奥羽鎮撫総督府
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奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)とは、鳥羽・伏見の戦いの後、慶応4年2月初旬に新政府が江戸をはじめ東国を鎮圧するための東征大総督府(親征大総督府)の下に、朝敵に指定した会津藩討伐と東北の鎮圧を目的に設置した機関。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P36。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P40。
- ^ a b 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P42。
- ^ 『防長回天史 第6編上(第10)』P92-96「官軍東征」。
- ^ 『やまがた明治零年』P22。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P71 「この決定は、どうやら大総督府参謀林通顕の、ほとんど独断でなされたふしがある」と記している 。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P67。
- ^ 『三重県総合博物館 研究紀要 第1号 2014 NO1』「戊辰戦争における奥羽鎮撫総督府の対会津藩戦略の実態―西日本平定過程との比較をもって―」水谷憲二 2015.3.31 P70-71
- ^ 『防長回天史 第6編上(第10)』P96。
- ^ 『防長回天史 第6編上(第10)』P134。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P71。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P73。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P72「仙台戊辰史記載の仙台藩三好監物と黒田・品川のやりとり」 。
- ^ 『史談会速記録 複製版 合本19(千坂高雅談話 明治35.36)』P45「黒田さんなどは寛容」P46「雲井龍雄などは九条殿なり澤、醍醐さんが今日も来てくれ、明日の来てくれ、仙台はどうだ、二本松はどうだ、どこはどうだというお尋ねがあって、申し上げ、種々頂戴物をして戻って来た」
- ^ 『史談会速記録 複製版 合本19(千坂高雅談話 明治35.36)』原書房 1971-76 P46千坂が参謀の突然の人事変更を聞き、大山・世良に面会しに行ったら「大山・世良に変更になったら、黒田・品川と違って、我々を席の外に置く待遇の有様、これは困ったものである」
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P74。
- ^ 『防長回天史 第6編上(第10)』P134-135。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P75。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P86-87。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P76。
- ^ a b 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P103。
- ^ 『三重県総合博物館 研究紀要 第1号 2014 NO1』「戊辰戦争における奥羽鎮撫総督府の対会津藩戦略の実態―西日本平定過程との比較をもって―」水谷憲二 2015.3.31 P74-76
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P103「嘆願の趣旨は尤もである。しかし醍醐はじめ参謀にも相談しなければならず、独断では差図できない」
- ^ a b 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P105。
- ^ 『明治史研究』P11。
- ^ 『三重県総合博物館 研究紀要 第1号 2014 NO1』「戊辰戦争における奥羽鎮撫総督府の対会津藩戦略の実態―西日本平定過程との比較をもって―」水谷憲二 2015.3.31 P76-77「今般、会津謝罪降伏歎願書幷奥羽各藩添願書被差出、熟覧之処、朝敵不可容天地罪人ニ付、難被為及御沙汰、早々討入可奉成功者也」
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P117。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P109。
- ^ 『三重県総合博物館 研究紀要 第1号 2014 NO1』「戊辰戦争における奥羽鎮撫総督府の対会津藩戦略の実態―西日本平定過程との比較をもって―」水谷憲二 2015.3.31 P67 【谷林博著「世良修蔵」冒頭部の引用】
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P108。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P115。
- ^ 『戊辰戦争 敗者の明治維新』P121。
- ^ 『戊辰雪冤 米沢藩士・宮島誠一郎の明治』P143。
- ^ 『澤為量・奥羽鎮撫総督の征討記録から-戊辰戦争出羽戦線記』P211 年表。
- 1 奥羽鎮撫総督府とは
- 2 奥羽鎮撫総督府の概要
- 3 出典
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