猫撫ディストーションExodus ギズモアナザー
4ルート目は、実は一番の巨乳ヒロイン、飼い猫・ギズモ。
このギズモシナリオは「ギズモが人間になれなかった可能性世界」のお話である。
このギズモシナリオは「ギズモが人間になれなかった可能性世界」のお話である。
シナリオ考察 / ギズモアナザー:メイド in world
ギズモのアナザーストーリーでは、猫だったギズモが言葉を覚えてだんだんと人間になっていく様子が、無印版とは違う側面から描かれる。
言ってしまえば、私が無印版の感想に書いた「ギズモ育成シナリオを期待していたのに……」が、そのまま形になったモノである。
(このシナリオライターは、ユーザーが望んでいるものがきちんとわかっているのだ。わかっていながら、無印版ではあのシナリオをブチ込んでくるのだから、その度胸は大したものである)
言葉によって認識されることで、世界は「世界」という意味を持つ
「にゃんこにとってそれまで世界は見えるものだった。
それが観るものに変わった。
言葉を使うとは、そういうことだ」
過去に何度も取り上げてきたように、人間が「人間」であり、他の動物と違うのは、「言葉」を扱うからだ。
しかし、人間の脳は文字を扱うようにはできていないらしい。
そのせいなのかは不明だが、ギズモは言葉を喋り、ひらがなを読むことまではできるようになったものの、それを書くことができなかった。
これが幼児教育ならば、本人が嫌がったとしても(ある程度は強制してでも)読み書きを習得させるべきだろう。それがこれから人間社会で生きていく本人のためだからだ。
――しかし、猫を人間社会で生活させるのが、本当にギズモのためになるのか?
もはや猫ではなく、いまだ人間にもなりきれないギズモ。
猫だった頃には仲間だったであろう他の猫に逃げられてしまい、悲しそうにしているギズモを見て、タツキはふとそう思ってしまうのだった。
「いい? あの娘がもしも本当に猫だってんなら、戸籍もないってことでしょ?
そんな状態で、暮らしていけるって本気で思ってんの?
学校は? 仕事は? あんな風で社会生活に適応できんの?
病気した時は? 動物病院にでも連れて行くつもり?
それとも、あんたが全部面倒みるっていうの?
この先何年も、何十年も。あんたひとりで、ずっとずっと先まで……」
「幸せとはなんだと思いますか?」
幸せは「なる」ものではない、「感じる」ものである――いくつかの感想文に、私はそう書いた。
幸せとは、モノやお金を持っているから「なる」ものでも、誰かや何かと比べて秀でているから「なる」ものでもない。自分の価値観が満たされたときに「感じる」ものだからだ。
しかし、その「感じ」を得るのは、人間が人間だからである。
空腹の野良猫は、自分を「可哀想だ」とも、他所の飼い猫を「羨ましい」とも感じない。ただ「お腹が空いた」と感じるだけだ。
そこには「幸せ」も「不幸せ」もない。
なぜなら、猫には「言葉」がないからである。
「考えるのはどうやって考える?」
「どうやってって……頭の中で……」
「そう。なら、頭の中で飛び交うのは言葉だ。そうだろ?
言葉があるからこそ、人はいろんなことを考えるんだ」
言葉がなければ、世界がない。
猫は自分の見ているものが「世界」であることを知らないし、自分が他の猫と同じ「世界」にいることに気がつくこともできないのだ。
「つまり幸せというのは、人によってつくられたまやかしであり、言葉によってつくられた、勘違いに過ぎないんだよ」
ギズモは言葉を知ることで、自分が見ているものが「世界」であることを知り、自分が他の猫と同じ「世界」にいることを知る。
しかし、他の猫は、自分が彼女と同じ世界にいることに気づくことはできない。
それを知っているのは、彼女だけなのだ。
そうして、彼女は知っていくことになる。
人間とは、本質的には孤独な存在だということを。
「いくら人間の姿をしたところで、猫はしょせん猫。人間とは違うのよ。
第一、人間になって猫は嬉しいのかしら?
猫は猫として生きていくのが、分相応ってやつだし、それが幸せなんじゃないの?」
「貴方は私に何を望んでいるのですか?」
無印版・ギズモルートのレビューにも書いたように、ギズモが人間の姿を手に入れたのは、タツキがそう望んだからである。
無印版でのギズモシナリオは、そうして生まれた「可能性世界」が、いつしか「タツキの望みが叶う世界」から「ギズモの願いが叶う世界」に変わっていく様子が描かれていた。
それは、ギズモが本当の意味で「人間」になり、ギズモが自分で世界を観測するようになったことで実現した世界であった。
しかし、このアナザーシナリオでのギズモは、「人間」になることに躓いてしまう。
自分で世界を観測するほどに「人間」にはなりきれなかったのだ。
もはや猫ではなく、いまだ人間にもなりきれない曖昧な存在。
そんなギズモに、どんな意味を与えればいいのか――タツキのそんな自問自答が形になったものが、問いかけてくるギズモだった。
「貴方は何を望むのですか?」
「貴方は私に何を望んでいるのですか?」
「貴方は何故私にこの姿を望んだのですか?」
「貴方は私の存在を受け入れますか?」
そう望まれた少女、ギズモ
なぜ「ギズモが人間になる可能性世界」が生まれたのか?
なぜ「ギズモが人間になる可能性世界」を望んだのか?
ギズモの問いに答えを見つけようとしたタツキは、無知っ子なギズモを手篭めにする。
こうして始まるギズモとのエッチシーンは、表面だけ見れば、タツキが独りよがりな情動をギズモにぶつけているように見えなくもない。
しかし、これもまた無印版・ギズモルートと対をなす構造になっているのである。
無印版のギズモルートは、「そう望んだ少女」となったギズモが、タツキを自分だけのものにするシナリオだった。
同様に、このアナザーエピソードは、「そう望まれた少女」であるギズモが、タツキだけのものになるシナリオなのだ。
そう望んだ少年、タツキ
この可能性世界でのギズモは、そう望まれたように「タツキのギズモ」になり、自ら世界を観測することはなくなった。
「人間」にはなれず、しかし、もはや猫でもないギズモ。
そんな彼女のいる「曖昧な世界」を、どう認識し、どう観測するか――
その選択によって、エンディングは2通りに分岐する。
「タツキが望む世界/ギズモが幸せになれる世界」を選択すると、タツキが最初にギズモに望み、そして最後までギズモが手に入れられなかった世界が訪れる。
すなわち、「ギズモが琴子の生まれ変わり」になり、「ギズモが人間になる」世界である。
どういう過程を経てそうなってしまったのかはわからないが、影絵の世界での式子と電卓の間に第四子が生まれるのだ。
「タツキとギズモが幸せになれる世界」を選択すると、「人間になれなかったギズモ」と同じ視点でモノを観ることができる世界が訪れる。
いや、それはもはや「世界」ではない。
猫になった彼と彼女には言葉はなく、だから過去も未来もない。あるのは、永遠に引き伸ばされた現在だけだ。
世界は、あの日に終わってしまったから。
言葉を捨てることで、彼らは言葉から生まれる呪いから開放されることを選ぶ。
過去とか、未来とか、苦しみとか、悲しみとか、幸せとか、不幸せとか、そういった言葉が生み出す「認識」から自由になるのだ。
彼らにあるのは、いま、そこに彼が(彼女が)いることだけ。
それ以外はなにもなく、それだけがタツキの望みだった。
だから、「言葉」が生み出すこんなどうしようもない正論に立ち向かう必要性も、もはや存在しない。
なぜなら、世界はもう終わってしまったから。
「あんたたち、これから先どうするつもり?」
シナリオレビュー
今まで描かれてきたギズモのいる世界は、私のようなユーザーにも「飼い猫が人間になる可能性世界」を観測してみたいと思わせるものだった。
実際にそうなってしまったら、その現象が常識外れだという意味では戸惑いはするだろうけれど、それよりもネコミミメイドとの同棲生活のほうが楽しいに決まっている、私はそう思っていたのだ。
しかし、このアナザーストーリーでは、無印版・共通ルートでは描かれていなかった「人間になろうとする猫の舞台裏」が描かれる。
始めはネコ語しか使えなかったギズモは、まるで赤ん坊のように癇癪を起こして、言葉を覚えるにつれて幼稚園児のようにワガママを言い、小学校に上がる子供のようにひらがなを覚えていく。
このシナリオは、そうやってだんだんと人間らしくなっていくギズモを描写することで、ギズモが象徴している「言葉と認識」というところにもう一度スポットを当て直していく。
その様子がどうにもリアルであり、猫が人間になるのはいいことばっかりじゃないんだなぁ……などとしみじみ思ってしまうのだった。
ペットを飼うのは、やはり覚悟がいることなのである。
このシナリオで描かれるのは「ギズモが人間になれなかった可能性世界」であり、「望まれたものとして生まれたギズモの本当の価値」である。
琴子のアナザーストーリーで明らかになるのだけれど、本当は、タツキは琴子を恋人にしたかったのだ。
琴子の生まれ変わりとして求められたギズモは、琴子を失ったタツキの喪失感を埋めるための存在であり、同時に自分の願望が投影された理想の少女であった。
ネコミミ、ネコしっぽ、さらさらのロングヘアー、メイド服、大きなおっぱい、これらはすべてタツキの理想だったのだ。
(たしかに、琴子のツインテールの立ち具合は、ネコミミに見えなくもない……!)
自分の理想の女の子が目の前に現れたら、猫可愛がりしたくもなるだろうし、思うがままにエッチしてしまいたくだってなるだろう。この二つは決して矛盾しない感情なのだ。
俺が望んでいたのはたぶんそういうことだ。
そういうことがすべてなんじゃない。そういうことも含めて望んでいたってことだ。
そんな自分の願望を自覚したタツキが、なにも知らないギズモに性欲をぶつけるエッチシーンにネガティブな感情を抱いたとしたら、それはもしかしたら同族嫌悪かもしれない。
ギズモに琴子を重ねたまま自分のものにしようとするタツキは、二次元の女の子になにかを求めている私たちの姿と同じだからだ。
(ときどき三次元の女の子に重ねてしまい、逮捕されたりする人もいる……!)(Yesロリータ!Noタッチ!)
そんな二次元オタクのよくない部分が浮き彫りになったようなこのシナリオにも、救いはある。
自ら世界を観測するほどには人間にはなりきれなかった彼女だけれど、「世界」を知ったことを決して後悔してはいなかった。
彼女は、世界を通して、好きな人のことをたくさん知ることができた。
猫にしか心を開くことができないタツキの苦悩やコンプレックス、それらを知ることは、猫のままの彼女であっては、決してできないことだったのだから。
「ありがとう、タツキ」
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