1年前、宮城県で私が経験したこと [東日本大震災]
redditから
miyagidan[宮城県]
私にとってのこの地震は、全てそこにいた人々を語ることで集約される。このとてつもなく強大で最悪の状況の中に彼らの様子を見ることは、人間という生き物の素晴らしさを本当によく私に伝え、この先待ち受ける何かに私は希望を持てた。
その時、私は宮城の県庁で働いていており、地震発生の10分後に舎から退避した(怪我や、逃げ遅れた人のために、階を開放しておく必要があった)。そして外に出ると、私は携帯を使ってニュースを確認した。私が同僚に、10メーターもの津波が予想されているらしい、と伝えると彼は笑い、少数点が抜けてるんじゃないか? と言う。そうやって私が携帯の画面を見せた時の彼の表情。これが、この地震がどうやらとんでもないものだと、私に思わせた初めての出来事であった。
まもなく県庁舎は救援活動の司令部として機能し、私はこの活動の中心近くを見ることになる。最初の地震から15分後に自衛隊が到着し、県の協力で指令所が設置された。この中心にいるということは、つまり私は多くの物を生の情報として得なければならないということだった。私が働く上の階では、自衛隊がモニターを並べて通信施設を設置し、最初の数日間そこで私が見たものは、決して想像が及ばないような現状だった。海岸線はモニター画面で追うことのできる範囲いっぱいに浮遊する死体で埋まり、破壊された街の中程にまで死体が瓦礫と共に散在していた。そこはかつて私がお祭りで訪れたことのある場所であったり、観光地であったり、そして友人たちと出会った場所でもある。この時味わった恐怖を更に上回った唯一の出来事は、数週間後に私自身の手で死体の身元確認を行なった時だ。何度かそれを繰り返し、自分のためにとそれを受け入れた。眠れない夜には決まってこの記憶が蘇る。
日が経つと、次第に撮られたビデオがニュースと共に報じられたことを危機管理課に勤める友人から得た映像で知った。主なテレビ局が報道する色のついた写真は、どこか信じられないものだった。紛れもなく私はそこにいる当人であったにも関わらず、その映像はどこか遠い、自分とは関係のない場所で起きている事柄であるように思えた。私はそこにいて、だけど現実であるとは思えなかった。(我々が主電源を回復したとき、ちょうど名取市を津波が襲う映像が流されていたが、すぐに東京の一般の通勤者が映し出されるのを見て私は憤って問うた。どうしてそんな所を映して、私たちの地域については報じてくれないのか? だが、気仙沼の火災映像に移り変わった瞬間に、その通勤者たちの姿を懐かしくも思った)
このような現状にも関わらず、人々は働き続けていた。私の同僚の一人は、その家族全員が南三陸(津波による被害を、最も受けた場所の一つ)に住んでいた。地震の翌日に彼は単身で家族の安否を確認しに行き、母親の行方が分からないままにも関わらず再び戻って来た(結局彼の母は津波で亡くなっていたが、他の家族は何とか退避した)。彼、そして皆はとにかく働き続け、だから私もそれに習った。怖くなかったと言えば嘘になる。いつ死ぬかもしれないという恐れから立ち直った頃には、既に5月になっていた。だが、私の仕事は人々の安全を確立するために必要な物であったし、私はできる限りの手を尽くして彼らを手助けした。アドレナリンは麻薬となって働きかけ、同僚とそして私は動き続けた。
地震が発生した最初の週、舎のロビーで寝ながら(ここが簡易の避難所になったのは、単純にまだ電気が使えたためである)私は一般の人たちの様子を垣間見、そして勇気づけられた。本当に唯一そこで私が目にした口論は、携帯電話の充電器占有を巡ってぐらいのものだった(充電器は何人かの退避者が持ってきていたもので、舎のスタッフが共同で使えるようにして欲しいと頼み、設置していた)が、それも毛布棚の上に規則書きを貼り付けるだけで解決できた。私は、食料配給の列を作っていた人々が、子連れの母親のために位置を譲っているのを目にしたし、このような酷い状況下であっても、人々は人間らしくあることを止めはしないのだと知った。
3月12日、私は事務室の窓から、昇ってくる朝日を見て(陽は精油施設の火災による煙でボヤけていた。火災そのものは夜間の市街の照らす唯一の光源でもあった)それは私に考えることを強いた。余震への恐れ、死と荒廃のイメージ……明白に状況は好ましくない。そして百キロ南方からは、福島の原発がどうやら制御不能ではないかとの噂が聞こえてくる。ここから去るのか、それとも残るのか、それが一時的なものであるとしても私は決める必要があった。苦心はしなかった。友人を見捨て、実の家族よりも近しい関係を築いてきた人々を見捨て、そこまでしてこの地獄のような状況から逃げ出すなどありえなかったからだ。真に私の仕事が必要とされている時に、それを放棄することなどできなかった。ここは、五年間私が暮らした家であり、それに背を向けたくはなかった。私は余震か何かで死んでいたかもしれない。だが、ここを離れることは個の死だとも感じた。
物事は、まるで坂道を転げ落ちて行くかのように感じられた。死者の数は際限なく増え続け、福島からのニュースはますます恐ろしさを増していった。そして食料やガスの不足は、基本的な生活さえも困難にしていた。私と同僚は、人々との会話を熱心に行なった。幾人かは避難の最初の一歩として仙台を目指すらしかった。日本のどこか他の場所へ、あるいはしばらく国外に行くのだという。もちろんここには電車などなく、空港は津波による被害を受けていた。バスだけが移動手段であった。こういった情報を集め、そして人々に何が起こっているかを知らせることも私たちの仕事だった。我々は、できる限りのことに努めた。
私が目撃した全ての事柄を上げていけば、それだけで一つの本が埋まる。避難してきた男性と、その妻が紙を使って人々の寝床の間に仕切りを作っている所を見た(そして“お客さん”が来るとワインを出してもてなしていた。これは本当の話なんだ)。水道水が漏れ出している場所を見つけたが、それは既に飲める状態の水でなかった(まる二日も水がただ流れ続けているのを見るのは虚しい気分だった)。今回の地震による死者数が阪神淡路大地震を上回ったと知ったときの気持ちときたら……。水と食料を積んだトラック集団が来たが、二時間ほどで引き上げてしまった。危機管理課の友人によると、沿岸地域のための供給が滞っているらしい(私はそのとき拳を振り回しながら応援し、走り回って彼らの荷降ろしを助けた。これが自衛隊員たちを笑わせることができた、唯一の瞬間である)。五つの異なる国の大使館職員と面会し、それぞれの国籍の市民を探す手伝いをした。町内会による炊き出しのための調理場の設置を手伝った。
私を鼓舞し続けてくれたのは、いつもそこにいた人々だ。最悪の状況下で共に助け合い、中には泥棒に家に入られた者たちもいたが、それに打ちひしがれるのではなく、彼らは懸命に生活を取り戻そうと戦った。そして、言うまでもなくピーク時には9万5000人ものボランティアたちが世界中から駆けつけてくれた。決して安全が保証される状態でないにも関わらずだ。
宮城に5年間住み、だが今回のことが起こるまでこの家が私にとってどれほど大きな存在であったかに気づかなかった。どれほど多くの友人が、私の無事を確かめるためにわざわざ来てくれたことだろうか。そして、私自身がどれほどここを再興させたいと願っているかに気づいて、初めてそれを知ったのだ。これが、私が6月にその仕事の役目を終えてもここを立ち去らなかった最大の理由だ。
今回の災害の規模を知って、3.11以前の姿に宮城が、そして東北が近づくには多くの年月が必要であることを教えられた。だがここに居られる限りは、私は出来る限りのことをしていこうと目論んでいる。宮城にはそれだけの価値がある。どこに行くよりも、ここがいい。
昨日、気仙沼で写真を撮ったんだ。これを見たときは思わず笑ってしまったよ。傷ついた建物を取り壊して、海岸地域を一から再建しようとしている時でさえ、彼らはまだ“不便”について謝罪しているんだからさ。
flyingkangaroo
君の経験を共有させてくれてありがとう。こういった差し迫った状況で、彼らの行動を見ることは、彼らの人間性を知る助けとなっただろうな。日本の人々が災害に立ち向かう姿や、ノルウェー人たちのオスロ銃乱射事件に対する行動を見ると、なんだか日本語やノルウェー語を勉強しようと思うんだよ。そしてどちらか、または両方の国で自分にあった場所を見つけられたらな、と思ってしまう。
miyagidan[宮城県]
人々が本当はどんな姿をしているのかは、特別な状況でしか垣間見えないものなんだ。自分の回りにいた人々が、本当にいい人たちだったと知れたことは、とても私を勇気づけてくれた。
the2belo[岐阜県]
ありがとう。もっと多くの人間が、原発事故だけでなくこのことにも関心を持って欲しいと思う。原発事故ってのは、あくまで多くのストーリーのうちの一つだからな。飛びぬけて恐ろしいものではあるけれどさ……。
>ここに居られる限りは、私は出来る限りのことをしていこうと目論んでいる。宮城にはそれだけの価値がある。どこに行くよりも、ここがいい。
宮城という場所が君自身に値したとも言える。もし自分の街が、同じような地震にあったら、俺も君と同じような気持ちになると思う。復興の手助けならなんだってやるよ。俺にできることなんて限られてはいるけどね。だって、この街はもう20年も俺の家であり続けてるんだから。
miyagidan[宮城県]
ありがとう。私たちが見てきた人々の半数は、災害のあともここに留まり続けてるよ。物事が悪い方向に進んだとしても、出ていこうとはしない。これは宮城の人々が(そして日本の多くの人々が)どれほど優しくて暖かい心の持ち主かを語る大きな証左になっていると思う。
nijikai[福島県]
もっと多くの人が、この地震と津波について話すべきだと思う。今の原発事故問題よりもね。1万5000人もの人たちが亡くなったにも関わらず、原発問題のせいで少し印象が薄れているかのように感じるからさ。
君が行なってきた行動に感謝するよ。
miyagidan[宮城県]
実際には、まだ行方不明の人を合わせると1万9009もの人が犠牲になった。
確かに君のいう事には納得できるけど、原発事故が報道が多いのも理解できる。地震や津波は既に起こってしまった過去の話だけど、原発についてはまだ起き続けている、と言えるからね。
cwms[群馬県]
本当に心に触れたよ。ありがとう。
少し文章が長いと思いますので、なんとか画面サイズの調整でお願いします。
あの地震の時、多くの外国人たちも様々な経験をしたと思いますが、この人は本当に間近でそれを見てきたんでと思うと、お疲れ様と声をかけてあげたくなります。
おまけ)
Donald Keene granted Japanese nationality
sovietskaya
ドナルド・キーン氏がついに日本国籍を取得だ。
reignb
政府から、その承認を受けたことは大きな名誉だ。
おめでとうございます。(原文)
Seiji
素晴らしいニュースだ! いつも彼の翻訳を楽しんでいたよ。
先生、おめでとうございます!(原文)
the2belo
彼に祝福を!
NipponBill
彼の本のおかげで、日本の歴史や文化に僕はのめり込んだんだ。彼は多くの影響を与えてくれた。彼の貢献が評価されるのにこれほど長くかかってしまったのは残念だけどね。
parcivale
彼は既に、なんども政府から表彰されているし、大学機関から名誉学位を受けているよ。天皇陛下から、旭日章を1970年に賜っているし、十年も前に文化功労賞もいただいた。数年前には、これがさらに上級の文化勲章ともなっている。
これらのリボンや金・エナメルのバッジを引っさげて来たからこそ、国籍の獲得が早まったと言ってもいい。
今振り返っても、日本文化に対して凄まじいほどの貢献をしてきた人だなあ。
彼の本がきっかけで、日本も訪れた外国人もきっと多いはず。
miyagidan[宮城県]
私にとってのこの地震は、全てそこにいた人々を語ることで集約される。このとてつもなく強大で最悪の状況の中に彼らの様子を見ることは、人間という生き物の素晴らしさを本当によく私に伝え、この先待ち受ける何かに私は希望を持てた。
その時、私は宮城の県庁で働いていており、地震発生の10分後に舎から退避した(怪我や、逃げ遅れた人のために、階を開放しておく必要があった)。そして外に出ると、私は携帯を使ってニュースを確認した。私が同僚に、10メーターもの津波が予想されているらしい、と伝えると彼は笑い、少数点が抜けてるんじゃないか? と言う。そうやって私が携帯の画面を見せた時の彼の表情。これが、この地震がどうやらとんでもないものだと、私に思わせた初めての出来事であった。
まもなく県庁舎は救援活動の司令部として機能し、私はこの活動の中心近くを見ることになる。最初の地震から15分後に自衛隊が到着し、県の協力で指令所が設置された。この中心にいるということは、つまり私は多くの物を生の情報として得なければならないということだった。私が働く上の階では、自衛隊がモニターを並べて通信施設を設置し、最初の数日間そこで私が見たものは、決して想像が及ばないような現状だった。海岸線はモニター画面で追うことのできる範囲いっぱいに浮遊する死体で埋まり、破壊された街の中程にまで死体が瓦礫と共に散在していた。そこはかつて私がお祭りで訪れたことのある場所であったり、観光地であったり、そして友人たちと出会った場所でもある。この時味わった恐怖を更に上回った唯一の出来事は、数週間後に私自身の手で死体の身元確認を行なった時だ。何度かそれを繰り返し、自分のためにとそれを受け入れた。眠れない夜には決まってこの記憶が蘇る。
日が経つと、次第に撮られたビデオがニュースと共に報じられたことを危機管理課に勤める友人から得た映像で知った。主なテレビ局が報道する色のついた写真は、どこか信じられないものだった。紛れもなく私はそこにいる当人であったにも関わらず、その映像はどこか遠い、自分とは関係のない場所で起きている事柄であるように思えた。私はそこにいて、だけど現実であるとは思えなかった。(我々が主電源を回復したとき、ちょうど名取市を津波が襲う映像が流されていたが、すぐに東京の一般の通勤者が映し出されるのを見て私は憤って問うた。どうしてそんな所を映して、私たちの地域については報じてくれないのか? だが、気仙沼の火災映像に移り変わった瞬間に、その通勤者たちの姿を懐かしくも思った)
このような現状にも関わらず、人々は働き続けていた。私の同僚の一人は、その家族全員が南三陸(津波による被害を、最も受けた場所の一つ)に住んでいた。地震の翌日に彼は単身で家族の安否を確認しに行き、母親の行方が分からないままにも関わらず再び戻って来た(結局彼の母は津波で亡くなっていたが、他の家族は何とか退避した)。彼、そして皆はとにかく働き続け、だから私もそれに習った。怖くなかったと言えば嘘になる。いつ死ぬかもしれないという恐れから立ち直った頃には、既に5月になっていた。だが、私の仕事は人々の安全を確立するために必要な物であったし、私はできる限りの手を尽くして彼らを手助けした。アドレナリンは麻薬となって働きかけ、同僚とそして私は動き続けた。
地震が発生した最初の週、舎のロビーで寝ながら(ここが簡易の避難所になったのは、単純にまだ電気が使えたためである)私は一般の人たちの様子を垣間見、そして勇気づけられた。本当に唯一そこで私が目にした口論は、携帯電話の充電器占有を巡ってぐらいのものだった(充電器は何人かの退避者が持ってきていたもので、舎のスタッフが共同で使えるようにして欲しいと頼み、設置していた)が、それも毛布棚の上に規則書きを貼り付けるだけで解決できた。私は、食料配給の列を作っていた人々が、子連れの母親のために位置を譲っているのを目にしたし、このような酷い状況下であっても、人々は人間らしくあることを止めはしないのだと知った。
3月12日、私は事務室の窓から、昇ってくる朝日を見て(陽は精油施設の火災による煙でボヤけていた。火災そのものは夜間の市街の照らす唯一の光源でもあった)それは私に考えることを強いた。余震への恐れ、死と荒廃のイメージ……明白に状況は好ましくない。そして百キロ南方からは、福島の原発がどうやら制御不能ではないかとの噂が聞こえてくる。ここから去るのか、それとも残るのか、それが一時的なものであるとしても私は決める必要があった。苦心はしなかった。友人を見捨て、実の家族よりも近しい関係を築いてきた人々を見捨て、そこまでしてこの地獄のような状況から逃げ出すなどありえなかったからだ。真に私の仕事が必要とされている時に、それを放棄することなどできなかった。ここは、五年間私が暮らした家であり、それに背を向けたくはなかった。私は余震か何かで死んでいたかもしれない。だが、ここを離れることは個の死だとも感じた。
物事は、まるで坂道を転げ落ちて行くかのように感じられた。死者の数は際限なく増え続け、福島からのニュースはますます恐ろしさを増していった。そして食料やガスの不足は、基本的な生活さえも困難にしていた。私と同僚は、人々との会話を熱心に行なった。幾人かは避難の最初の一歩として仙台を目指すらしかった。日本のどこか他の場所へ、あるいはしばらく国外に行くのだという。もちろんここには電車などなく、空港は津波による被害を受けていた。バスだけが移動手段であった。こういった情報を集め、そして人々に何が起こっているかを知らせることも私たちの仕事だった。我々は、できる限りのことに努めた。
私が目撃した全ての事柄を上げていけば、それだけで一つの本が埋まる。避難してきた男性と、その妻が紙を使って人々の寝床の間に仕切りを作っている所を見た(そして“お客さん”が来るとワインを出してもてなしていた。これは本当の話なんだ)。水道水が漏れ出している場所を見つけたが、それは既に飲める状態の水でなかった(まる二日も水がただ流れ続けているのを見るのは虚しい気分だった)。今回の地震による死者数が阪神淡路大地震を上回ったと知ったときの気持ちときたら……。水と食料を積んだトラック集団が来たが、二時間ほどで引き上げてしまった。危機管理課の友人によると、沿岸地域のための供給が滞っているらしい(私はそのとき拳を振り回しながら応援し、走り回って彼らの荷降ろしを助けた。これが自衛隊員たちを笑わせることができた、唯一の瞬間である)。五つの異なる国の大使館職員と面会し、それぞれの国籍の市民を探す手伝いをした。町内会による炊き出しのための調理場の設置を手伝った。
私を鼓舞し続けてくれたのは、いつもそこにいた人々だ。最悪の状況下で共に助け合い、中には泥棒に家に入られた者たちもいたが、それに打ちひしがれるのではなく、彼らは懸命に生活を取り戻そうと戦った。そして、言うまでもなくピーク時には9万5000人ものボランティアたちが世界中から駆けつけてくれた。決して安全が保証される状態でないにも関わらずだ。
宮城に5年間住み、だが今回のことが起こるまでこの家が私にとってどれほど大きな存在であったかに気づかなかった。どれほど多くの友人が、私の無事を確かめるためにわざわざ来てくれたことだろうか。そして、私自身がどれほどここを再興させたいと願っているかに気づいて、初めてそれを知ったのだ。これが、私が6月にその仕事の役目を終えてもここを立ち去らなかった最大の理由だ。
今回の災害の規模を知って、3.11以前の姿に宮城が、そして東北が近づくには多くの年月が必要であることを教えられた。だがここに居られる限りは、私は出来る限りのことをしていこうと目論んでいる。宮城にはそれだけの価値がある。どこに行くよりも、ここがいい。
昨日、気仙沼で写真を撮ったんだ。これを見たときは思わず笑ってしまったよ。傷ついた建物を取り壊して、海岸地域を一から再建しようとしている時でさえ、彼らはまだ“不便”について謝罪しているんだからさ。
flyingkangaroo
君の経験を共有させてくれてありがとう。こういった差し迫った状況で、彼らの行動を見ることは、彼らの人間性を知る助けとなっただろうな。日本の人々が災害に立ち向かう姿や、ノルウェー人たちのオスロ銃乱射事件に対する行動を見ると、なんだか日本語やノルウェー語を勉強しようと思うんだよ。そしてどちらか、または両方の国で自分にあった場所を見つけられたらな、と思ってしまう。
miyagidan[宮城県]
人々が本当はどんな姿をしているのかは、特別な状況でしか垣間見えないものなんだ。自分の回りにいた人々が、本当にいい人たちだったと知れたことは、とても私を勇気づけてくれた。
the2belo[岐阜県]
ありがとう。もっと多くの人間が、原発事故だけでなくこのことにも関心を持って欲しいと思う。原発事故ってのは、あくまで多くのストーリーのうちの一つだからな。飛びぬけて恐ろしいものではあるけれどさ……。
>ここに居られる限りは、私は出来る限りのことをしていこうと目論んでいる。宮城にはそれだけの価値がある。どこに行くよりも、ここがいい。
宮城という場所が君自身に値したとも言える。もし自分の街が、同じような地震にあったら、俺も君と同じような気持ちになると思う。復興の手助けならなんだってやるよ。俺にできることなんて限られてはいるけどね。だって、この街はもう20年も俺の家であり続けてるんだから。
miyagidan[宮城県]
ありがとう。私たちが見てきた人々の半数は、災害のあともここに留まり続けてるよ。物事が悪い方向に進んだとしても、出ていこうとはしない。これは宮城の人々が(そして日本の多くの人々が)どれほど優しくて暖かい心の持ち主かを語る大きな証左になっていると思う。
nijikai[福島県]
もっと多くの人が、この地震と津波について話すべきだと思う。今の原発事故問題よりもね。1万5000人もの人たちが亡くなったにも関わらず、原発問題のせいで少し印象が薄れているかのように感じるからさ。
君が行なってきた行動に感謝するよ。
miyagidan[宮城県]
実際には、まだ行方不明の人を合わせると1万9009もの人が犠牲になった。
確かに君のいう事には納得できるけど、原発事故が報道が多いのも理解できる。地震や津波は既に起こってしまった過去の話だけど、原発についてはまだ起き続けている、と言えるからね。
cwms[群馬県]
本当に心に触れたよ。ありがとう。
少し文章が長いと思いますので、なんとか画面サイズの調整でお願いします。
あの地震の時、多くの外国人たちも様々な経験をしたと思いますが、この人は本当に間近でそれを見てきたんでと思うと、お疲れ様と声をかけてあげたくなります。
おまけ)
Donald Keene granted Japanese nationality
sovietskaya
ドナルド・キーン氏がついに日本国籍を取得だ。
reignb
政府から、その承認を受けたことは大きな名誉だ。
おめでとうございます。(原文)
Seiji
素晴らしいニュースだ! いつも彼の翻訳を楽しんでいたよ。
先生、おめでとうございます!(原文)
the2belo
彼に祝福を!
NipponBill
彼の本のおかげで、日本の歴史や文化に僕はのめり込んだんだ。彼は多くの影響を与えてくれた。彼の貢献が評価されるのにこれほど長くかかってしまったのは残念だけどね。
parcivale
彼は既に、なんども政府から表彰されているし、大学機関から名誉学位を受けているよ。天皇陛下から、旭日章を1970年に賜っているし、十年も前に文化功労賞もいただいた。数年前には、これがさらに上級の文化勲章ともなっている。
これらのリボンや金・エナメルのバッジを引っさげて来たからこそ、国籍の獲得が早まったと言ってもいい。
今振り返っても、日本文化に対して凄まじいほどの貢献をしてきた人だなあ。
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