昇平丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/20 18:37 UTC 版)
昇平丸(しょうへいまる)は、幕末に薩摩藩が建造した洋式軍艦である[1]。 後に江戸幕府に献上されて昌平丸と改称、練習船として使用された。 明治維新以後は開拓使で輸送船として使用されたが、 明治3年(1870年)に座礁して失われた。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa #写真日本軍艦史(1983)p.2
- ^ a b c #和船II、口絵
- ^ 西日本重工業(株)長崎造船所『三菱長崎造船所史. 続篇』
- ^ 公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史』上, 原書房, 1968, p. 733。
- ^ 『幕府海軍の興亡』107ページ、同ページの表によれば少なくとも同年末まではこれに従事。なお、軍艦による神奈川警衛は元治元年4月に終了している(同書103ページ)。
- ^ 暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照。
- ^ 吉野真保編『嘉永明治年間録 四巻』安政二年二月薩州ニ於テ製造ノ船琉砲船江戸海ニ着ス琉砲船長十五間檣三本出し共裾黒の帆標帆三段ふ掛け中程ふ裾黒の吹流し付艫の方日の丸並轡の紋船標小織布交の吹貫を立つ
- ^ 暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照
- ^ 松本健一『「日の丸・君が代」の話』
- ^ 安達(1995年)、281-283頁。
- ^ 「大蔵省所管咸臨丸昇平丸ヲ開拓使ニ属ス」 アジア歴史資料センター Ref.A07062407100
- ^ a b 函館市史デジタル版 通説第2巻第4編 箱館から近代都市函館へpp.830-831
- ^ 明治3年『開拓使公文鈔録』
- ^ 道南ブロック博物館施設等連絡協議会「昇平丸慰霊碑」
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