ヴァイオレット・エヴァーガーデン第10話
孤独な娘。
稚いアンは、大好きな母をじきに失うことを、既に理解していました。母が死ねば、このお屋敷で独りぼっちになってしまう。
そんな不安や恐怖を小さな体で受け止めて、せいいっぱい健気に「いい子」を演じ続けてきたアン。
それなのに、自分と母との貴重極まりない時間を奪うべく出現したヴァイオレットは、アンにとって文字どおり「善くないもの」だった。想像に難くありません。
アンの被害者的な視点からお話を進めて行き、意外な結末へと導く。まさに手練れの作劇です。
五十年分の手紙の束を前にして、ヴァイオレットが「孤独な娘」アンに、ギルベルト少佐を失った自分自身を重ね合せ、滂沱とそそぐ涙は、喩えようもなく美しいものでした。
「愛する人は、ずっと見守っている」
まさに、タイトルをきちんと墨守した、可憐愛すべきエピソードだったと云えます。
今回のエピソードは、アンの救済であると倶に、ヴァイオレットの救済へ向けられた物語。
死は、人と人とを無慈悲に引き裂く。死者と生者とは、幽明境を異にしてしまう。
けれど、手紙なら届く。記された言葉は、書き手の想いを乗せて、時を、空間を超えて届く。
「届かなくっていい手紙なんてない」
幽明境を異にしてしまったアンと母親とを繋ぐ手紙は、まさに「届くべき手紙」でした。
間然するところのない美しいストーリイであり、見事な作劇です。
さてここで、敢えて疑問符を提示します。またもや思考実験です。
アンと母親の場合はこれでいいとしても、ヴァイオレットと少佐の場合は、どうでしょうか?
「届かなくっていい手紙なんてない」という名言は、「生者から死者への手紙は届くのか」という反語へと直ちに繋がります。
むろん、死者へ手向ける鎮魂の手紙を書くことは可能ですが、意地悪くいえば、しょせん「想いの一方通行」。
そんなこと云ったって、愛する人はずっと見守っているのだから、きっと手紙は、想いは届くはず。そんな反論は可能かな。
私だって、希望的に考えたいのはやまやまなのですが…。
五十年間、届き続ける手紙。それも不思議な話です。ちょっと考えれば、いくらでも疑問は湧いてきます。
ホッジンズの郵便社が五十年続く保障はあるのか。
続いたとして、あるいは後継社が業務を引き継いだとして、捜査機関でもない民間の郵便会社が、アンの住所をどうやって追うのか。本人が申告すればいいのでしょうが、春秋に富む長い人生、それが可能なのか。
それよりも、アンは五十年生きられるのか。母が予測したとおりの人生五十年分を。
こんな野暮を敢えて羅列したのも実は、アンの子供らしい訴えに、大いに共感するところがあったためです。
稚いアンは、自分と過ごす現在の時間を何よりも大切にしてほしいと、母親に訴えました。
結果的に、自分宛の手紙のための時間だったと判明し、成長したアンも得心して、めでたしめでたしの結末を迎えました。
写真もそうですが、第三者に想い出を説明するには便利なツールです。自分の裡だけにある想いをどれ程熱く語っても、人には伝わりにくいですからね。手紙や写真という「かたち」があれば、他人に理解させやすいのは事実です。
ただ、当人にとっては、どうなのか。
思うのですが、やはりアンの云うとおり、現実におけるふれ合いの時間は、母親とのぬくもりの記憶は、手紙でも埋められるかどうか分らない、唯一無二のものではなかったのでしょうか。
母親との「現実の」ふれ合いの映像は、心に深く深く焼きつけられ、アンの心に永遠に残るはず。それは、他人の容喙を許さない、本人だけの、一期一会の大事な記憶です。
「手紙」がテーマの物語に対して、無いものねだりの感想でしたね。これも思考実験の一つだとご寛恕いただければ幸いです。
繰り返しますが、今回のエピソードは、アンの救済であると倶に、ヴァイオレットの救済へ向けられた、一つのステップの物語。
だからこそ、些細な瑕瑾には眼を瞑って、きちんと墨守されたテーマに、物語の優しさに浸るのが正しい視聴態度と云えます。
残り三話。ヴァイオレット・エヴァーガーデンの物語は、どのような帰結を迎えるのか。鶴首して待ちたいと思います。
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