ぞう‐ちょう〔‐チヤウ〕【増長】
増長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 06:11 UTC 版)
「モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス」の記事における「増長」の解説
晴れて邪魔な夫と離婚できたフランソワーズは、この年1669年に王の娘ルイーズ・フランソワーズを生んだ。これ以降、誰はばかる事なく、フランソワーズは国王第一の公妾として、宮廷で絶大な権力を振るうようになった。ルイーズ・ド・ラヴァリエールを追い落とし、ルイ14世の寵愛を独占する事に成功したフランソワーズは、1670年にメーヌ公ルイ・オーギュスト、1672年にヴェクサン伯ルイ・セザール(英語版)、1673年にルイーズ・フランソワーズ(コンデ公ルイ3世妃)、1674年にルイーズ・マリー・アンヌ、1677年にフランソワーズ・マリー(オルレアン公フィリップ2世妃)、1678年にトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドルと、実に7人の子供をもうけた。 フランソワーズは、ルイ14世の寵愛の深さに増長し、驕り高ぶり、以前から見せていた傍若無人な態度がますます露骨になっていった。伯爵夫人になっていたルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールをもフランソワーズは自分の召使同然に扱うようになり、事あるごとに辛く当たるようになった。さらに、王妃マリー・テレーズの事でさえ、長い間王に顧みられぬ冴えない王妃と、あからさまに軽んじた。 誰も恐れる者がないフランソワーズは、宮廷内で女王然とふるまうようになり、自分の権力を誇示するため、金に糸目を付けず豪華な宝石やドレスを注文した。フランソワーズは他の女性達と自分は違うのだと思っており、常に自分が一番でないと気が済まなかった。当然、このようなフランソワーズの目に余る態度は、王妃や宮廷の他の多くの人々の怒りを買い、フランソワーズの敵は増えていった。 高慢なフランソワーズが「王妃は無知なお人好し」と言った時には、さすがにルイ14世も激怒したが、王のフランソワーズへの寵愛は衰えなかった。外国の使節の中には、影の薄いマリー・テレーズより目立つフランソワーズを王妃だと誤解する者までいた。1674年にはルイーズがカルメル会修道院に入った。ルイーズが修道院に発つ前に、フランソワーズの館で、ルイーズの送別を記念して晩餐会が開かれ、全ての宮廷人が招待された。フランソワーズは自分の体面のため、できればルイーズの修道院入りを阻止したいと思っていた。しかしそれも失敗したため、なんとか自分がルイーズを修道院に追いやったという印象を与えぬため、しきりにルイーズを称賛した。
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