女子大学生に対する性的暴行で罪に問われた滋賀医大の男子大学生2人に対して、大阪高裁(飯島健太郎裁判長)は12月18日、無罪判決を言い渡しました。この事件が報じられると、SNSを通じて「呆れた」「抗議します」などと判決に不服があるとする声が高まり、逆転無罪に対する反対意思の表明を求める署名運動が行われました。
署名運動に対しては、宛先に「裁判官訴追委員会」があったため、法曹から「裁判官としての地位まで奪おうとする署名は危険」などの声も上がり、署名した著名人らに対する批判が相次ぐ事態となりました。
判決を下した裁判官に対して、国民が「判決の内容に納得できない」という理由で、訴追を求めることは、「司法権の独立」という観点からは好ましくありません。
一方で、一般人には入手の難しい判決文を「全部読んでから批判しろ」と言ったり、法的な知識がない人が反対の声をあげることを制限したりするかのような態度は、言論の自由という見地に立てば、良いものとも思えません。
そこで、判決報道後にSNSで上がった声などについて、弁護士として感じたことをまとめてみました。
●「悪い人だから有罪」ではない
裁判官は、倫理的に見てよくないことをした人を、「悪い人だから有罪」にするのではなく、「犯罪の構成要件(刑法の条文に書かれている要件)に該当する事実が認定できる」ときに、有罪にします。
このような事実の立証責任を負うのは検察官で、合理的な疑いをさし挟まない程度の立証が必要です。
合理的な疑いが残っていれば、「疑わしきは被告人の利益に」という考え方に基づき、裁判所は無罪判決を下すことになります。
今回、逆転の無罪判決が言い渡されたということは、裁判で争われていることについて検察官側が有罪の立証に失敗した結果ともみることができます。
●司法権の独立とは
次に、多くの法曹から批判が集まった署名について検討してみます。
署名の目的としては、<飯島健太郎裁判長を含めた大阪高等裁判所の裁判官の判断に対して「NO」を突きつける為のご協力を頂きたいです。願わくば、上告先で判決が覆ってほしい>とあります。また、<裁判長に対して怒りの気持ちを表明したい>とありました。
提出先として、大阪家庭裁判所事務局、裁判官訴追委員会などを検討しているとのことでした。そのため、今回の署名の目的の一つに、裁判長の罷免を求める意向があるとみられています。
では何故、法曹から批判が集まっているのでしょうか。
色々な理由があると思いますが、一番大きいのは司法権の独立に反するおそれがあることだと思います。
「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)とされています。
これには大きく2つの意味があります。
一つは、立法(国会)・行政(内閣)・司法(裁判所)という三権の中で、司法はほかの2権から独立していることです。
国会や内閣の影響で裁判がねじ曲げられると、裁判の公正が保てないからです。
特に、国会は選挙(多数決)によって代表者が選出され、内閣はその国会の多数派が構成しますから、基本的に多数決原理によっています。
裁判所は、少数者の人権を守るために最後の砦の役割を果たします。
もう一つは、裁判官自身が、裁判をするにあたって、何者にも影響されずに「良心に従い」独立して職権を行使する、という意味です。
裁判官が外部からの影響を受けて判決を出すようなことがあれば、裁判の公正が保てないからです。
●裁判官の弾劾とは
「裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行うことはできない。」(憲法78条)とされています。
この「公の弾劾」については、裁判官弾劾法という法律にその内容が定められています。
同法2条では、裁判官が弾劾で罷免されるのは(1)職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠ったとき。(2)その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき。の2つに該当するとき、とされています。
署名運動に批判の声があがったのは、判決を理由に訴追を求めることになれば、司法権の独立を害するおそれが出てくるためと考えられます。
なお、今回の判決の内容が仮に不合理であるとしても(見ていないのでわかりません)、基本的には同法2条の各事由にはあたらないと思われます。
●判決を批判してはいけないのか
それでは、国民が、「どうも納得できない判決だなあ」と思ったときに、その判決を批判することは、司法権の独立に反し許されないのでしょうか?
結論からいえば、そんなことはありません。
判決を批判すること自体は、言論として尊重されるべきでしょう。
司法権が独立しているからといって、「どんなに好き放題判断しても、およそ世論による批判は許されない」となれば、国民は裁判という制度そのものを信用しなくなり、裁判という制度の存立にも関わるでしょう。
判決が納得できない、という意見を表明することは、表現の自由(憲法21条1項)として保障されるべきです。
判決の結論や内容を超えて、裁判官個人に対して批判を向けることが許されるのかは微妙な問題です。個人的にはあまり正当なことだとは思えませんが、裁判官個人に対する単なる攻撃ではなく、不合理な判断をしたことについての批判に留まる限りでは、なお表現の自由の範囲に含まれるといえると思います。
●事実や法律を知らない人は批判をしてはいけないのか
一部の法曹からは、署名した人や判決に不満を伝えた人に対して、「判決の全文を読んでから批判するべき」といった批判の声も上がりました。
理想をいえば、どういう事実があって、どういう判断の下にそういう判決となったのかを、きちんと理解した上で批判を行うことが望ましいでしょう。
しかし、「判決をきちんと読まないと批判する資格がない」なら、事件を担当した人以外はほとんど判決文を持っていませんから、大多数の人は批判ができないことになります。
また、「法律のことがわかってない人はとやかく言うな」というのも、違うように思います。表現の自由とは「分かっている人だけ」に認められるような制限的なものではありません。
多くの人は法律にくわしくはないのです。そういった人が素朴な疑問の声を上げることが否定されるのはおかしなことです。
国民による自由な批判を封じてしまうのは、表現の自由保障の観点から問題であり、国民の裁判への関心を減退させることも、恣意的な裁判が行われる危険性を高めかねないものであり、望ましくないように思います。
●司法権の独立と表現の自由のバランス
司法権の独立と表現の自由とは、時に緊張関係に立ちます。司法権の独立が認められるからといって、裁判所が恣意的な判断をして良いことにはなりませんし、反面表現の自由があるからといって、どんな罵詈雑言(ばりぞうごん)も許されるということにもなりません。
自分にとって納得いかない判決が出たからといって、判決を下した裁判官の罷免を要求する、ということになれば、司法権の独立を害するおそれが出てきます。
反面、様々な意見が飛び交うのを認めることは、民主主義が正常に機能していくために大切なことです。そこでは自分とは異なる意見も多数あることが当然ですし、1つの問題について知識も理解も異なる人たちが、様々な角度から発言することが前提となります。
今後、判決の内容についてある程度明らかになってくるでしょうし、その判断についての議論も活発化するかもしれません。その際に必要なのは、議論と単なる攻撃とは違うものであることを念頭に置いて、自分とは異なる意見も尊重しつつ発信するよう心がけることだと思います。(弁護士ドットコムニュース編集部・弁護士/小倉匡洋)