モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

要求することについて

 http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090223/1235394696
 ごく簡単に。と思ったけど、結局、随分長くなった。

一億総懺悔とは違います

 責任が、全員にたいするひとまとまりの責任としてあることは述べましたが、全員が同じように果たすべき、という話をしているのではありません。一億総懺悔の話とは、全然関係ありません。皆に責任があるということと、皆に等しい責任があるということは、別の話です。村上の責任を問うときに、自分の責任について考えるからこそ、それは本当に村上に対して問える責任なのか、ということを反省的に考えられるのです。

 逆に考えますが、天皇の責任を考えるときに、日本社会に生きた一人の人間としての責任を考えないではいられません。戦後に生きてその相続者たる自分の責任を考えないわけにはいきません。それらは同じではありません。同じではありませんが、一つのあってはならないことに対する共同の責任です。……これでわからないなら、ほとんど絶望的ですけれど。

mojimoji氏の立論構成を受け入れると、そもそも「リスクがないことを示す」ことはほとんど不可能に近いのではないだろうか。

 少なくとも、リスクが小さいことを示すべきでしょう。それだって、究極的には不可能です。それでも、「村上春樹にはなんらかの批判を示すだけの余裕はあるはず」と勝手に考えて、批判の意思を示すことを、僕は要求しました。これは、正確な把握ではなく、実情を知らないままに要求していることです。そのことに自覚的でありたいと思います。


 何かを要求することについて、僕がどのように考えているかを語っておいた方がいいでしょう。僕は元々、具体的な誰かを名指しして何かを要求するのは、基本的に嫌いです。ひどく暴力的だからです。相手がそれを可能であるかどうか、一旦無視しなければ、そんなことはできないからです。相手にそんな余裕がない場合でも、要求は、名指しである限り、その人にそれを要求します。そんなことは、基本的にしたくありません。

 それでも、今回のようにやることはあります。しかし、やらないで済ませられることはやらないでおきたいといつも思います。だから、やる場合でも、最小限に、と思います。

 大抵の場合、僕が義務について語る場合には、誰かがなすべきこととして、不特定多数に向かって語るような語り方を選びます。それぞれが自分の置かれた状況を省みて、可能なことをする、なにが可能かは、外から人が見てもわからない、わからないから、具体的にあなたはこれをすべきですね、などと要求したくない。誰かがやるべきこととして語り、それぞれができることを一つでも多くやり、全体としてなされるべきことがなされる。そのために明らかにされるべきことを明らかにする、そういうことをいつも考えます。相手が世界的な大作家だからといって、こういうことへのためらいを持たなくて良いとは、まったく思いません。あなた方は、一体、村上春樹の何を知っているのですか?身近な誰かならともかく。*1

 ついでに言えば、僕は村上がリスクを取った、エライ、などと評価したりはしていません。むしろ、村上が(実際にやったことを超えることに対する)リスクをとらなかったことを述べたはずです。その上で、それを第三者として責めない、ということを述べたのです。正反対に理解されるのは、奇妙としか言いようがありません。それはリスクなどと呼ぶほどのものではない、と思う人は、そのように言っていればいいと思いますが、僕はどうしても必要だと思う場合を除き、そういう判断を差し控えたいと思います。しかし、自分が最低限、これはお願いしたいという場合には、無理な判断をすることもあります。

優先順位

だがくりかえすが、茶番と欺瞞から出発せざるを得ないという条件は、そのまま、私たちの言論がまた茶番であり欺瞞であってよいという許可を表象(=代理)しているわけではない。

 村上のスピーチについては、茶番と欺瞞から出発していると思いますが(これは当たり前)、徹頭徹尾茶番であり欺瞞であるとは思っていません。その上に立って、言えることを言っている、と見ています。これは繰り返し述べている通りです。100点つける気はありませんが、少なくとも叩く気にはならない、と言っています。

 村上は、受賞することも受賞拒否することもできた。受賞は、その意味で、拒否よりも一歩踏み込んだ加担です。そのことを否定したことはありませんし、どこかでは言及したはずです。ただし、受賞することによって、初めて、エルサレムでイスラエル人の前で語る機会を得ました。

 元々、欺瞞の上でなされることです。受賞することでもう一歩踏み込むのを避けるのか、それとも、直接話す機会を取るのか。その選択は、どちらが正しいなどと権威を持って答えられる人は誰もいないでしょう。後は、その人がどういう価値判断で優先順位をつけたか、でしかありません。

被解釈対象を生み出すことも生み出さないことも選択できた村上春樹の責任が極度に軽視されている状況で、「解釈の選択」という選択については無条件に受容するよう暗黙に要求されている「本人」が、なぜ、その上さらに、解釈を選択した責任まで問われなければがならないのか。

 村上の責任が「極度に軽視されている」とは、僕は思っていません。あなた方において、村上を問おうとする一人一人の責任が酷く軽視されているな、とは思っています。

「天皇をどのように解釈するかはあなたの自由です。なにしろ純粋な象徴なのですから。憎い天皇も愛すべき天皇もすべてあなたの選択次第です。しかしあなたは最低限あなたの解釈には責任をもたなければなりません。わかりますよね?これは至極当たり前のことだ。憎い天皇を選んだことによって生じたコストは無論あなたの責任です。だいいち誰がその責任を肩代わりできるというのでしょう。わかりますよね?そう、あなたは大人だ…。」

 天皇がやったことは、村上のスピーチ程度に解釈の余地のあることでしかなかったというつもりでしょうか?これはヒドイ矮小化ですね。

2点

 3については、どうでもいいや。


 4は、文中の「だが既にみたようにmojimoji氏にとって、事象は互いに独立しているというよりも一蓮托生になっており、個々人は茫洋とした連帯責任に囚われている」が致命的な誤読であることは示したので、全体としてダメでしょう。

戦後責任

「味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げ」るという言葉を評価しているようだが、「敵」の死の真相を究明することにまるで興味がなく、すすんで調べる努力もしない日本政府に対して、いかにも陳腐な「味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げ」るというクリシェが、結局はどのように機能してきたかよく考えるべきだろう。

 当たり前のことです。日本政府は日本の戦争犯罪について真相究明すべきです。ただし、その責任は村上と村上の父の責任ではありません。日本政府に対する主権者全員の責任です。そこで引受けうる役割は人によって違います。しかし、できることを人はやるべきです。当然村上自身も。

 村上の父が、ただ祈るだけであり、具体的な戦争責任を追及する運動についてなにもしなかったのだとしたら、それは批判されるところでしょう。ただし、村上の父がたまたま話題になったから、村上の父だけを批判するというのであれば、それは村上の父以上に批判されるべきことでしょう。村上が語ったことに対して、「味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げ」ること以上に、具体的な戦争責任の追及が必要だ、今からでも、ということへの注意が喚起されることは大事なことですから、それは是非やるべきだと思いますけれど。

 では、村上本人への批判になるでしょうか。僕はならないと思います。なぜなら、村上は「壁の側に立つな」と、自分で付け加えているのですから。村上の父親は、それはなしえなかったかもしれませんが、村上は、そう付け加えているのです。祈って終りでよい、などとは述べていません。


 ところで、村上は、スピーチ以外のところで何かをやっているでしょうか?そんなことは、誰も知る由のない話です。僕は、村上に対しても、「できることをやるべきだ」と述べています。ただし、村上にできることがどの程度のことかについて、判断を差し控えます。僕が村上の家族であったならば、その状況をもっとよく知るでしょうから、その知っていることに基づいて、もっとやるように、いうかもしれません。しかし、知らないことについては知らないのですから、可能な限り判断を差し控えます。

 先にも述べましたが、なにかを要求する際には、誰かに名指しでこれこれをするべき、ということを、基本的には言わないようにしています。その人がどんな状況にいるか知らないからです。知っている範囲については、折を見て、言ったりします。それは自分の家族や友人に対してです。でも、友人ともなれば、知らないことも増えてきます。家族でも知らないことはあります。だから、負担になるようなことを言う場合には、考えます。チラシを一枚読んでもらうとか、署名を一つしてもらう程度のことなら、とても小さな負担ですから、別にいいんじゃないかと思っていますがどうでしょう。署名は、名前がどこかに出るのは嫌だ、という人もいますね。そのことを話すこともあります。デモに誘うこともあります。それを通じて考えるようになってくれれば、後は、できる範囲のことから、もう一つ、やることを増やしてくれるかもしれません。それは、その人自身に考えてもらうしかないことだと思います。

余談

 しかし、タイトルの「みたいな。」にまで過剰な読み込みをして批判するのは、一体どういう執着のなせるワザなのか。大きなお世話ですよ。

追記 2009/03/02

http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090226/1235632809

1。「皆に責任があるということ」と「皆に等しい責任があるということ」は違うということを僕は述べた。つまり、「それぞれに異なる責任がある」と述べた。しかし、「全員にある」と述べた。これだけ繰り返してなお、こう書かれる。

つまりイ⇒ロと推移する思考は、「皆」(や「一億同胞」などでもよいだろう)に対して「内部」から差異(独立、分離、拒否等々)を(常に既に)要求し続けていた他者が歴史的現実の中で存在していた(今もいる)にもかかわらず、彼ら彼女らに対するresponse-ability(の問題)に対して indifferenceになってしまう点で問題なのである。

 つまり、「異なる」と書いてるのに、“indifference”になってしまうというのは、要は「モジモジが「異なる」と書いても無差別だ」、これ、属人的に「モジモジを信用しない」と書いてるのとなにが違うのか。


2.これについては、1への反論で足りている。「異なる」を無理矢理“indifference”に押し込めない限り、この批判は成り立たない。


3は、もういいや。「彼はsoulという内面性に帰った(退行した)」との断定を支える論証はまったくない。


 みんな、そんなに目の前のテクストを見たくないんかね。そういうのを反知性主義というんだと思いますが。

*1:身近な誰かであるならば、村上に直接言ってやればいいことです。