廉恵山海牙
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廉 恵山海牙(れん けいさん・カヤ、生没年不詳)は、14世紀半ばに大元ウルスに仕えたウイグル人官僚。字は公亮。モンゴル帝国初期に活躍したウイグル人官僚ブルト・カヤの孫にあたる人物。
- ^ 山口1985,85頁
- ^ 『元史』巻145列伝32廉恵山海牙伝,「廉恵山海牙字公亮、布魯海牙之孫、希憲之従子也。父阿魯渾海牙、広徳路達魯花赤。恵山海牙幼孤、言及父、輒泣下。独養母而家日不給、垢衣糲食不以為恥。母喪、哀毀踰礼、負喪渡江而風濤作、舟人以神龍忌屍為言、即仰天大呼曰『吾将祔母于先人、神奈何阨我也』。風遂止。年弱冠、大臣欲俾入宿護衛。辞曰『吾大父事世祖、以通経号廉孟子。今方設科取士、願読書以科第進』。乃入国学積分」
- ^ 『元史』巻145列伝32廉恵山海牙伝,「至治元年、登進士第、授承事郎・同知順州事。有弓匠提挙馬都剌者、怙勢奪州民田、同列畏之。恵山海牙至即治其事。在官期年、用薦者召入史館、預修英宗・仁宗実録、尋拝監察御史。時中書省有大臣貪猥狼籍、即抗章劾之、語同列曰『儻以言責獲罪、吾之職也』。既又劾奏明里董阿不当攝祭太廟。遷都水監、疏会通河、隄灤・漆二水、又修京東閘。歴祕書丞・会福総管府治中、上疏言二月迎佛費財蠹俗、時論韙之。出僉淮東廉訪司事、遷江浙行省左右司員外郎、既而歴僉河東・河南・江西廉訪司事、陞江南行御史台経歴。時山東塩法大壊、以選除都転運使、曾未期月、用課最、賞賚金幣・上尊」
- ^ 『元史』巻145列伝32廉恵山海牙伝,「至正三年初、行郊礼、召拝侍儀使。明年、預修遼・金・宋三史。遷崇文太監。自是累遷為河南行省右丞、時有詔発民治決河、遍騒属郡、亟以不便上言、而時宰不用。遷湖広行省右丞、以武昌失守連坐、既而事白、遷江西行省右丞」
- ^ 『元史』巻145列伝32廉恵山海牙伝,「時所隷郡県多陥于賊、乃与平章政事・司徒道童協謀殫力、以定守禦招捕之策、就除本道廉訪使。未幾、江西省治亦陥、恵山海牙遁往福建。久之、除僉江浙行枢密院事、改拝福建行省右丞、以兵鎮延平・邵武、境内以寧。居歳餘、奉詔還治省事、総備禦事、且督賦税由海道供京師、朝廷頼焉。遷行宣政院使。明年、拝翰林学士承旨・知制誥兼修国史。卒、年七十有一」
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