三輪茂義とは? わかりやすく解説

三輪茂義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/29 10:07 UTC 版)

三輪 茂義
生誕 1892年5月15日
日本愛知県
死没 (1959-02-27) 1959年2月27日(66歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1912年 - 1945年
最終階級 海軍中将
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三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 1959年2月27日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

愛知県出身。三輪茂十郎の三男として生れた。1908年7月に愛知一中から海軍兵学校を受験したが、不合格であった。しかし、入校予定者であった生徒が死亡したことにより補欠合格、海軍兵学校第39期に2週間遅れて入校する。[1]1911年7月、海軍兵学校を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、第11潜水艇隊艇長、第8潜水艇長、第1潜水戦隊参謀海軍潜水学校教官などを経て、1924年11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。

呂二六潜水艦」長、第1潜水戦隊参謀、第2潜水戦隊参謀、潜水学校教官、軍令部第1班参謀、練習艦隊参謀、第30潜水隊司令艦政本部員、「鬼怒艦長馬公要港部参謀長などを歴任し、1938年11月、海軍少将に進級。

佐世保防備戦隊司令官を経て、太平洋戦争を第3潜水戦隊司令官として迎えた。艦政本部出仕を経て、1942年11月、海軍中将となった。艦政本部第7部長、海軍潜水艦部長を歴任し、1944年7月、第6艦隊司令長官となり潜水艦戦を指揮した。1945年1月23日、呉を出港する呂50を第六艦隊首脳部とともに見送っている。5月、軍令部出仕となり終戦を迎え、同年9月、予備役となった。

1947年11月、公職追放の仮指定を受けた[2]

栄典

勲章

脚注

  1. ^ 海軍兵学校『海軍兵学校沿革』原書房、1968年、321頁。
  2. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、42頁。NDLJP:1276156 
  3. ^ 『官報』第4280号「叙任及辞令」1941年4月16日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。




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