エウゲニウス3世 (ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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エウゲニウス3世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 06:28 UTC 版)

エウゲニウス3世
第167代 ローマ教皇
教皇就任 1145年2月15日
教皇離任 1153年7月8日
先代 ルキウス2世
次代 アナスタシウス4世
個人情報
死去 1153年7月8日
ティヴォリ
埋葬地 サン・ピエトロ大聖堂
その他のエウゲニウス (曖昧さ回避)
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エウゲニウス3世(Eugenius III, ? - 1153年7月8日)は、ローマ教皇(在位:1145年2月15日 - 1153年7月8日)[1][2]第2回十字軍を呼びかけた教皇として知られている。本名はベルナルド・ピニャテッリ(Bernardo Pignatelli)[3][4]またはベルナルド・パガネリ(Bernardo Paganelli)[5]カトリック教会福者でもあり、記念日は7月8日[5]

生涯

イタリアピサ近郊出身と見られ[1]1130年クレルヴォーのベルナルドゥスと出会い、1138年シトー会クレルヴォー修道院英語版に入り、ベルナルドゥスの下で修行した[6]。翌1139年に就任したローマ近郊のシトー会修道院の院長を経て、1145年にはベルナルドゥスの影響力によって初のシトー会出身のローマ教皇となった。しかし、アルノルド・ダ・ブレシアに率いられた市民自治を求める反乱軍によって当時のローマは混乱状態にあり、戴冠のためサン・ピエトロ大聖堂に向かったが反乱軍に阻止され、やむなくローマを放棄し北東のシトー系修道院・ファルファ修道院英語版で戴冠した後、ヴィテルボへ逃れた。以後在位期間のほとんどをフランスドイツトリーアなど各地に滞在して過ごすことになる[5][7][8]

十字軍国家エデッサ伯領が失われたことをフランスで聞き、1145年12月、ルイ7世教皇勅書を送り、十字軍を呼びかけた[9][10]。ベルナルドゥスの勧誘演説により、ルイ7世とドイツ王コンラート3世といった国王2人を含む多くの参加者を得たが、1147年から1148年に行われた第2回十字軍はほとんど成果を挙げられず大失敗に終わった。また、1149年トゥスクルム英語版で十字軍から帰還途中のルイ7世と王妃アリエノール・ダキテーヌに出会い、遠征中に不仲になっていた2人を慰めて夫婦関係を修復させた(しかし2人は1152年に離婚)[5][7][11]

一方、ローマは混迷を極め教会、反乱軍、双方とも事態を打開するため和平を結び、市民自治を合法と認める条件で1152年にエウゲニウス3世は無事に帰還した。翌1153年に教皇領確保のためコンラート3世の甥のドイツ王フリードリヒ1世と同盟(コンスタンツ条約英語版)を結んだが、7月8日に避暑のため滞在していたティヴォリで死去、ローマ(現在はバチカン市国)のサン・ピエトロ大聖堂に埋葬された。ちなみにベルナルドゥスも1月ほど後の8月20日に死去した[1][7][12]

師であるベルナルドゥスから書簡『デ・コンデラティオーネ(教皇としてなすべき事柄)』を送られ、教会改革と聖職者の清貧実践を勧められた。この教えを実行に移す努力を行い亡命中でたびたび教会会議を召集、パリランス、トリーア、クレモナなどで開いた教会会議を通じて教会改革を推し進めた。1872年ピウス9世により列福された[7][13]

世界遺産との関連

世界遺産として1981年に認定されたフォントネーのシトー会修道院の教会堂を献堂したことでも知られるが、これは上記放浪中の1147年のことであった[6][14]。また、1990年に登録されたサン・ジミニャーノ歴史地区にあるサン・ジミニャーノ参事会教会英語版はエウゲニウス3世による建設である[15]

脚注

  1. ^ a b c Pope Blessed Eugene III”. Catholic Encyclopedia. Eugene III. 2013年12月7日閲覧。
  2. ^ エウゲニウス【Eugenius】”. コトバンク. 2013年12月7日閲覧。
  3. ^ スチュアート、P123。
  4. ^ バンソン、P99。
  5. ^ a b c d 新カトリック大事典編纂委員会、P751。
  6. ^ a b 西田雅嗣『シトー会建築のプロポーション』中央公論美術出版、2006年、154頁。ISBN 4-8055-0488-9 
  7. ^ a b c d キリスト教人名辞典、P255。
  8. ^ スチュアート、P123、バンソン、P99 - P100。
  9. ^ Kenneth M. Setton , ed. “The first hundred years”. A History of the Crusades, volume, I. University of Wisconsin Press. pp. 466-467. 2013年12月7日閲覧。
  10. ^ この教皇勅書の詳細はen:Quantum praedecessoresを参照。
  11. ^ 桐生、P36 - P38、P41 - P42、P70 - P71、石井、P145 - P146、P184 - P187、ペルヌー、P57、P89 - P90、スチュアート、P123 - P124、バンソン、P100。
  12. ^ 新カトリック大事典編纂委員会、P751 - P752、スチュアート、P124、バンソン、P100 - P101。
  13. ^ 新カトリック大事典編纂委員会、P752、バンソン、P101。
  14. ^ ヴォルフガング・ブラウンフェルス 著、渡辺鴻 訳『図説西欧の修道院建築』八坂書房、2009年、145-147頁。ISBN 978-4-89694-940-7 
  15. ^ サンジミニャーノ参事会教会 【サンジミニャーノサンジカイキョウカイ】”. コトバンク. 2013年12月7日閲覧。

参考文献

  • 『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局、1986年。
  • 桐生操『王妃アリエノール・ダキテーヌ -リチャード獅子王の母-新書館、1988年。
  • 石井美樹子『王妃エレアノール ふたつの国の王妃となった女平凡社、1988年。
  • レジーヌ・ペルヌー著、福本秀子訳『王妃アリエノール・ダキテーヌ』パピルス、1996年。
  • 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第1巻』研究社、1996年。
  • P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
  • マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。



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