櫛橋政伊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/10 07:30 UTC 版)
櫛橋 政伊(くしはし まさこれ)は、戦国時代の武将。播磨国志方城主。異説もあるが(後述)、同城の最後の城主である。
注釈
- ^ 櫛橋家末裔によって兵庫県加古川市の観音寺墓地に建立された櫛橋一族の墓碑による。
- ^ 政伊の次男・定重の家。
- ^ 赤松支流櫛橋氏との混同。『播磨鑑』でも採用されており、政伊の父とされる櫛橋則伊と同人とされている。
- ^ 正確な時代は不明だが、祐貞名義の発給文書が残っており、少なくとも櫛橋祐貞は実在の人物であると思われる。
- ^ 「伊家の子が伊定」という点では共通しているが、他史料で伊定の子女とされる人物(櫛橋光など)が揃って伊定の弟妹とされている。
- ^ 正確には、政伊の妹・光の実父の名を伊定としている。
- ^ 櫛橋則伊は政伊の曾祖父にあたる人物も同名であり、錯綜の可能性もある。
- ^ 地誌『印南郡誌』では「櫛橋左京亮伊則」(上述)と同一人物ではないかと比定している。
- ^ 当時長治はまだ若く、叔父である別所吉親と別所重宗の後見を受けていたとされており、この謀反に関しても叔父の吉親の意向が強く働いたと推測されている。吉親は、加古川城で行われた羽柴秀吉と播磨の諸将との間で行われた軍議において、播磨諸将らの前で公然と秀吉に不快感を表したという逸話も残っている。吉親と意を異にしたもう一人の叔父の別所重宗は、三木城方を離れ織田方に与している。
- ^ 織田信忠率いる織田本隊は、支城の落城を見届けた後の8月17日に播磨から撤兵した。
- ^ 「櫛橋家系図」によると、政伊は兵糧が尽きたために、別所長治同様に自害した、とされている。しかし長治の自害は2年後の天正8年であり、史実とは異なる。
出典
櫛橋政伊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/03 08:12 UTC 版)
※この「櫛橋政伊」の解説は、「櫛橋伊定」の解説の一部です。
「櫛橋政伊」を含む「櫛橋伊定」の記事については、「櫛橋伊定」の概要を参照ください。
- 櫛橋政伊のページへのリンク