昭懐皇后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/26 02:28 UTC 版)
昭懐皇后(しょうかいこうごう)は、北宋の哲宗の皇后。姓は劉氏。諱は不詳[2]。
- ^ 新法派政権によって記された劉氏の過去の記述は抹消された。『宋史』皇后伝によると、劉氏の享年は数え35歳とされるが、信用できない。『宋史』列伝第104と『続資治通鑑長編』に残る記録によると、劉氏は哲宗の少年時代の侍女であった。元祐4年12月(西暦で1090年)に劉氏は妊娠の疑いから乳母を雇用し、哲宗の祖母の宣仁太后にそれをとがめられて殴り倒され、追い出された。前述の享年が正しければ、当時は数え11歳であって、妊娠後期になる可能性はほとんどない。
- ^ 「清菁」とされることがあるが、信頼できる史料上には見られない。
- ^ 南宋成立後、哲宗の実録が改訂されたが、新法派政権によって記された孟皇后の呪詛の記述は抹消され、孟皇后の直接の証言(孟皇后の娘の福慶公主の病のため、治病符水が皇宮へ持ち込まれた)などが記されるのみになった。
- ^ 哲宗の寵愛の獲得と劉婕妤の呪殺のため、国禁であった呪法「雷公式」を行った。
- ^ 哲宗の茶に媚薬を入れて飲ませた。
- ^ 結核による死者の骨灰を劉婕妤の寝宮に散らした。
- ^ 哲宗の長く生きた2人の女子(淑和帝姫、淑慎帝姫)のうちのいずれか。
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