闇に葬られる終戦後の日本女性の悲劇・・・二日市保養所など
はずれに小さな水子供養祠がある。
1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが
開始されてから、博多港に上陸した日本人引き揚げ者は
約1年半で139万人に上った。
ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、
妊娠させられた多くの女性が存在した。
上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性も
多かったそうだ。
妊娠した女性の中絶手術が厚生省博多引揚援護局
二日市保養所で行われた。
物資不足から、手術は麻酔を使わないで行われた。
「白い肌、赤い髪、長い指。
一目でソ連兵の子供とわかる水子もいた」そうだ。
★引揚援護活動
引揚げ港・博多
http://hakatakou-hikiage.city.fukuoka.lg.jp/summary/engo.html
上陸した引き揚げ者の中には援助や治療が必要な
伝染病患者や女性、孤児たちが含まれていました。
福岡での援護活動は京城(現ソウル)で始まりました。
「京城帝国大学」の教授や学生達は、
朝鮮半島北部からの引き揚げ者の窮状を見るに忍びず、
昭和20年10月京城で「罹災民救済病院」、
列車・船内で診療を行う「移動医療局」
(米軍政府公認 MRU?Medical Relief Union)
を設置しました。
翌年2月には博多・聖福寺に本部を置き、
3月に女性患者のための「二日市保養所」、
4月に「聖福病院」、8月に医療孤児施設「聖福寮」を
設立し、さまざまな援護活動を行いました。
◎『高松宮日記 第八巻』
中央公論社1997年12月発行
編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助
第175頁~第176頁
「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、
通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。
2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、
下の娘は性病に罹る。
元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、
(引き受け者の)人数不足せるを(補うものを)
くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。
(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。」
◎『検証・シベリア抑留』
ウィリアム・ニンモ著 加藤隆訳
(時事通信社 1991年3月発行)
第47頁
「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、
口ではいい表せないほどひどいものだった。
暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。
・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、
抵抗するものは片っぱしから殺した。
ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、
いまでもぞっとするほど残虐なものだった」
◎『戦後引き上げの記録 新版』
若槻 泰雄
◎二日市保養所
終戦当時、朝鮮半島で
強姦された日本人を保護
http://ameblo.jp/campanera/entry-10255029198.html
・ヤン・ジュヒョン(76)
釧路出身
父親は阿寒炭鉱で数百人の炭鉱夫をまとめる会社経営者。
乗馬に興じる余裕があった程裕福な暮らしをしたいた。
14歳の時釜山に引き揚げる。
釜山には不良者がたくさんいた。
一人では街に出てはいけないと言われていた。
街に出てみると、
男たちが大声を出し、女を抱いているのを見た。
海の方に連絡船の往来を見ると日本に帰りたいと思った。
戦後最大の引揚港だった博多港
着のみ着のままの大勢の日本人を乗せた船が連日港に接岸した。
・中田治子(80)
朝鮮半島からの引き揚げ者
終戦直後の混乱期にはソ連兵や現地人(韓国人、朝鮮人)ら
による略奪、そして強姦が平然と繰り広げられていた。
中田さんの父親は年頃の中田治子さんのことを
案じて止まなかった。
当時18,9だったから坊主にして、
兄の服を着たり、男の子の格好をするように言われた。
そんなある日の夜、自宅に男たちが押し掛けます。
中田さんは隣の家に身を寄せ、静かに時を過ぎるのを
待ちました。
何か棒を持っていて入ったのか、
ガサガサ探している音が聞こえた。
「隠れていてよかった・・・
あの時、(朝鮮人の男達)に見つかって
(強姦されて)いたら・・・
舌を噛み切って死のうと覚悟していました 。」
★二日市保養所
「終戦後の日本女性の悲劇の史実」
http://create21.iza.ne.jp/blog/entry/2657208/
★伝え続けたい
~敗戦国日本女性の受けた悲劇
http://blog.goo.ne.jp/ginga7788/e/9a7870d5531c5dd6abf15eea2a3d34e1
★知られざる歴史【39話】
終戦後の博多港と二日市保養所
http://blogs.yahoo.co.jp/naomoe3/60282372.html
http://www.amazon.co.jp/%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%82%8B%E6%98%9F%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%ABBIBLIO20%E4%B8%96%E7%B4%80-%E8%97%A4%E5%8E%9F-%E3%81%A6%E3%81%84/dp/4122040639/ref=cm_cr_pr_product_top
藤原ていは夫と満洲で離れ離れになりつつも
生後1ヶ月、3歳、6歳の子供3人を引き連れ
1年以上かけて満洲から日本に戻ってくる。
(次男は数学者の藤原正彦で
ベストセラー「国家の品格」著す)
夫新田二郎は帰国後は藤原ていに全く頭があがらず
夫婦の間で「引揚の話」は禁句であったらしい。
その藤原てい親子4人も何度も死線を彷徨いつつ
博多港に引揚げてきたのであった。
昭和20年8月の日本敗戦により福岡市の博多港は
引揚港として意外な脚光を浴びる事となる。
当時海外(旧日本領や満洲)には700万人を超える
日本人の軍人民間人が
武器や資産、名誉を奪取されたまま
日本への帰国を待ち侘びていた。
米、中、英領地での引揚者は比較的順調に1年内外で
外地から日本に引揚げる事ができたが
満洲、北朝鮮地区所謂ソ連が占領していた地域では
朝鮮半島北部を通過できず
ソ連人や朝鮮人に様々に虐げられ、非常な困難を極めて
本土帰還となった。
満洲内蒙古朝鮮北部では終戦から昭和22年頃までに
日本民間人だけで老若男女12万人以上がソ連軍などの
虐殺により非業の死を遂げているという。
満洲や樺太千島の日本軍守備将兵60万人が抑留され
6万人以上が還らぬ人となったのも周知の事実である。
(抑留による死亡者数は10万人を超えているとの話も聞く)
これらの数字は東京大空襲、沖縄戦での民間死者、
広島、長崎原爆の死者と同等か上まわる数字である。
★桜の樹の下
―語られなかった引揚の惨禍
平尾弘子
http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-50/hirao.htm
終戦の翌年、1946年の春、
日本に帰還していた京城(大韓民国の首都ソウル。
日本統治下、朝鮮総督府がおかれた)。
日赤の同期の看護師10名が、福岡市の近郊、
二日市へ集結した。
対馬に帰還していた当時、20歳の村石正子さんも
日赤の事務長から連絡を受け、用件も明確には伝えられないまま、
二日市に赴いた。そして、桜の蕾が芽吹き、満開となり、
やがて葉桜となる3月から5月までの3ヶ月間、
二日市保養所でその勤務にあたった。
二日市保養所は、引揚者の救済活動をしていた
在外同胞援護会救療部によって、戦時中の愛国婦人会保養所の
建物を利用し、1946年3月に開設された。
引揚の混乱の中で暴行を受け、妊娠した女性の中絶や性病の
治療等に約1年半にわたって携った。
(中略)
保養所の2階に部屋をあてがわれ、そこでの生活が始まった。
建物は老朽化した2階家で、1階の1室が、手術室として
使用された。
そこは以前、風呂場であったのか、床がタイル張りで
手術台が1台置かれていたという。
棚には脱脂綿やガーゼ等、最小限の医療用具しか
準備されていなかった。
大陸からの引揚港博多からトラックに乗せられ、
運ばれてくる女性たちの姿を見て、
村石さんは、事の次第を理解した。
異形の者…彼女たちの様相を現わす言葉は、他に見出せなかった。
一見したところ男女の区別すらつかず、短く刈った頭を
風呂敷で巻き、汚れ痩せ果ておなかだけ膨れた女性たちが、
次々と保養所に運ばれてきた。
引揚の途上での暴行を避けるため、女たちは一様に髪を短く
刈り込んでいたが、膨らんだおなかを見れば、
それもまったく無駄であったことがわかり、痛々しさは、
いや増すばかりだった。
戦争の周縁では、どの時代、どの地域であっても例外なく
必ず性暴力の被害が生じる。
この世で最も忌むべき戦争と戦時性暴力は、お互いが癒着し、
蛇のように絡まりあい、切っても切り離すことなどできない。
更にこのような状況下でも生身の女性の体は受胎し、
加害男性の子を宿してしまう。
人間という個体の生殖の営みが、これ程、哀しく
不条理なものであると感じられることはない。
凄絶な体験を経て、一種の精神的な虚脱状態にあったためか、
女性たちは概して無言のままだったという。
迎えた人々も掛ける言葉も見当たらなかった。
まず、「お風呂に入りましょうか。」と入浴をすすめ、
衣服の着替えを用意し、2~3日休養してもらう手順だった。
旧厚生省から食料だけは、豊富に支給されていた。
手術は、医薬品不足のため、無麻酔で行なわれた。
精神と肉体に凄まじい傷を負い、言葉を半ば喪失していた
女性たちは、激痛にも一様に黙々と耐えたという。
★伝え続けたい
http://blogs.yahoo.co.jp/athityuthay/27848464.html
歴史を繙く時、
時に心が引き裂かれるような悲しみに襲われ
時にそれは怒りにすら変わります。
終戦後65年が経過しても、
我々日本人は父祖のなしたとされる
謂れなき暴虐の数々を飽く事ないまでに宣伝され、
声高に非難され、それに反論することさえ
許されないばかりか、同じ日本人が
自らの父祖を貶めて恥じません。
では、我々日本人の婦女子、
民間人は誰もが天寿を全うしたのでしょうか。
本土にあっては、米軍の国際法を無視した広島長崎への
非人間的原爆投下すら、日本軍の蛮行を懲らしめる
神の鉄槌であるかの様に喧伝され、
焼夷弾を投下して日本各地を焦土とした米軍の
無差別絨毯爆撃に非を鳴らすことは勿論、
終戦直後の米軍の暴挙すら今だ闇の中です。
「真相箱」は「真相」を隠して日本を闇社会にし
戦後65年が経過した今も日本人の目を塞いでいます
たとえ苦痛を伴い、涙を流しても
歴史の事実をしっかりと受け止め
語り伝えなければなりません。
冒頭の「母子地蔵」は、東京の浅草寺の境内にあり、
別名「まんしゅう地蔵」とも呼ばれます。
通常、お地蔵さんといえば子供の姿をして一人路傍に
佇んでいるものですが、この変わった名前のお地蔵さんは、
子供を背負い、今一人の子供を抱きかかえた母親と
思える女性の姿をしています。
そして、なぜか子供に力はなく、
母親の顔は悲しみに満ちているように思います。
昭和16年12月8日に始まった長い長い戦いは、
昭和20年8月15日に先帝陛下の御聖断によって
収束しました。
しかし、日ソ中立条約の有効期間中にも拘らず、
終戦を懼れるかのように、火事場泥棒のごとく
満州に、樺太に、千島に土足で踏み込んできたソ連軍は、
瞬く間に満州国を蹂躙し、武装解除した日本軍の
武器共々中国共産党に譲り渡し、
日本領土を強奪して支配下に置いて今に至っています。
その間の彼らの暴虐の魔の手から日本婦女子を守ろうとした
女傑「お町さん」のお話は以前に紹介させて頂きました。
ソ連の満州占領はまもなく終わり、変わって中共軍が
支配者となって満州国全土を蹂躙し、
今も満州を理不尽に占領しています。
彼ら中共軍もまた、ソ連軍同様、日本の婦女子を陵辱し、
物品を略奪し、男女を問わずに徴用して使役し、
日本人の子供はその優秀さ、勤勉さ故にでしょうか、
略奪、売買の対象にさえされたといいます。
そんな中共軍にとって「お町さん」のような女傑は
目障りだったのでしょう。
終に処刑されてしました。
★日本人の肖像:女性編その1
お町さん(更新版)
http://yfm24651.iza.ne.jp/blog/entry/165334/
★長瀬正枝著・「お町さん」
http://www.big-c.or.jp/~makichan/0716omatisann.html
昭和二十年十一月五日。
安東の街角に今まで見たことのない「開放新聞」が貼られ、
「共産党八路軍は安東に新政府を樹立した」
という大見出しが人々の目をひく。
新政府樹立が公表されると、浅葱色の木綿の綿入れの冬服に、
同じ色の帽子をかぶった八路兵の姿が見られるようになった。
新政府は自らの政策を着々と進めた。
先ず「開放学校」の開校。
ここで共産思想を学ばせ共産党員を養成し、
共産社会を確立しようとした。
教員は延安で直々に
毛沢東から教育を受けた日本人。
捕虜になった元日本兵が配属された。
定員は二百名。その殆どが元日本兵で、
その中には青年将校から見習士官まで含まれていたと噂された。
(中略)
司令部は事情聴取の後、罪状によって銃殺刑を執行する。
が、身代金を支払えば釈放になる場合もあった。
公安局は取り調べが主で重罪の判定を下すと司令部か
東カン(土ヘン+欠)子監獄に身柄が引き渡される。
東カン(土ヘン+欠)子監獄は八路軍からは、
共産思想を理解させる教育機関だと説明があった。
だが、釈放されることは稀で、
二度と姿を見ることができなかった人は何百人か、
つかむことが困難である。
後には「片道切符の東カン(土ヘン+欠)子監獄」と言われ、
日本人には恐ろしい存在となる。
安東での逮捕者は二千五百名、
そのうち、三百名が処刑と記録にある。
るるさんのリクエストにより
「女性の戦争被害と人権」を主張するプロ市民団体には
徹底的に無視される戦後の日本女性の身に起きた悲劇を
過去に掲載した記事の他、追加しても尚ごく一部ですが
ご紹介しました。
何故、
日本の歴史は正しく残されないのでしょう。
何故、
日本女性を襲った残酷な事件の数々は
闇に葬られなければならないのでしょう。
何故、
女性人権団体は「敗戦国日本の女性達の被害」を
無かった事にして平気でいられるのでしょう・・・
『勝てば官軍』の如き、勝者の歴史改竄も有るでしょうが
日頃、反米を唱えるサヨク団体までもが無視するのは
一体何故なのだろう・・・と長らく疑問だったのですが。
上記の、「お町さん」の生涯を調べるうち
先日の記事の「中帰連」だけでなく
戦後日本のサヨク反戦主義者の本当の姿が
少しだけ分かった気がします。
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>先ず「開放学校」の開校。
ここで共産思想を学ばせ共産党員を養成し、
共産社会を確立しようとした。
教員は延安で直々に
毛沢東から教育を受けた日本人。
捕虜になった元日本兵が配属された。
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教員は延安で直々に
毛沢東から教育を受けた日本人。
この日本人は、
日本共産党創立当初からの幹部・野坂参三らだろう。
野坂参三は昭和6年に亡命してモスクワに渡り、その後、
延安に移って中国共産党の援助を得て日本人民解放連盟
を組織し、岡野進という偽名で活発な工作活動を行っていた。
昭和21年1月26日、東京の日比谷公園で
「野坂参三帰国歓迎人民大会」が開かれた。
帰国早々の野坂参三は、そこでおこなった演説で、
「満洲に残っている日本人は、
中国共産党およびソ連軍の庇護のもとに、
安全かつ何らの生活不安もない毎日を送っている」
と演説したのである・・・
在満同胞が過酷な生活を送っている最中
日本人女性が中国共産党およびソ連軍の性奴隷と
されている最中に、
中共の協力者は、自分だけさっさと帰国して大嘘を付くのだ・・・
1945年の日本降伏以後、中共軍は捕虜の元軍人だけでなく
中国東北部に残っていた民間人にも共産思想を洗脳します。
4.日本労農学校
http://www.ohproject.com/ivlist/01/04.html
大店には八路軍の山東軍区の本部がありましたが、
そこには抗日軍政大学の山東分校もありましたし、
また日本労農学校の山東分校もあり、
朝鮮独立同盟の支部もありました。
この三者は一緒に行動していました。
(中略)
労農学校は、校長が本橋朝治という人で、
講師には延安から来た上田正雄、市川正一、
教務主任に国保康治といった人がいて、
この人たちが主に国際情勢とか日本の状況などを
講義していました。学生は60人ぐらいいました。
この学生のなかには日本軍のスパイと思われる者も
たくさん混じっていました
(中略)
日本軍は入れ替り立ち替りスパイを派遣して
いましたから、こういうスパイ問題がしょっちゅう
起きていました。八路軍側もわかっていながら、
泳がせて様子を見ているようなところがありました。
しかし、スパイであれ何であれ、ここへいったん来て
しまったら、ここから逃げるなんてことは不可能でした。
逃げたら必ず捕まるのです。
回りの農民はみんな八路軍の協力者ですからね。
それが分かってくると、逃げようなんてことは考えなく
なります。僕がわりと親しくした男も、最初はどうも
スパイのようでしたが、後には積極的に反戦活動をやりだした、
というのもいましたね。
*日本労農学校(中国名は日本工農学校)
1940年10月、中国共産党の本部がある延安に
始めて設立された。
当時延安にいた日本共産党の幹部野坂参三
(この当時は「岡野進」と名乗っていた)が校長として
指導にあたった。
中国共産党は日中戦争が始まったときから、
「日本兵捕虜は殺してはいけない、むしろ優遇せよ」
という命令をたびたび出して、これを八路軍兵士にも
農民にも徹底させた。こうした優遇政策を享受した
日本兵捕虜のなかで反戦活動が起こり、
「日本人反戦同盟」という組織ができていった。
やがて日本兵の捕虜の数が増えてゆくに従って、
彼らを組織的に教育する機関が必要だということで、
労農学校が設けられることになったのである。
(なお、「日本人反戦同盟」は改組されて、
44年2月から「日本人民解放連盟」となった。)
http://www.ohproject.com/ivlist/01/12.html
留用された人々は、満州国時代の鉄道病院、鉱山病院、
県立・市立病院、日赤病院、開拓団の病院、医科大学、
製薬会社、衛生技術廠などで働いていた人々である。
中には関東軍の医療部門で働いていた人たちもいた。
この時期留用された衛生関係の日本人は
3000名あまりにのぼった。
留用の形式はまちまちであったけれども、
施設を丸ごと接収され、あるいは病院を丸ごと接収されて、
留用されることになったケースが一番多かった。
それ以外には、引揚げを待っていた人々の中から選抜したり、
民主連軍に一時的に徴用されていたのが引き続き
留用されることになった、という人たちもいた。
東北野戦軍衛生部が設立されてから、民族科を設置し、
日本人の小島氏が科長の任に当たり、
多くの部署に民族幹事を置いた。
それと同時に日本人民解放連盟の人たちとも積極的に連携して、
日本人技術者への政治思想教育を行った。
解放戦争全体で、多くの日本人医務人員とその他の
衛生部門で働いた人々は、仕事に積極的に励み、
見事に任務を完遂して、
多くの模範工作者や功労者を生み出した。
1950年第13兵団衛生部の統計によると、
衛生部門だけで功労を立てた人数は1887名で、
そのうち日本人功労者は40パーセントを占めていた。
そのなかで、看護婦の桓木さんのように、
1949年12月に開かれたアジア女性大会の代表に
選ばれた人もいた。
日本の衛生技術人員及びその他の従軍者は、
北は東北(満洲)から南は海南島まで、
中国の戦友とともに、解放戦争中苦難の歳月をなめ尽くした。
そして、中国人民解放の勝利を直接目にし、
中華人民共和国の誕生を見て、中国戦友とともに心から喜び、
勝利に対する幸福感を享受した。
http://www.ohproject.com/ivlist/01/15.html
2005年は、中国にとっては抗日戦争勝利60周年の
記念すべき年であった。
8月末、中国政府は抗日戦争当時に八路軍に参加した人と
その家族・遺族を9日間中国に招いて歓待した。
山下さん夫妻も招待された。
敵国の協力者、スパイ達が
この日本で堂々と活動している・・・
彼らの言う「反戦」とは、
日本のみが戦ってはいけない反戦。
ああ・・・9条だね。
こうして、日本人女性の被害の歴史は
真相を解明されることなく、闇に葬り去られようとする。
加害の歴史のみを植え付けられ、被害者の調査も救済も
しようとはしない。
それどころか、一部のサヨク学者達は
「日本人慰安婦は、プロの娼婦で自分から志願したが
朝鮮人慰安婦は、軍に強制連行された素人の少女」
などと吹聴して回る・・・
二日市保養所の看護師だった村石正子さんが
「この女性は、性病の治療のため、入所していた。
梅毒の3期で粘膜まで損傷し、唇も割れ、
皮膚の表面から膿が出ている状態だった。
治療といってもまだ当時、抗生剤などなく、
毎日、洗浄を行なうばかりだったという。
(略)
ただ、この女性の場合、話の端々から親に身売りされ、
国内の遊郭で売春に従事後、外地に行ったら借金も減り、
賃金が高くなるという業者の甘言を信じ、大陸に渡り、
日本軍の「慰安婦」として狩り出された経歴が
自ずと偲ばれたという」
という証言が有るにも拘らず・・・
★軍隊と性管理(その3)
外国は如何にしたか
http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/21903906.html#comments
それでは世界の軍隊はどの様にしていたのでしょう。
古くは十字軍の遠征やナポレオンの時代には
兵士と同じ数の娼婦が同行したと記録されております。
第二次世界大戦ではドイツ軍は自国または占領地の
女性(ポーランド人、ロシア人等)に国家管理で
売春を強制している。
中国軍(国民党軍・八路軍)は野鶏・花姑娘と呼ばれる
中国人娼婦及び避難民となった日本人女性に強制した。
旧ソ連軍は満州で避難民となった日本人女性と
占領地のドイツ女性をあたり構わず強姦をするのが常であり、
特にベルリン陥落時の
ソ連兵の悪行はすさまじく、
「ゲルマン女性は戦利品だ」と
高名なユダヤ系ロシア人作家が
パンフレットで兵隊を煽ったとされ、
ベルリンの成人女性の50%
11万人が強姦され、
10%が性病を移されたと
東ベルリン大学病院の調査記録があり、
ドイツ人女性全般では数百万人規模であると
記録されています。
金持ちのアメリカ軍は金による自由恋愛を
基本的にしていたが、
ビルマ戦線では米軍専用の中国女性のほとんどが
性病患者であったことにより、
若いインド人女性十数人をビルマ軍機で空輸して
対処させた。
またオーストラリアとフランスの駐留時には
現地女性を使って黒人兵専用の売春宿を設けていた。
(中略)
占領下の日本ではどうであったかというと、
マッカーサーの進駐軍は日本政府に命じて
「特殊慰安施設協会(RAA)」を開設させ、
ひもじさから身体を売った日本女性に米兵の性処理をさせており、
昭和二十七年には米兵相手の娼婦は八万人を越えていたと
記録されています。
また米兵が民家にジープで乗りつけ強盗・強姦してもGHQの
報道規制で
「色白または色黒の大柄な男が・・・」としか
新聞に載せることが出来なかったということである。
また韓国軍が朝鮮戦争のときに慰安婦の組織を持っていた
ことは最近の研究で判明しているし、ベトナム戦争には
伸べ31万が参戦してベトナム女性に生ませた混血児は
五千人とも3万人ともいわれております。
現在も韓国の米軍基地周辺には洋朗と呼ばれる米軍専用の
韓国人慰安婦が存在しています。
ベトナム戦争の初めのころに駐留していたフランス軍は
植民地軍の伝統的慣習になっていた「移動慰安所」を開設,
情報漏れを恐れてベトナム女性は使わずに、
北アフリカ出身者を採用していた。
後を引き継いだ米軍は各師団のキャンプと周辺に
「公認の軍用売春宿」を設置した。
それは『レクリェーション・センター』と称してバーと
バンド付きで60個室と60人のヴェトナム女性が1回
約2ドルでサービスしていた。
(以下略)
物言えぬ敗戦国の女性達・・・
敗戦国の女性だけでなく、あのフランスでは
戦争中ドイツ人と交際していたという理由で
自国のフランス女性を公開リンチしている・・・
市民たちは、自国女性に集団で石をぶつけ
殴り、民衆の前で女性の髪を剃り落し辱めた・・・
『1944年夏、フランス解放の喜びに湧く人々の
渦の中心には、丸刈りにされた
「ドイツ人兵士と性的関係を持った」とされる
フランス人女性がいた。
彼女らは、占領中の不品行な行為に対する制裁として、
見せしめとされた。
髪を刈られただけでなく、その剥き出しになった
頭皮と肉体に鉤十字をペイントされ、
服や下着を剥ぎ取られ、通りを引き回されるという』
http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_8_Hirase.pdf
彼女達は、その後殺されたり追放されたり
(行き場は無いため悲惨な末路になったと思われる)
市民権を剥奪されたりしたしたのだという・・・
★米兵、仏女性を性的はけ口に
レイプも多発-大戦中の欧州
2013/05/26-19:29
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2013052600172
【ワシントンAFP=時事】第2次世界大戦中、
ノルマンディーに上陸しフランスに進撃した米軍兵士の多くが
地元女性との性行為に躍起になり、トラブルの種になって
いたことを示す研究書が米大学教授によってまとめられ、
6月に刊行されることが分かった。
ナチス・ドイツからの欧州解放の立役者となった
米軍の影の部分に光を当てたものとして注目される。
この本は、米ウィスコンシン大学のメアリー・ロバーツ教授
(歴史学)が著した
「兵士たちは何をしたのか-
第2次大戦時のフランスにおける性と米兵」。
米仏両国の資料を分析したもので、同教授によれば、
米軍進駐後のフランスでは、公園や廃虚などさまざまな場所で
米兵が性行為を行っている姿が見られた。
レイプも多発し、数百件が報告された。
米兵による買春もあった。
フランス女性たちは既婚者でも米兵にしつこく誘われ、
ある住民は
「ドイツ占領中は男たちが隠れなければならなかったが、
米兵が来た後は女性を隠さねばならない」
と言っていたという。
当時のある市長は駐留米軍幹部に苦情を寄せたが、
問題は改善しなかった。
戦争に勝ち負けはあっても
正義などは存在しない。
どちらが善で、どちらが悪か?
どちらも狂気に支配された世界でしかない・・・
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