猫撫ディストーション 琴子ルート

最後に攻略できるのが、実妹・七枷琴子。
下まぶたのアイラインがキュートな、クールでイタズラ好きな妹である。
3年前に死んでしまった彼女が、物語上の本来の「シュレディンガーの猫」に当たる。

シナリオ考察


量子的な妹:七枷琴子


タツキがうろ覚えだった「家族性ナントカ……」という病名は、「家族性突然死症候群」だと思われる。
これは遺伝性の心臓病で、緊張や疲労によって心臓発作を起こし、失神や突然死を引き起こす可能性のある難病らしい。
「琴子を驚かせてはいけない」「琴子の部屋に入ってはいけない」という七枷家のハウスルールは、この発作を起こさないようにするため。

しかし、これが琴子に「量子的素質」を持たせることになる。
この難病が、いつも部屋で静かに本を読んでいる彼女を、扉を開けるまでは「生きている琴子」と「死んでいる琴子」が重ね合わせになっている、「シュレディンガーの猫」にしてしまったのだ。
(この世界一有名な猫さんについては、ギズモルートの考察を参照)

25年前、電卓は未来を観てしまったという。
それからの彼は、ギターを覚えようとしたり、研究に励んだり、サラリーマンになったり……未来を変えるため、いろいろなことに挑戦した。
ハレー彗星のもたらした「天啓」には、「琴子の死」も含まれていたからだ。

電卓が望んだのは、もちろん「琴子の生きている世界」である。
しかし、その世界を熱望するあまり、「琴子が死んでしまう世界」が引き寄せられてしまったのだろう。
実際、「琴子が生きている世界」では、彼女は病気の素振りすら見せなかった。
(お風呂でハダカを見られてしまった時も、発作は起こさず、極めて冷静にテンパっていた)

琴子が生まれ落ちた世界は、「病弱な七枷琴子」のいる世界だった。それは思いやりとか気づかいとかそういった名前で呼ばれるものかもしれないが、とにかく、他人からそういった認識を押し付けられることで、彼女は「元気な七枷琴子」を失ってしまったのだ。
これは彼女が繊細で傷つきやすい少女であり、彼女自身が認識する世界が儚いものであることの現れでもあるのかもしれない。

「優しかったから……私は死にました」


七枷電卓の行った実験の概要


ギズモシナリオの考察で、私は「重ね合わせの数だけ、可能性世界が生まれる」と書いた。
が、これはあくまで量子レベルでの話だ。量子的な揺らぎが起こり得る場合のみ、可能性世界は生まれる。
あなたが猫が人間になる世界を観測できないとしたら、それはそこに量子揺らぎが起こっていないのである。

逆に言えば、この世界が量子的に揺らいでいるなら、猫は人間になることができるし、死んだはずの琴子も帰ってくることができる。
それを行おうとしたのが、電卓博士の実験である。
彼は3年前に「死んでいる琴子」が観測された箱をもう一度閉じて、「生きている琴子」を観測し直そうとしたのだ。

博士の日記から引用すると、「琴子が死んでいる世界」と「琴子が生きている世界」は重ね合わせの可能性世界ではあるものの、互いが互いを観測できないほどピッタリと重なってしまっていたらしい。
その重ね合わせの世界を物理的に「ずらす」ため、博士はシンクロトロンを用いて、自分のいる世界にとんでもない質量を発生させた。
(これはCERNのLHCで計画されていたと言われている、ビッグバン再現実験=マイクロブラックホール生成実験と同質のものと思われる)
(その質量については「余剰次元から借りてきた」と描写されていたが、おそらくは「マクスウェルの悪魔」によって集められた熱量を利用したものだろう)

実験が行われた世界では、2011年1月1日午前0時、3本の鉄塔の中心地にマイクロブラックホールが出現し、七枷家を飲み込む大穴が開く。
同時に、発生したブラックホールの質量は、飲み込んだ七枷家の「重ね合わせ」をずらし、過去方向へと時空を歪める。
そうして、2010年12月10日、「琴子が生きている世界」が観測されることになった。


シュバルツシルト半径の内側、永遠の黄昏

発生したブラックホールは、その巨大な質量によって「確定した現実世界」を「量子的可能性世界」へと歪ませることはできる。
同時に、その巨大な質量はあらゆるモノに引力を働かせる。ブラックホールに近ければ近いほどその力は強くなり、ある範囲(シュバルツシルト半径/事象の地平面)より内側のモノは、光すら脱出できない速度でブラックホールに「落ちていく」ことになる。
特殊相対性理論によれば、光速に近づけば近づくほど、相対的な時間はゆっくり流れることになるという。
光速を超えた速度で落ちていく世界――ブラックホールに吸い込まれた世界――それが、ギズモルートと結衣ルートで描写された、永遠の黄昏である。

「つまり、私たちから観れば、世界はいつまでも『落ちている』状態なので、この黄昏の世界に、永遠に止まり続けるように観えるはずです」


「俺たちは生まれた時からこの世界にいたのか? それとも、生まれたことで世界を手に入れたのか?」

普通の感性をしていたなら、私たちはこの世界に「生まれた」と考えるだろう。
父親と母親がいて、そのまた父と母がいて――そんな連綿と続く世界に、私たちは生まれ落ちたのだと。

しかし、電卓はそうは考えなかった。(あるいは、そう考えるわけにはいかなかった)
観測されない世界に意味などない。我々が観測するからこそ世界は意味を持つのだ。だから、私は生まれたことで世界を手に入れたのだ――と。

私は認めない。
我々は選べるはずだ。
私が『世界』に属してるのではない、『世界を観る私』が存在してるのだ。


しかし、「いくら『消えろ』と願っても、月は消えて無くならない」。
それは、私たちの生きているこの世界が「誰か」の観測によってすでに確定されてしまっているからだ。
だから電卓は「この世界」を量子力学的な揺らぎの間の「可能性世界」に変え、その箱を開ける「観測者」を用意しようとした。

この物語で用意された観測者は、もちろん主人公のタツキだ。
彼が選ばれたのは、七枷家の中でも最も「揺らいでいる」存在だったからである。

最愛の妹の死を「観て」しまった彼は、自分がこの世界を観測し、確定してしまったのかもしれない――そう思うようになった。
だから、これ以上なにも観ず、なにも決めずに済むように生きてきたのだ。
そんな彼だったからこそ、観測者に選ばれ、再び琴子を観ることができた。

しかし、電卓が用意しようとした真の観測者は、七枷樹ではない。
それはモニターの前でタツキを観ている私であり、あなただ。


世界を外側から観る者

コペンハーゲン解釈によれば、猫箱の中の重ね合わせは、その箱の中身を外部から観測することで確定される。
この世界を猫箱にするのならば、観測者はこの世界を外から俯瞰する存在でなければならない。(まるで神様のように)

しかし、博士の日記によれば、彼は「人の手で人を超える観測者を生み出すことはできなかった」らしい。
ならば――と彼は、人の身で観測可能な世界を作り、その世界を現実と置き換えるため、現実世界を歪ませた。
そうして作り出された世界が、このゲーム「猫撫ディストーション」なのだ。

プレイヤーである私たちは、タツキを通して様々な可能性世界を観測し、確定させてきた。
私たちこそが、電卓の計画通りの「観測者」なのである。


意識の難しい問題ハード・プロブレム


「琴子が生きている世界」と「琴子が死んでいる世界」が重ね合わせになっていることに気がついたタツキは、ずっと琴子と一緒にいられる方法を考えようとする。
しかし、その矢先に蜜柑さんの家宅捜索が入り、結衣と式子と電卓は逮捕されてしまう。

これは、おそらく柚の要素でもある「世界の自己修復作用」が最も顕在化した形なのだと思われる。
「琴子がいる」ことについて考えるのは、「琴子がいない」ことについて考えるのと同じ。琴子がいない世界は、他の家族がいない世界でもあるのだから。
その影響が現れたのが、このイベントなのだろう。

蜜柑さんは(あるいは、柚は)(もしくは、世界は)3人が書類を偽造して「成り済ましている」と考えた。
今までの七枷家と、世界が歪んだことで変わった七枷家は、まったく別の存在なのだ――と。

しかし、タツキはそうは考えなかった。
どれだけ若返ろうと、いくら性格が変わっていようと、仮に人間になったとしたって、それでも同じ存在なのだ――と。

「どうして猫が人間になれるの?」
「だったら聞くけど、どうして猫が人間になれないんだ?」


タツキがそう確信していたのは何故か?
タツキをそう確信させたものは何か?


「そもそも、私という存在は何だ?」

猫撫_琴子2

これは、結衣ルートのエピローグで、結衣が「私たち」に投げかけた問いだ。
私たちは、この光景を「黒っぽい服を着たクールな感じの女の子が、昼間のショッピングモールにいる」と認識する。
(実際は1024*600個のドットに256^3色で表示されたデータでしかないにも関わらず、だ)(絵じゃん)
それを踏まえて、結衣は自分を「概念ミーム」と呼んだ。

「私は結衣という『意味』を持つデータであり、その『実態』はどこにもない。
 私は『どこにでもいるが、どこにもいないもの』だ。
 結衣という画像のデータであり、結衣という意味を持った言葉だ」


あるいは琴子は、細胞の新陳代謝を挙げ、人間の身体は原子レベルで考えれば数ヶ月単位ですべて入れ替わっていると指摘した。
肉体や実態といった物理的なモノは、存在を定義づけるものではないと言うのだ。

「粒子はどこからでも集まってきて、一時的にこの体を作り、またどこかに拡散する。
 この体は常に入れ替わってる。私という『形』は仮のものなのです」


しかし、それが絵でも、クローンでも、アンドロイドでも、人間でも、そこに「魂」を感じたのなら、それはたしかに存在している。
(そう考えることができたから、あなたはこの文章を読んでいるのだろうと思う)

「ただのモノに『意味』が与えられた時、そこで初めて粒子の固まりでしかないこの宇宙は『世界』になる」


その、ただのモノに「意味」を与えるもの――それが「クオリア」である。


揺らがないもの、クオリア


式子の望む可能性世界を観ず、結衣の望む可能性世界を観ず、ギズモの望む可能性世界を観ず、柚の望む現実世界を観なかったタツキは、曖昧な存在だった。
そうして「歪み」に飲み込まれ、曖昧な妹と同じ「量子的存在」となった彼は、時間もなく、空間もない、意味だけが漂う世界に放り出されることになる。
なにも「観測」せず、なにも「認識」せず、なにも「確定」しない――そんな世界にあるのは、「意味」を与えられるのを待つ「言葉」だけなのだ。

「兄さん……。私を観て……」


しかし、そんな言葉の世界から、タツキを呼ぶ言葉があった。
世界が望む必然が、箱を開けることをためらう観測者に呼びかけてくるかのように。

「お兄ちゃん! 私を観て!」


タツキはその言葉に「琴子」という意味を与える。
そこには、可愛くて、ちょっと天然で、でも頼もしい、キラキラの銀髪を二つに結わえて、下まぶたまでキッチリとアイラインを引いた、琴子のあの「感じクアレ」があったからだ。

「光が『光』であることを誰かが認識して、それに『光』という意味を与えたの。
 そのときから光は『光』になり、光と共に『世界』が生まれた……」


優しくて穏やかな緑色の「感じクアレ」があれば、それは式子だった。
ガーネットのような凛とした「感じクアレ」があれば、それは結衣だった。
悪人よりタチの悪そうなほどアホな「感じクアレ」があれば、それは電卓だった。
モフモフしたくなるふわふわピンクの「感じクアレ」があれば、それはギズモだった。

「私たちは目で現実を見てるのではない。
 意味の組み合わせを認識し、それを脳の中で『現実』として再構成している。
 だから人間は、一人一人がそれぞれ別の『現実』を観てるんです」


私たちがモニターに表示された「0」と「1」のデータの集まりに、琴子を観て、式子を観て、結衣を観て、電卓を観て、ギズモを観たように。
タツキは漂う言葉に「クオリア」を感じ、意味を与えていった。

「私は琴子という『意味』です」


そうして、光とともに「世界」が生まれた。


私たちは生まれることで世界を手に入れる:イデアリズム


電卓の日記にはこう記されている。

我々は誰もが同じ世界を観ている。それと同時に、自分にしか観えない世界を観ている。
この重ね合わせの状態こそが『世界』の本質である。


これはギリシャ哲学での「イデア論」そのものだ。
「誰もが観ている同じ世界」とは、イデア論で言う「イデア界」であり、タツキの言う「エントリー・モード」だ。
「自分にしか観えない世界」とは、イデア論で言う「感覚界」であり、私たちが「現実」だと思い込んでいるものだ。

イデアとは真理のことであり、イデア界とは、存在がもっとも真実の姿で在る世界である。
私たちの魂は生まれるまではそのイデア界にあって、誰もがすべてのイデアを知っているのだという。
しかし、肉体という牢獄に閉じ込められ、言葉を覚え、世界を知ることで、イデアをだんだんと忘れていってしまうのだ。
プラトンによれば、私たちがより善く生きようと学習し、知識を得ることは、かつて覚えていたイデアを思い出している行為にすぎないのだと言う。

余談になるが、式子が植物を短時間で成長させることができたり、結衣がハトやガラクタなどを元素転換できるのは、彼女たちがイデア(あるいは、純粋な意味)であることを示していると思われる。
彼女たちの魂(あるいは、意識)はイデア界にあり、その世界にある植物やハトを現実に投影することができる。これが彼女たちの「力」の本質なのだろう。
(あるいは、そういう存在である、と定義されている)

タツキが観た七枷の家族は、姉は柘榴色の髪をした大人びた少女で、妹は足まで届きそうなほど長い銀髪を二つに結わえた少女で、母は緑色の髪をショートに揃えた少女で、父は懐かしのテクノカットの青年だ。
しかし、「イデア界」での式子は決して緑色の髪なんてしていないだろうし、琴子だって銀髪なわけがなくて、あれほど髪も長いわけもない。
(あはは~、緑の髪の人間なんていないよ~)
しかし、タツキは彼女たちをそう「感じ」た。それがタツキの「感覚界」に投影され、タツキは(あるいは、私たちは)それを「現実」だと思い込んでしまう。
それが、「自分の見てる世界が、自分にしか見えない、たったひとつのもの」「私だけの現実パーソナル・リアリティ」ということだ。
(たとえば、それが趣味嗜好の「人それぞれ」を生むことになる)(同じゲームをプレイしても、面白かったと思う人と、つまらなかったと思う人がいるように)
人間は、本質的には孤独な存在なのだ。

しかし、完全な孤独ではない。
人間は孤独な「粒子」であると同時に、共鳴できる「波」でもあるからだ。


家族は揺らがない


このシナリオでは、私たちが当たり前に認識している「世界」と、当たり前に認識している「自分」という存在について問い直してくる。
それは本物なのか? ただの思い込みじゃないのか?

実際、私たちと同じ観測者となった「琴子が死んでいる世界」のタツキは、「記憶の中の琴子」と会話をし、「人間になったギズモ」を観る。
それはおそらく柚には観えないものだろうけれど、タツキにとってはたしかな現実だ。

もしかしたら、あなたはこう言うかもしれない。
――琴子とお喋りできるって言ったって、結局それって「現実」じゃないし、自分の記憶を材料にした妄想でしょう?

たしかにそうかもしれない。
けれど、「夢」と「現実」の境目がどこにあるのか?
いまあなたが(私が)観ているものが夢じゃない(現実である)証拠がどこにあるのか?
(頬をつねっても痛い感じがする夢を観ているのかもしれない)

「主観的に『夢』と『現実』の区別をつけるのは不可能です。たとえ誰であっても……」


確かなのは、いま、それをあなたが(私が)観ているということだけ。
ならば、夢だろうが現実だろうが、そこに違いなんてないのだ。

あるいは、あなたはこう言うかもしれない。
――琴子とお喋りできたとしたって、触れられないし、一緒にご飯も食べられないし、デートもできないし、それじゃつまんなくない?

エピローグの琴子が会話だけだったのは、琴子の部屋にある琴子の「感じ」が、それだったから。
リビングにはゲームをしている琴子の「感じ」があったり、キッチンでは謎料理を作っている琴子の「感じ」があったり、公園には琴子とボート遊びをする「感じ」があったりする。

そして、その「感じ」を持っているのは、タツキだけではない。琴子もまた、タツキの「感じ」を持っているのだ。
だから、原っぱには一緒に流星群を見る「感じ」があって、エッチしちゃう「感じ」が生まれたりもする。

「私たちはお互いをいつでも呼び出せる。
 いつでも感じ合えるよね?」


誰もが別々の世界を観ている中で、同じ「感じ」を共有して、同じ「せかい」を観ることのできる関係。
孤独な粒子である私(あなた)と共鳴する、揺らがない絆。
それを、彼らは家族と呼んだ。


クオリアとはなにか(ザケんな! なにが「ハード・プロブレム」だ!)


「私は」なぜ琴子にジト目で見られたとき、あの「キュンとした感じ」を覚えるのか。
「私は」なぜ寂しそうな柚を見たとき、あの「抱きしめたくなる感じ」を覚えるのか。
「私は」なぜ式子さんに「母さんって呼んで」と言われると、母親の学生時代のアルバムを見つけてしまったときと同じような「なんとも言えない感じ」を覚えるのか。

たとえば、琴子が「おはよう、兄さん」と言ってくれたときの、私の感じている「胸キュン」を科学的に解明しようとしたとする。
その結果、「体温が0.2度上がり、脈拍が毎分5回早くなり、3ccの発汗があって、声がちょっと上ずる」というデータが取れたとする。
しかし、これは「私が琴子の前ではちょっとだけキモくなる」ということがわかっただけで、私が琴子に抱いている気持ちそのものについては何一つ説明できていない。
もっと詳しく脳波や脳内物質の様子を計測したとしても、同じことだ。
「クオリア」はいずれも主観的なものであり、客観的に計測することも、データ化することもできないのだ。

人間の脳も、突き詰めれば「ただのモノ」でしかない。だというのに、なぜかその物質は「意識」を持ち、どうやってか客観的に計測不能な「主観的な意識体験クオリア」を生み出している。
これが「意識の難しい問題ハード・プロブレム」だ。

私たちはなぜ意識を持ち、どうしてクオリアを感じているのか――
私たちの得たクオリアは、どうやって他人と分かち合えばいいのか――
私たちはどうすれば孤独でなくなることができるのか――

シナリオの中では、この難しい問題ハード・プロブレムについては触れられていない。
だから琴子エンドでは、OPテーマが流れるのだ。

「なあ、なんで悩んでんだ?」
「そうさ、簡単なことじゃねえか!」



シナリオレビュー



さほど長くないにも関わらず、この作品の哲学がぎゅっと詰まったシナリオ。
しかし、凝縮されすぎて「ちょっと意味がわからなかったんだけど……」ってなる人のほうが多そうな気もする。

シナリオ解説では触れなかったけれど、このお話は「観測問題」にも触れているはず。
だけれど、私にはちょっとよくわかりませんでした。
なので、この点について知りたい人は、他所のレビューを参照してください……。
(正直、この「ゲーム内の主人公をプレイヤーである私たちが観測している」というメタ要素で成立するギミックは、私はあまり好きじゃないんです)

このお話を一言でまとめてしまえば、「人は記憶の中で永遠に生き続ける」というもの。
それを物理学的に(あるいは哲学的に)証明しようとしたら、こういうストーリーになってしまったのだろう。

たしかに、ある意味では琴子とずっと一緒にいられるハッピーエンド……と言えなくもない。
そんな琴子とのエッチシーンは、想いを交換して、愛を確かめ合う、それ以上の意味を持っている。

その一つは、琴子(と、ひいては七枷の家族たち)が「哲学的ゾンビ」ではないことの証明だ。
この世界が電卓博士の作ったプログラムではなく、私たちがマトリックス的「水槽の中の脳」ではないことを、「クオリアの干渉」によって明らかにしているのだ。
クオリアの正体を科学的に解明できない限り、AIにクオリアを持たせることは不可能だ。
それなのに生まれたエッチシーンは、タツキと琴子のクオリアが交わって描いた縞模様そのものであり、それはすなわち琴子がクオリアを持った「人間」だという証明に他ならない。
背景はプログラムかもしれない。しかし、琴子がそこにいる、それだけは紛れもない事実なのだ。

これは同時に、私たちが完全な孤独ではないことも示している。
家族とは、決して血の繋がりや紡いできた時間を意味しているわけではない。
クオリアを共有できる関係。感じ合える関係。そうなったとき、私たちは家族になるのだ。

でも、私はそんな哲学的干渉縞を描くような交わりじゃなくて、琴子ともっとイチャラブしたかったし、兄妹で禁断の愛を育みたかった。
そんな琴子とのエッチシーンは、1H3CG。ご褒美少なすぎ問題が発生しています!
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