日本語はなぜ動詞が発達しなかったのか
先の(21)話に山本元帥が撃墜されたときの搭乗機が旧海軍の一式陸攻であると書き、この正式名は「一式陸上攻撃機」ということから、ある時、ある若い人から、この飛行機は「陸上攻撃用」なのですか、という質問を受けた。なるほど、名称だけから見ると「陸上を攻撃するための機」と理解されてもおかしくはない。もちろん、実際はそうではなく、この「陸上」はゼロ式艦上戦闘機というように、「艦上」に対比される意味で使われており、意味するところは航空母艦を基地とするのではなく、「陸上を基地とする攻撃機」であ。
陸上攻撃用どころか、この飛行機は、太平洋戦争開戦初頭の12月10日、「マレー沖海戦 Sea Battle off Malaya」において、英国戦艦プリンスオブウエールス(British battleship Prince of Wales)とその同僚の巡洋戦艦レパルス(battlecruiser Repulse)を、魚雷と爆弾で撃沈するなど、英米の艦隊攻撃がその主戦場であった。
戦争の話が今日の主題ではない。
日本は中国から漢字の輸入を始めたときから、無数の漢語を借用し、また自分でも漢字を組み合わせて数え切れぬ熟語を作ってきた。しかし、賢明にも、単語は取り入れたが、言語そのもは日本語であることを保持してきた。そして、漢語を日本語の中に組み込むやり方においてうまい方法を採用した。すなわち漢語(二字以上の熟語)を丸ごと名詞化しそれを主語や目的語に使うというやり方である。
まったく何気なく使っている熟語を見てみよう。無策、非道、不純など、これらの熟語は中国語の処理順序のままであり、否定語が先に来ている。オリジナル日本語(やまと言葉)では、策が無い、道に非ず、純ではない、となるのは言うまでもない。
あるいは、観劇-劇を観る、就職-職に就く、除草-草を除く、というように、中国語の流れである動詞から目的語の順序のまま用いて、気にもしていない。中国語の順序のままの言葉を、日本語の順序を崩さず、つまり違和感なく取り込む秘訣は、まとめて名詞扱いにして、その後ろに「する」という動詞をつけることで解決する。「劇を観る」ではなく「観劇する」と書いたり話したりできる。
これは、どのような単語でも取り込む-中国語以外の外来語を含めて-ことができる魔術のような仕組みであり、それによって日本語は高度にしてかつ多彩な表現を可能にしているのだが、大きな欠点ももたらしている。一言で言えば、厳密性に欠けるという。その一つは、述べてきたように何でも「何々する」で片付けることができるために、「動詞」の発達が進まなかったところにある。
もう一つは、冒頭でその例を示したように、熟語を羅列することで、書くほうも読むほうも、なんととなくわかったつもりの表現がそこらじゅうに見られ、それが放置されたまになっていることにある。名詞の形容詞なのか、動詞の目的語なのかを意識することなく表現してしまうために、「陸上を基地とする攻撃機」なのか「陸上を攻撃する目的の攻撃機」なのか、どちらとも解釈できる表現があたりまえに通用し、誰も不思議に思わない。発信側も受信側も互いにわかったつもりのなあなあで済ましているわけだ。
発信側と受信が、互いに日本語を母語とする者であれば、そのなあなあで事は収まるだろうが、このあいまいな表現を英語やその他の外国語に転換しようとすると、大汗をかくことになる。大汗をかいても翻訳結果が正しければ、まあ良しとしてもいいが、大汗の結果、意味の通らない翻訳になる場合が極めて多いことになる。翻訳者が「陸上攻撃用の飛行機」と誤って解釈すれば、それが、外国語に転換される。そのような間違った翻訳をするのは、海軍の飛行機の編成と種類を知らないからだ、もっと中身を勉強しろと言われたら、翻訳者は「万能」であることを要求されるようなものだ。
また、英語をはじめヨーロッパ言語は「動詞」がすべての文章の軸になる言語であるから、すなわちその動詞によって、何がどうしてどうなる、を厳密に表現していく言語であるから、動詞が貧弱な日本語文章をそれらのヨーロッパ言語に転換するのは大変な作業となるし、往々にして、本来日本語で表現「しているつもり」の内容を誤って理解して翻訳してしまう結果となる。
特に、論理関係を明確に規定しながら記述しなければならない各種の仕様書、例えば特許仕様書を英語で仕立てる場合には、ここまで書いてきたような、日本語文章のあいまいさ、いいかげんさは致命的な問題となる。ただでさえ、日本語はこのようなあいまい性を含んでいるところに、日本人の私が読んでも意味がつかめない「一見日本語風」の国内特許明細書の文章などは、例えば英語文章には、基本的に翻訳不可能なのだ。
(05.10.5 篠原泰正)