「本日も樺太新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございます。この電車は、マトリョーシカ号モスクワ行きです。途中の停車駅は、ユジノサハリンスク…」。こんな車内アナウンスを聞ける日が、いつか来るのだろうか。
日露経済協力の目玉としてロシア側が要求してきたシベリア鉄道の北海道延伸案。日本の高速鉄道技術をロシアに導入する計画も併せて浮上しており、日本列島をモスクワ・欧州と陸路でつなぐ構想が、にわかに盛り上がりを見せている。
実は、ロシアは過去にも何度か日本側へ延伸案を打診しており、2013年には露極東発展省がサハリン(樺太)と大陸を結ぶ総工費1兆円の鉄道橋構想を発表した。結構本気の案件だ。
ただ、日本側では膨大な建設費に見合う効果があるのか疑問視する声が強く、政府筋は「まるで夢みたいな話だ」と一笑に付す。果たして夢物語か現実か。日本と大陸が鉄道でつながった日をイメージすると…。
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稚内からサハリン(樺太)へ、海底を抜ける「宗谷トンネル」に入ると、ロシア語と日本語双方でアナウンスが流れてきた。
「みなさまロシアへようこそ。これから係員が入国書類の確認にうかがいます」
ニコリともしない無愛想な男性職員がビザとパスポートを次々チェックする。
2016年で完成100周年を迎えたシベリア鉄道は、モスクワと極東ウラジオストク間の9297キロを約1週間で結ぶ世界最長の路線だ。日本までの区間がこのほど新たに開通し、列車を乗り継げば東京からロンドンまで、鉄道で行けるようになった。
広大なシベリアの草原を駆ける車窓を眺め、ピロシキをつまみに昼からウオツカをあおると、狭い日本が大陸と地続きになったことを実感する。ただ、モスクワまではまだ数日。同じような景色に少し飽きてきたのはここだけの話だ。
一方、そのころ、東京・秋葉原の電気街はロシア人観光客でにぎわっていた。
安倍晋三首相とプーチン大統領による16年の「山口合意」を受け、訪日ロシア人に対するビザ発給要件が緩和された。日本を紹介するクールジャパンイベントがロシア各地で開かれるようになり、教育機関やスポーツ、自治体などの交流も活発化。地理的にも心理的にも近くなったウラジオストクなどから、シベリア鉄道を使って多くの旅行客が訪れるようになったのだ。
かつて繁華街を席巻した爆買いは中国経済の低迷で潮が引くように姿を消したが、原油価格の回復で景気が良くなったロシア人の需要が少子高齢化に悩む日本の商店を支えている。
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…なんて想像を膨らませる分はタダなのだが、夢物語といわれるのも実はそれなりの理由がある。
まずコストだ。トンネル建設は1キロ当たり100億円規模の費用がかかるという。宗谷海峡(最狭部で約42キロ)は青函トンネル(海底部で約23キロ)が通る津軽海峡と比べ水深が浅く、工事の難易度は下がるというものの、廃線の危機にひんするJR北海道の宗谷線を再整備するなど延伸に必要な工事を数えれば兆円単位の金額が予想される。
このほか、レールの幅が日本(JR)は1067ミリ、ロシアは1520ミリと異なり、貨物を輸送する際などに積み替えが必要となって効率が悪くなる▽資源を運ぶだけなら海路のほうが合理的▽大量の移民や犯罪の流入を防げる「島国」のメリットが薄れる-といった指摘も挙がっている。
ロシア側が提案した計68項目(重複有り)にのぼるプロジェクト案のなかではトップレベルに難易度が高いのは間違いなく、サハリン(樺太)から北海道に海底ケーブルを引いて電気を輸入する「エネルギー・ブリッジ」構想などのほうがまだ実現性が高そうだ。
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プーチン大統領は日本の経済協力を利用し、人口流出が続く極東の活性化を図る考え。日本式の最先端医療技術の導入や、屋内で野菜を育てる植物工場の整備、ハバロフスク国際空港の整備・運営参加などは既に実施が確実視される。
その上なぜ、ロシアはこんなに高いボールを投げるのか。交渉筋は「(鉄道や送電線など)物理的に相手と直接つながる案件は、日本がロシアをどこまで信頼しているかを測る物差しになる」と指摘する。むげに断ると本気度を疑われる。つまり、日本は足元を見られているわけだ。
対露経済協力は、北方領土問題を含む平和条約締結交渉の進展を図るための呼び水。12月のプーチン大統領訪日に向け、どこまでリスクをとって要望に応え、領土問題でロシアの譲歩を引き出すのか。夢物語が現実になるかは、安倍首相の政治決断にかかっている。(田辺裕晶)