とあるオフィス街。表通りから一本路地裏に入った喫茶店。
窓ぎわのテーブル席で、OL風の女性二人が話している。先輩後輩のような、友人のような。
年下らしい女性が言った。
「本当の友達ってなんですか?」
カウンター席でひとり、男がコーヒーを飲んでいた。
隣の椅子にトレンチコートが掛けてある。背広姿なのに、なぜかスニーカーを履いている。
と、店の扉が開いた。ベルがチリンと鳴る。
「あ、いらっしゃった。山吹さん、お待たせ」
名を呼ばれた男が振り返る。入ってきたのはファラと智庵だった。待ち合わせていたらしい。
山吹は智庵の友人である。シャイダン特訓中の連中を置いて、智庵は彼の街に遊びに来たのだった。
外に出た三人。食事できる店を探しに、ゆるゆると西方面に足を向ける。
山吹が「さっきの店でね」と言って、背中ごしに聞いていた女性達の話を持ち出した。
「女性の派閥? ていうかコミュニティ? あれはよくわからないな。学校にも職場にもあるね。存在するのはメリットがあるからだろうが。参加していても孤独感がつきまとう、なんてこともありそうだ。どう思う?」
ただの好奇心ではなさそうだ。自分の職場でなにかと思うところがあるのだろう。
「コミュニティ・・・めんどくささもあるけれども、得られる情報などのメリットを切り捨てるのも勇気が要りますです。右も左もわからない時期だけいて、しっかり定着する前にフェードアウトしてました」
おっとりしたファラが意外にガッツリしたことを言う。
「私は1個もなじめませんでした。別に参加していなくてもいいけど不便は不便ですね」
智庵は相変わらずドライだ。女性がみなコミュニティ志向なわけではない。そしてこう続けた。
「漠然と人間関係がうまくいかない人というのは、コミュニティの存在に気づいていないか、軽視しているからかも知れません。まあ私のことなのですけど。人は人間関係のあり方をコミュニティ内で学んでいくのです」
小中学時代。今でこそ、あれはコミュニティだったと理解できる目に見えない「集」の形。
馴染めなかった自分の思い出など語りながら、智庵は結論付けた。
「やっぱりコミュニティメンバーは友達とは違いますね。コミュニティが解散したら終わりです」
やがて三人は人気のない細道に入った。背の高いフェンスがずっと続いている。フェンスの向こうはどこかの大学の敷地らしい。
「大学は、コミュニティに所属していないと学校生活が成立しないというものではありませんが・・・」
智庵は再び口を開いた。
「裏情報が入って来なくて、間抜けなことになりました」
苦い想い出があるようだ。
卒業パーティやら卒業旅行やらの話をひとしきりするうちに、細道を抜けた。
信号を渡った先は、表通り。雑居ビルが立ち並ぶ。
山吹がファラに話を促す。
「職場ではどう?」
「幸か不幸か同性の同期がいなくて」
でも、と言って、ファラはぐっと首を縮めた。
「もし派閥なんぞができていたら・・・昼休みなんぞどうなるんだろうとぞわぞわです」
「職場でのコミュニティは短期的には仕事の邪魔です」
智庵が一刀両断した。
それから、ぽつりと言った。
「職場コミュニティの生き残り方を私はまだ解析できていません・・・逃げ出したクチですから」
異文化交流議論で繰り返し登場する、「個と集」というテーマ。
なかでも、「個人」と「共同体(コミュニティ)/あたかも共同体のように機能している集団」との関わり合いについて、chargeup氏は、アスペルガー症候群という御自分の特性から見える風景を書き、考察を展開しました。2007年1月から2月にかけての記事群です。
◆異文化交流議論リンク集-05.コミュニティ
異文化交流議論では「共同体」「コミュニティ」という言葉が指す範囲を厳密に定義していません。
後付で敢えて私が定義するならば。個人にとって「暗黙のルール/コミュニケーションのコード」が存在するように見え、かつそのルール/コードに沿わなければ集団内にあるリソース(交流関係や情報や特典など)を享受できない、そういった特性を持つ集団、といったところでしょうか。
集団に個別の名称や目に見える枠組みがあるとは限りません。「名前」が無いにもかかわらず、「存在している」と個人が認識せずにいられない、そういう「集」こそが考察の対象となっています。
なお、キャラノベ中のセリフは、もととなった記事から私(わたりとり)が特に印象深く思った文章/コメントを切り出したものです。
キャラノベのみを読むと、各々のセリフは、単に個人的嗜好を発言しているかのように受け取られかねないものですが、それぞれに発話者特有の背景・発話時の立ち位置・発話されるに至った長い文脈があります。ご留意ください。
窓ぎわのテーブル席で、OL風の女性二人が話している。先輩後輩のような、友人のような。
年下らしい女性が言った。
「本当の友達ってなんですか?」
カウンター席でひとり、男がコーヒーを飲んでいた。
隣の椅子にトレンチコートが掛けてある。背広姿なのに、なぜかスニーカーを履いている。
と、店の扉が開いた。ベルがチリンと鳴る。
「あ、いらっしゃった。山吹さん、お待たせ」
名を呼ばれた男が振り返る。入ってきたのはファラと智庵だった。待ち合わせていたらしい。
山吹は智庵の友人である。シャイダン特訓中の連中を置いて、智庵は彼の街に遊びに来たのだった。
外に出た三人。食事できる店を探しに、ゆるゆると西方面に足を向ける。
山吹が「さっきの店でね」と言って、背中ごしに聞いていた女性達の話を持ち出した。
「女性の派閥? ていうかコミュニティ? あれはよくわからないな。学校にも職場にもあるね。存在するのはメリットがあるからだろうが。参加していても孤独感がつきまとう、なんてこともありそうだ。どう思う?」
ただの好奇心ではなさそうだ。自分の職場でなにかと思うところがあるのだろう。
「コミュニティ・・・めんどくささもあるけれども、得られる情報などのメリットを切り捨てるのも勇気が要りますです。右も左もわからない時期だけいて、しっかり定着する前にフェードアウトしてました」
おっとりしたファラが意外にガッツリしたことを言う。
「私は1個もなじめませんでした。別に参加していなくてもいいけど不便は不便ですね」
智庵は相変わらずドライだ。女性がみなコミュニティ志向なわけではない。そしてこう続けた。
「漠然と人間関係がうまくいかない人というのは、コミュニティの存在に気づいていないか、軽視しているからかも知れません。まあ私のことなのですけど。人は人間関係のあり方をコミュニティ内で学んでいくのです」
小中学時代。今でこそ、あれはコミュニティだったと理解できる目に見えない「集」の形。
馴染めなかった自分の思い出など語りながら、智庵は結論付けた。
「やっぱりコミュニティメンバーは友達とは違いますね。コミュニティが解散したら終わりです」
やがて三人は人気のない細道に入った。背の高いフェンスがずっと続いている。フェンスの向こうはどこかの大学の敷地らしい。
「大学は、コミュニティに所属していないと学校生活が成立しないというものではありませんが・・・」
智庵は再び口を開いた。
「裏情報が入って来なくて、間抜けなことになりました」
苦い想い出があるようだ。
卒業パーティやら卒業旅行やらの話をひとしきりするうちに、細道を抜けた。
信号を渡った先は、表通り。雑居ビルが立ち並ぶ。
山吹がファラに話を促す。
「職場ではどう?」
「幸か不幸か同性の同期がいなくて」
でも、と言って、ファラはぐっと首を縮めた。
「もし派閥なんぞができていたら・・・昼休みなんぞどうなるんだろうとぞわぞわです」
「職場でのコミュニティは短期的には仕事の邪魔です」
智庵が一刀両断した。
それから、ぽつりと言った。
「職場コミュニティの生き残り方を私はまだ解析できていません・・・逃げ出したクチですから」
異文化交流議論で繰り返し登場する、「個と集」というテーマ。
なかでも、「個人」と「共同体(コミュニティ)/あたかも共同体のように機能している集団」との関わり合いについて、chargeup氏は、アスペルガー症候群という御自分の特性から見える風景を書き、考察を展開しました。2007年1月から2月にかけての記事群です。
◆異文化交流議論リンク集-05.コミュニティ
異文化交流議論では「共同体」「コミュニティ」という言葉が指す範囲を厳密に定義していません。
後付で敢えて私が定義するならば。個人にとって「暗黙のルール/コミュニケーションのコード」が存在するように見え、かつそのルール/コードに沿わなければ集団内にあるリソース(交流関係や情報や特典など)を享受できない、そういった特性を持つ集団、といったところでしょうか。
集団に個別の名称や目に見える枠組みがあるとは限りません。「名前」が無いにもかかわらず、「存在している」と個人が認識せずにいられない、そういう「集」こそが考察の対象となっています。
なお、キャラノベ中のセリフは、もととなった記事から私(わたりとり)が特に印象深く思った文章/コメントを切り出したものです。
キャラノベのみを読むと、各々のセリフは、単に個人的嗜好を発言しているかのように受け取られかねないものですが、それぞれに発話者特有の背景・発話時の立ち位置・発話されるに至った長い文脈があります。ご留意ください。