北条時国
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北条 時国(ほうじょう ときくに)
- ^ a b 「入来院家所蔵平氏系図」の名越流北条氏系図(山口、2002年、P.4)の時cによる。
- ^ 「入来院家所蔵平氏系図」の名越流北条氏系図(山口、2002年、P.4)の時國の項に「平実時為子譲所領、」(平実時子と為し所領を譲る)と注記されている。
- ^ 細川、2000年、巻末「鎌倉政権上級職員表」No.65「佐介時国」の項。没年および「六波羅守護次第」(東京大学史料編纂所謄写本)に掲載の没年齢(享年22)の逆算による。
- ^ a b 細川、2000年、巻末「鎌倉政権上級職員表」No.65「佐介時国」の項による。典拠は「六波羅守護次第」(東京大学史料編纂所謄写本)、『前田本平氏系図』。
- ^ 細川、2000年、巻末「鎌倉政権上級職員表」No.65「佐介時国」の項。『尊卑分脈』の時國の項に「弘安七六廿被召下依惡行也」とあるほか、『武家年代記』建治3年条・弘安7年条、「六波羅守護次第」、『佐野本北条系図』、『続群書類従』所収「北条系図」、『浅羽本北条系図』にも同様の記載が見られる。これらは時期を6月20日とするが、『鎌倉年代記』建治元年条および『帝王編年記』(国史大系本)巻26では22日、『関東開闢皇代並年代記事』では23日とする。
- ^ a b c d e f g 細川、2000年、巻末「鎌倉政権上級職員表」No.65「佐介時国」の項による。
- ^ 本郷、2003年。
- ^ 『続群書類従』所収「足利系図」では、文保元年(1317年)6月25日に35歳で切腹とするが、没年については『滝山寺縁起』温室番帳と 奥宮正明編『蠧簡集残編 六』所収「足利・今川系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)に記載の弘安7年が正しいとされる。詳しくは足利家時の項を参照のこと。
- ^ 本郷、2003年。田中大喜「中世前期下野足利氏論」(田中、2013年、P.46)でもこの説が紹介されている。
- ^ 細川、2007年、P.99。
- ^ 田中、2013年、P.23・P.46(田中大喜「中世前期下野足利氏論」)。
- ^ 『鎌倉年代記』裏書の弘安7年(1284年)条に「八月之比、修理権亮時光越後守時盛息陰謀事露顕之間、歴種々拷訊之後、配流佐土国、与満実法師同意云々、」〔原文ママ〕とあり、『保暦間記』にも「弘安二年…(略)…同四年…(略)…同八月、修理亮越後守盛時男時房孫也、隠犯事顕テ、佐渡国へ遠流セラル。蒲実法印同意云云」〔原文ママ〕とあって、時光が陰謀の罪によって流罪となったことは確かである。但し、この事件の時期については、前者の弘安7年(1284年)に対し、後者は弘安4年(1281年)と異なっている。
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