幕末、日本が開国することにより、日本の姿は少しずつヨーロッパと米国に知られるようになった。その中でも、江戸文化の華でもある「浮世絵」が19世紀後半のヨーロッパの画壇、特にフランスのそれに与えた影響の大きさはよく知られている。その後も、例えば、建築家ブルーノ・タウト(Bruno Taut ドイツ人)による桂の離宮の紹介などを通して、日本の建築美も建築家の世界ではよく知られるようになった。いずれも、日本の造形美に関する。
今日では、工業製品の他に、世界で広く受け入れられているのものには、映画、アニメ、マンガがある。漢字の刺青もこれに加えて良いかも知れない。いずれも造形美に関する。
しかり。日本民族の造形感覚は世界のトップランクであり、工業製品の強さもこの造形への感性に負うところが大きい。食においても、「スシ」が世界共通語になっているように、日本料理店は世界中に広まっているが、この原動力の大きな部分は、単に「オイシイ」だけではなく、料理を彩る造形感覚にあると言えるだろう。
民族のこの強みは、強いだけにあまり努力せずに、調子よく延ばしていくことができる。一方、相変わらず悲惨なのは、「言語がらみ」の分野である。
言語がらみの無形のモノの輸出、あるいは世界への浸透でもっとも強いのは、アングロ・アメリカン(Anglo-American)であることは誰の眼にも明らかだろう。この200年、彼らが世界の主導権を握り続けることができたのは、その工業力やそれを背景にした軍事力であることはもちろんであるが、それだけではここまで来なかったであろう。彼らの猛烈なおしゃべり、言い換えれば黒を白と言いくるめるぐらいは朝飯前という論議力(ディベートdebate力)と自分達のやっていることが正しいという単純無比の信念がなければ、彼らの覇権はありえなかった。
このことは、大英帝国の覇権の前に、16世紀から17世紀にかけて、世界でもっとも強大であったスペイン、あるいはスペイン人を見ればよりはっきりする。彼らが世界に輸出したのは、イエズス会を尖兵としてのカソリックとスペイン語と「血」だけである。血の輸出によって、主にアメリカ大陸ではスペイン女性の美が混血の形で拡がったけれど、そこでの権力維持は失ってしまった。宗教以外の事柄を、言語でもって説得するような厄介な仕事はスペイン人の性には合わないのだ。先日の会議でベネスエラのチャベス大統領が前のスペイン首相の非難をやめないものだから、同席していたスペイン国王から、「Por que no te callas.」、つまり直訳すれば「君はどうして黙らないのだ!」と一括されたことが新聞を賑わしていたが、彼らの言語は神と語り、愛をささやき、口げんかをするのには最適ながら、論理的に説得することには使われない。彼らはそんな面倒なことはしたくないわけだ。
言語でもって世界を制覇することへのアングロ・アメリカンの執念の強さが、今日の、工業化先進諸国の経済と政治と社会のシステムの大半の出所になっているところに見られる。日本のように、トコトン英語に弱い民族の国であっても、いたるところにアングロ・アメリカンのシステムは導入されており、そのことが今や国を危うくする基にもなっている。彼らに、一見「論理的」にまくし立てられると、とてもじゃないが、われわれ言語障害の民は抵抗できない。その結果はいつも同じで、「おっしゃる通り」となる。
苦手なことを克服するには「得手に帆を上げる」よりも3倍も4倍もの努力が要る。ゆえに、そんな努力は報われないし、しんどいからやめようという考えの方が理にかなっているのだろう。
しかし、世界は変りつつある。その状況の中で日本、あるいは日本民族は世界で有数の「知的資源」(intellectual resources)を有しているのだから、その資源を掘り出して、世界に輸出する手がある。知的資源は、石油やウラン鉱石と同じように、くみ出したり掘り出したりしなければ地地下に埋もれたままである。日本人の間であれば、以心伝心で相当程度まで伝わる(つまり利用できる)だろうけれど、海の向こうで利用してもらうには、保有する資源を地下から取り出して、「加工」して、プロダクトに仕上げる工程が必要となる。すなわち、言語で記述し、ドキュメントにまとめなければならない。それがプロダクト(制作物)になる。そうすれば、これもアングロ・アメリカンの産物の一つであるが、著作権と特許権という知的財産権利で保護される道につながる。
別に権利がどうのこうのと言わなくとも、文書にまとめられていれば、知的制作物として、世界の中でそれなりの尊重をもって扱ってくれる。
有限の地下資源である石油は一滴も出ないけれど、日本はその特異な生い立ち、和魂洋才の歴史もあって、知的資源の宝庫である。造形にからむ制作物は、得意分野だからあまり努力しないでも世界が引き続き受け入れてくれるだろうけれど、それ以外の知的資源、つまり言語表現がからむ知的資源は、大汗かいて掘り出して加工しなければ制作物に仕立てられない。
世界で受け入れてくれる、あるいは世界が必要としているこの知的制作物を作るのに、たしかに日本語は最適な言語とは言えないが、その弱点は、その気になって努力すれば克服できる程度のものであり、悲観することは無い。世界の主要言語と互換性を持った、すなわちそれらの言語に容易に転換できる日本語でもって書き表す、すなわち知的資源を知的制作物に仕立てることは、やる気さえあれば出来る。
食べることに困るようになってからでは、もう遅い。腹が減ってはこのような作業はやっていられず、手から口へのその日暮らしに追われることになるから、「知的」な作業はお預けとなる。今のうちしかない。
(07.11.22.篠原泰正)