名古屋市で2018年、市立中学1年の斎藤華子さん(当時13)が自殺したのは、学校側がいじめを放置したのが原因だとして、遺族が市を相手取り損害賠償を求めた裁判の控訴審判決が12月20日、名古屋高裁であった。
吉田彩裁判長は「いじめは具体的に予見、認識できなかった」として、請求を棄却した1審判決を支持し、原告の控訴を退ける判決を下した。原告側は判決を不服として、上告する方針だ。
華子さんの父・信太郎さん(52)は、市教育委員会との話し合いや裁判など、7年の「闘い」を途中であきらめかけたこともあるという。もし生きていれば、華子さんは次の成人式に出るはずだった。これまでの経緯と娘への思いを聞いた(ライター・渋井哲也)
●「娘には『ごめんね』と言うしかない」
控訴審判決などによると、華子さんは2017年9月、大阪府から名古屋の市立中学校に転校。この年の11月下旬から、部活の生徒から無視されるなどのいじめを受けた。部活の合宿が予定されていた2018年1月5日朝、自宅のあるマンションから飛び降りて亡くなった。
市教育委員会が設置した調査委員会は2019年4月、「いじめはなかった」とした判断したが、市長部局が設置した再調査委は2021年7月、いじめを含むさまざまな要因が複合した結果、自殺に至ったと認定した。
生前、華子さんは学校の「こころのSOSアンケート」で「言われて悲しかった言葉」を複数記載していたほか、「心理テスト」(hyper-QU)で「学級生活不満足群」に該当する結果が出ていた。
しかし、1審・名古屋地裁に続いて、2審・名古屋高裁は、特に配慮を要する状態であったものの、いじめ発生時期より前であるため、いじめの存在を示唆したものとは言えず、教員がいじめを具体的に認識できなかったとして、安全配慮義務違反にはあたらないと判断した。
信太郎さんは、筆者の電話取材に対して「華子には『ごめんね』と言うしかない」「司法に恐怖を感じました。これだったら、子どもが何人亡くなっても司法は救わない、死んだら人権がない、守れないという話になってしまう。そのことに裁判所は気付いてほしい」と語った。
●「裁判が始まったら、名古屋市は態度を変えた」
実は、1審・名古屋地裁でも、控訴審・名古屋高裁でも和解協議があった。いずれも遺族側が賠償を放棄した内容だったが、市側は和解案を拒否して不成立となっていた。そして、判決を迎えた。
「当時の河村たかし市長が『どうせ名古屋市が負けるんだから裁判してくれ』と言ってきたのです。市が負けたほうが(いじめ問題の対策に対して)動きやすいという話が出たみたいで、その意味では、市を助けるつもりで始めたんです。
しかし、裁判が始まったら、市は態度を変えて、マスコミの取材に対しても、河村市長は『裁判になると、予見可能性がない、と言うしかなくなるんだよ』と答えていました。はめられたと思いました」
●「楽しい思い出の写真が遺影になるとは」
控訴審判決を前にした12月13日、信太郎さんは、日本体育大学の「学校・部活動における重大事件・事故から学ぶ研修会」に登壇した。
日体大は2013年に「反体罰・反暴力」を宣言」。これは前年、大阪市立桜宮高校(現在は府立)のバスケットボール部のキャプテンが、部活顧問(日体大OB)の体罰と暴言によって自殺した事件を受けたものだ。2016年からは上記の「研修会」を開いている。
信太郎さんは、日体大生やOBの前で、華子さんの話をした。もし生きていれば、今年20歳になるので、ちょうど目の前にいる学生と同じ年代となる。
「間もなく、7年が経過しようとしていますが、市は娘の死と向き合おうとはせず、責任回避の一途を続けています。なぜ娘は死なねばならなかったのか。いまだその答えは出ないままです。問題の原因追及どころか、再発防止すらたどり着けていません」
研修会では、華子さんの人物像について生前の写真を交えて語ったが、架空の人物ではなく、実在の人物であることを記憶してほしいためだ。
「もともと単身赴任の予定でしたが、子どもたちに決めさせたところ、家族一緒がいいとなり、家族そろって名古屋に引っ越すことになりました。
大阪での最後の思い出作りにと、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行きました。娘はミニオンのぬいぐるみが景品で当たり、とても喜んでいました。
このときの写真がのちに遺影になるとは家族の誰もが思っていませんでした」
●「娘は努力家で芯の強い子でした」
信太郎さんは華子さんが亡くなってすぐに学校側と話し合い、市教委の調査委員会が設置された。しかし、いじめがあったことは認められなかった。その後も市教委と話し合い、市長部局の再調査委が設置された。その再調査報告書では「いじめがあり、自殺の一因になった」と判断された。
再調査報告書を受けて、名古屋市では「学校でのいじめによる自死防止対策検討プロジェクトチーム」が2021年10月、当時の河村市長の肝いりで立ち上がった。座長は広沢一郎副市長(当時/現在の名古屋市長)。遺族は、Zoomを通じて意見を表明したことがあるが、会議は3回で終了した。
2022年6月には検証委員会が設置された。遺族は名古屋市に要望書を出していたが、期待する検証委員会ではなかった。国会でも取り上げられて、参議院決算委員会で岸田文雄総理(当時)が「ご遺族の事実関係を明らかにしたい、何があったのかを知りたい、こうした切実な思い、これを理解し、ご遺族に寄り添い対応に当たることはきわめて重要な姿勢であると認識しています」と答弁した。
その後、裁判外紛争解決手続き(ADR)も実現せず、市を相手に裁判を起こすなど、信太郎さんは仕事しながら、闘い続けた。
「娘は努力家で、できないことがあると、できるまでやり続ける芯の強い子でした。趣味は読書で、時間があればいつも本を読んでいました。また、習字で『継続は力なり』と書き残しています。今、私がこの場にいることも、この書の言葉通り諦めず、闘い続けてきたからです。書は日に日に色褪せてきますが、この言葉を忘れたことはありません」
●「娘の未来が楽しみで仕方がありませんでした」
華子さんの身に何があったのか。2017年9月の転校後、華子さんはソフトテニス部に入った。その際にはルーズリーフで手書きの詳細なルールを渡されていた。その中には、病気やケガで休んだとしても、1日あたりグランド3周を走る「罰則」が記されていた。
そのため、休みにくい雰囲気があり、退部した生徒もいる。さらに、あいさつが他の部活よりも厳しく、後輩は先輩が気づくまでにあいさつしなければならないなど、「ブラック規則」も書かれていた。
11月後半に入って、華子さんが部員に練習相手を頼んだが、無視された。この部員以外も華子さんの練習を手伝わなかった。
「強豪校とは聞いていましたが、やりすぎなのではと思いました。華子に聞いたことがあります。『いつ休むの? しんどかったら休んでいいんだよ』と。すると、華子は『大丈夫。それに休んだらグラウンドを3周走らないといけないから嫌なんだ』と言っていました。このときに無理にでも、やめさせておけばよかったかもしれません」
亡くなる前日、華子さんは届いたばかりのユニフォームにゼッケンをつけていた。
「新垣結衣さん主演の『逃げ恥』の再放送を見ながら踊ったり、おせち料理を堪能したり、お餅を焼いて食べたり、いつものお正月、普段のお正月でした。スケッチブックのデザインを作る冬休みの宿題もありました。一緒に作った親子で最後のものです。楽しい時間でした。
テレビのニュースでは、成人式のことが流れており、成人式の着物の色や柄の話をしていました。私は成人式を迎えた娘を想像して、どんな大人になっていくのか、華子の未来が楽しみで仕方がありませんでした」
●「これまで多くのものを失ってきました」
翌日の早朝、部活の顧問から「華子さんがまだ(合宿の)集合場所に来ていないのですが」と一本の電話があった。
「顧問からは『(待ち合わせ場所は)学校ではなく病院の駐車場ですが…』と返答が返ってきました。華子は正しい待ち合わせ場所を教えてもらっていなかった可能性があります。急いで着替え、私たちも華子を探しに家を出ました。
家を出た途端です。階段には黄色い規制線が張られており、下を覗き込むと大勢の警察が来ていました。急いでエレベーターで下に降り、警察官に話しかけました。『何かあったんですか?』と」
その後は、警察の対応が変わり、病院へ行くように促された。医師は華子さんの死亡を告げた。
「これまで多くのものを失ってきました。時間、未来、健康。そして得たものは、苦しみ、悲しみ、憎しみ、怒り、不信、およそ人の負の感情のすべてです。遺族になるということは、得るものはすべてマイナスです。もう7年、これを味わい続けています。
(闘うことを)もうやめようと思ったことがあります。そんなとき、華子のあの書を思い出します。『継続は力なり』。そして、華子が最後に立った場所に行きます。最後に見た景色です。一体、何を思って立っていたのでしょうか。
何があったの。何が辛かったの。何から逃げたかったの。問いかけます。答えは当然返ってきません。だからこそ、私がやらねばと思い、闘いを始めるのです。少しでいいです。関心をまず持っていただきたい」