楊美とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 楊美の意味・解説 

楊美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 08:48 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

楊 美(よう び、931年 - 978年)は、五代後漢から北宋にかけての武将。もとの名は光美。本貫并州文水県

経歴

容貌は美しく体格は雄偉で、武力にすぐれ、豪侠を自任していた。後漢の乾祐年間、郭威が李守貞・王景崇・趙思綰を討つにあたって、楊美は郭威の軍門を訪れて策を献じた。郭威は楊美と語りあって気に入り、幕下にとどめた。後周広順元年(951年)、楊美は禁軍大校に累進し、柴栄の下で淮南に遠征して、功績により鉄騎都指揮使に抜擢され、白州刺史を兼ねた。

建隆元年(960年)、北宋が建てられると、楊美は内殿直都知となった。建隆3年(962年)、青州北海県が軍となると、楊美は北海軍使となった。乾徳2年(964年)、召還されたが、北海軍の民数百が宮殿を訪れて楊美の留任を求め、説得しても立ち去らなかったため、主導者を鞭打ってしりぞけた。楊美は馬歩軍都頭に転じた。後蜀の征討に参戦し、帰州路戦棹左右廂都指揮使となった。乾徳3年(965年)、後蜀が滅ぶと、内外馬歩軍副都軍頭に転じ、恩州団練使を兼ねた。開宝2年(969年)、端州防禦使となった。開宝6年(973年)、都軍頭を加えられ、宣州観察使を兼ねた。まもなく虎捷左右廂都指揮使に任じられ、河西軍節度を兼ねた。

開宝9年(976年)、党進と潘美北漢を攻撃すると、楊美は行営馬軍都虞候となった。太平興国2年(977年)冬、保静軍節度使として出向した。太平興国3年(978年)夏、病のため官職を解任されて開封に帰った。太宗は内侍と道士の馬志を派遣して病状を診させ、医薬を届けさせた。まもなく、死去した。享年は48。侍中の位を追贈された。賜物や奉禄は親戚や旧知に分配し尽くしていたため、亡くなったときには家に財産といえるものが残されていなかった。

伝記資料

  • 宋史』巻273 列伝第32



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「楊美」の関連用語


2
36% |||||


4
16% |||||

5
12% |||||


7
10% |||||

楊美のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



楊美のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの楊美 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS