率いてこれをはばんだ。流れ矢が目に当たって流血したが、裳を裂いて血止めし、なおも戦い続けた。思温は李存勗の将の周徳威に捕らえられた。李存勗は思温の心意気を買ってその縛めを解いた。思温は李存勗に信用されるようになり、後梁莘県で戦って、驍勇で知られ、平州刺史に任ぜられ、平営薊三州都指揮使を兼ねた。

神冊2年(917年)、耶律阿保機が燕の地を経略すると、思温は契丹に降った。渤海に対する征戦に従い、漢軍都団練使となり、力戦して扶余城を抜いた。身に数カ所の傷を負ったので、耶律阿保機が自ら思温のために薬を調合したという。

太宗が即位すると、功績により検校太保・保静軍節度使に抜擢された。天顕11年(936年)、石敬瑭が救援を求めてくると、太宗は思温に命じて嵐州・憲州の間から出兵させて石敬瑭を援助させた。撤兵すると、南京留守・盧龍軍節度使・管内観察処置等使・開府儀同三司に転じ、侍中を兼ね、協謀靖乱翊聖功臣の号を賜った。まもなく臨海軍節度使に転じた。

会同元年(938年)、耶律牒蝋に従って後晋に冊礼使としておもむき、帰還すると、検校太師の位を加えられた。会同2年(939年)3月、自宅の庭に隕石が落ちてから、薄疾(不整脈)を発症して亡くなった。昌平県五華山に葬られ、太師・魏国公の位を追贈された。

子に趙延煦・趙延靖がいた。

脚注

  1. ^ 『秋澗集』巻48, 盧龍趙氏家伝による。

伝記資料





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「趙思温」の関連用語

1
12% |||||

2
6% |||||

趙思温のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



趙思温のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの趙思温 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS