戦後のジャワ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:07 UTC 版)
ジャワ戦争でオランダ軍は甚大な被害を受けたが、戦争でジャワの不平派を一掃したオランダはスルタン家の領土を大幅に割譲させ、王侯領内にオランダ人官吏を長官とする裁判所を設立して司法権の優位性を獲得し、スルタン家の影響力を排除した。さらに中国人が大規模な土地を所有することを禁止し、華僑の影響力も排除した。これによりスルタン家・華僑の勢力は衰退し、特にジャワ戦争でディポヌゴロ軍の標的として攻撃された中国人社会は人的被害に加えて経済的な損害も受けたため、出世頭だったタン・ジン・シンは中国人社会の恨みを買い孤立し、ジャワ戦争終結の翌年1831年に死去した。また、東インド総督ヨハネス・ファン・デン・ボッシュが導入した強制栽培制度により、農民は作物の20%を税として納めるか、または1年の内60日間は強制労働に従事することを強制された。これによりオランダは莫大な利益を得て財政を立て直し、オランダ領東インドは重要な利益供給源となった。 反乱の鎮圧後、オランダ軍は休戦状態だったパドリ戦争を再開し、ジャワの兵力を西ジャワ州・ミナンカバウに動員し、兵力で劣るパドリ派の砦を攻略した。1837年にはパドリ派指導者トゥアンク・イマーム・ボンジョール(インドネシア語版)を捕縛し、翌1838年にミナンカバウ全土を平定した。ジャワ戦争とパドリ戦争を最後にオランダ領東インドでは大規模な反乱は起こらず、1945年のインドネシア独立宣言までオランダの植民地支配を受けることになった。
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