穏やかな丘陵地帯。濃淡うねる緑の大地に、浮遊砦の丸い影。
人影のない静かな土地に、ちょっと降りてみようとキィが促した。
「どこかを基点にしないと。フワフワ浮いているだけでは旅の道が描けません」
クチダケ鳥がウーンとクビをひねる。
「基点はええけど、【穴】の近くはイヤやで。うちは超がつく平和主義者やねん」
智庵がまじめに返す。
「それは存じませんでした」
「ほんまやって。みんな違ってみんないい、とか言って済ませたいのう」
現実にそう言って済ませられるなら、この旅は始まらなかった。ボヤキである。
智庵は淡々と返す。
「こちらが戦いたくないと一方的に思っていても、攻撃する人はしてきます。破壊、脅威、恐怖、戦い・・・それが異質のものとの出会いにおける本質」
キィが太陽の方角を指差した。
「近くに街がある。とりあえず、そこへ行ってみましょう」
正午前。浮遊砦はひとつの街の上空に入った。
街のあちこちから、灰色の煙が上がっている。細く入り組んだ路地。町工場がひしめている。鉄を切る音、溶接する音、塗装の匂いがここまで上がってくる。街全体が鉄工所という趣だ。
街はずれに砦を停泊させ、一行は街に入った。
どこかで昼食をとろうと、街の大通りに来たところで、海風が声を上げた。
「なんだあれ!?」
路面電車が走っていた。タダの電車ではない。
外装に、人の目が無数に浮き上がっていた。こちらをじっと見つめ続けている。
「ひゃー、うちは目ぇは苦手や」
クチダケ鳥は羽で自分の目を被ってしまった。
キィと御津流は興味深げに見ている。海風はふき出した。
「妖怪だな、ありゃ。こういうの大好きー」
だしぬけに、誰かの声がした。声はとうとうと語りだした。
「通常の美術作品ならともかく、公共交通機関の車両にまさかこんなものが描かれるとは、ほとんどの人にとって『想定外』の出来事でした。さまざまな反応がありました。私はその反応を導くメカニズムに着目したい。けして鉄っちゃんネタを語りたいわけでは、いや語りたいのですがそれだけを語りたいわけでは・・・」
驚いて振り返った五人の後ろに、男が立っていた。
いや、男かどうかわからない。
声は確かに男だ。直立している駅長風体の制服も男物だ。帽子の位置からして、背格好も男らしい。だが服の中身が、ない。
御津流が言った。
「もしもし、体が透けてますよ。大丈夫ですか」
男の帽子が揺れる。笑っているらしい。
「私には、あなたがたの体が『塗りつぶされている』と見えますよ。大丈夫ですか。・・・他者認識とは自分を映す鏡。あなたが見る私、私が見るあなた、あなたと私の他者認識が、私とあなたの自己認識を揺さぶる・・・」
呆気に取られる四人を尻目に、クチダケ鳥がケケ!と高く鳴いた。
「あんさん、体は涼しげやのに、語りは猛烈に暑いねぇ」
男の帽子が猛烈に揺れている。爆笑しているらしい。
クチダケ鳥は、羽元から誘結印を取り出した。
「な、な、うちらの砦に来てくれへん? 気の乗ったときでええから。これ置いてくわ」
白い手袋がぬっと伸びてきた。誘結印を受け取る。気が乗ったらしい。
「お名前は?」
智庵が訊いた。
「どうとでも。しょせん仮の名です」
あっさり涼しい返事に、クチダケ鳥がまた高く鳴いた。
「ケケ!」
他者・異文化との係わりあいを考えるとき、考察の道筋はいろいろに採れるでしょう。
道筋はいろいろで良い。しかし考察がコミュニケーションのテクニック論などに終始してしまうことは、つまらないことだと私は考えます。
「コミュニケーション」は基本的には、人がなにかを認知する・感情を呼び起こされる・思う・考える・そして反応する・・・という一連の流れの<最後>に位置している行動であり現象に過ぎないからです。
その点で、途中参戦してくださったID:o_keke_nigelさん(未だにどうお呼びすればよいのか不明)の論考が「自己認識・他者認識」から始まったのは、異文化交流議論全体にとってとても意義深いことであったと私は感じています。
すべては、私とあなたの、あなたと私の認知・認識から始まる。「交流」の基点。
◆異文化交流議論リンク集-自己認識・他者認識
人影のない静かな土地に、ちょっと降りてみようとキィが促した。
「どこかを基点にしないと。フワフワ浮いているだけでは旅の道が描けません」
クチダケ鳥がウーンとクビをひねる。
「基点はええけど、【穴】の近くはイヤやで。うちは超がつく平和主義者やねん」
智庵がまじめに返す。
「それは存じませんでした」
「ほんまやって。みんな違ってみんないい、とか言って済ませたいのう」
現実にそう言って済ませられるなら、この旅は始まらなかった。ボヤキである。
智庵は淡々と返す。
「こちらが戦いたくないと一方的に思っていても、攻撃する人はしてきます。破壊、脅威、恐怖、戦い・・・それが異質のものとの出会いにおける本質」
キィが太陽の方角を指差した。
「近くに街がある。とりあえず、そこへ行ってみましょう」
正午前。浮遊砦はひとつの街の上空に入った。
街のあちこちから、灰色の煙が上がっている。細く入り組んだ路地。町工場がひしめている。鉄を切る音、溶接する音、塗装の匂いがここまで上がってくる。街全体が鉄工所という趣だ。
街はずれに砦を停泊させ、一行は街に入った。
どこかで昼食をとろうと、街の大通りに来たところで、海風が声を上げた。
「なんだあれ!?」
路面電車が走っていた。タダの電車ではない。
外装に、人の目が無数に浮き上がっていた。こちらをじっと見つめ続けている。
「ひゃー、うちは目ぇは苦手や」
クチダケ鳥は羽で自分の目を被ってしまった。
キィと御津流は興味深げに見ている。海風はふき出した。
「妖怪だな、ありゃ。こういうの大好きー」
だしぬけに、誰かの声がした。声はとうとうと語りだした。
「通常の美術作品ならともかく、公共交通機関の車両にまさかこんなものが描かれるとは、ほとんどの人にとって『想定外』の出来事でした。さまざまな反応がありました。私はその反応を導くメカニズムに着目したい。けして鉄っちゃんネタを語りたいわけでは、いや語りたいのですがそれだけを語りたいわけでは・・・」
驚いて振り返った五人の後ろに、男が立っていた。
いや、男かどうかわからない。
声は確かに男だ。直立している駅長風体の制服も男物だ。帽子の位置からして、背格好も男らしい。だが服の中身が、ない。
御津流が言った。
「もしもし、体が透けてますよ。大丈夫ですか」
男の帽子が揺れる。笑っているらしい。
「私には、あなたがたの体が『塗りつぶされている』と見えますよ。大丈夫ですか。・・・他者認識とは自分を映す鏡。あなたが見る私、私が見るあなた、あなたと私の他者認識が、私とあなたの自己認識を揺さぶる・・・」
呆気に取られる四人を尻目に、クチダケ鳥がケケ!と高く鳴いた。
「あんさん、体は涼しげやのに、語りは猛烈に暑いねぇ」
男の帽子が猛烈に揺れている。爆笑しているらしい。
クチダケ鳥は、羽元から誘結印を取り出した。
「な、な、うちらの砦に来てくれへん? 気の乗ったときでええから。これ置いてくわ」
白い手袋がぬっと伸びてきた。誘結印を受け取る。気が乗ったらしい。
「お名前は?」
智庵が訊いた。
「どうとでも。しょせん仮の名です」
あっさり涼しい返事に、クチダケ鳥がまた高く鳴いた。
「ケケ!」
他者・異文化との係わりあいを考えるとき、考察の道筋はいろいろに採れるでしょう。
道筋はいろいろで良い。しかし考察がコミュニケーションのテクニック論などに終始してしまうことは、つまらないことだと私は考えます。
「コミュニケーション」は基本的には、人がなにかを認知する・感情を呼び起こされる・思う・考える・そして反応する・・・という一連の流れの<最後>に位置している行動であり現象に過ぎないからです。
その点で、途中参戦してくださったID:o_keke_nigelさん(未だにどうお呼びすればよいのか不明)の論考が「自己認識・他者認識」から始まったのは、異文化交流議論全体にとってとても意義深いことであったと私は感じています。
すべては、私とあなたの、あなたと私の認知・認識から始まる。「交流」の基点。
◆異文化交流議論リンク集-自己認識・他者認識