強制接収
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1953年4月3日、米軍は布令第109号「土地収用令」を公布し、それからほぼ一週間後の4月12日に真和志村銘苅を皮切りに、読谷村渡具知、小禄村具志、伊江村真謝、宜野湾村伊佐浜など、有用性の高い平野部の土地を次々と接収していった。山が海岸近くまでせりだす地形の多い恩納村で、唯一、平らな土地が広がる恩納地区の平地も、同じ頃、米軍によって接収されている。 沖縄公文書館に残されている当時の琉球列島米国民政府の記録「琉球警察報告書」における恩納村に関する資料「軍事使用の土地接収に関して開かれた会議」によると、恩納区公民館で1954年4月13日15時から16時50分にかけて村の会議が開かれており、(1) 米国民政府 (USCAR) から「南恩納区の西側のすべてのエリア」を米軍に明け渡すか譲渡するか、と要求されていること (2) 没収する面積は14万8千坪にもなり、そのことで恩納区及び南恩納区の農地の約3分の2が失われること等、および民政府の公安警察がこの会議に出席した人物名と発言内容などをすべて英文で記録している。恩納村の会議では満場一致で、米国民政府、行政主席、立法院議長に陳情書を提出することを決議し、村長並びに141名が陳情書に名を連ねた。請願要旨には、恩納村唯一の穀倉地帯にして、約1000人の食糧を確保し得る優秀な耕地であり、軍用地として接収されれば耕地を失うことで食糧事情が深刻化し、さらに「貧困なる村財政」の運営に支障をきたすと訴えている。
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