モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

こんなものが「経営」か

 「経営がわかっている労働者と、わかってない労働者の格差が拡大していく理由」@分裂勘違い君劇場
 「分裂勘違い」は、結構マジな自称なのかな、と思う今日この頃。

「「経営」に関する迷信」における迷信

迷信1 企業は社会的使命のために活動する

企業の目的は金儲けではありません。
これを忘れると、中長期的には、逆に、売上も利益も減少していくことが多いです。
……
企業は、経済的な富を生み出すことを目的とした唯一の社会的機関です。
経済的な富を生み出すことこそが、企業の社会的使命です。

 normative(規範的)な議論とdescriptive(事実説明的、記述的)な議論がごっちゃになってます。normativeな意味でなら、企業の目的は金儲けではなく生産活動を通じて社会に貢献することでしょうが、descriptiveな意味で、ほっておいても企業がそのように行動するというわけではありません。企業の行動原理は、第一義的にはあくまでも金儲けです。*1

 社会的使命を果たすことを通じて金儲けができている企業については、別に文句ないわけです。しかし、社会的使命を果たさないことを通じて金儲けができる機会があるとき、企業がどのように行動するかについては、公害問題や昨今問題になっている偽装問題など、挙げていけばキリがないほど悲惨な事例があるわけです。企業は、機会があるならば、しばしばその誘惑に勝てません。また、勝てたとすれば、それは企業が企業の行動原理に基づいて行動したからではなく、企業を構成する個々の人間が企業の行動原理に逆らって行動したからでしょう。だから、偽装問題が内部告発などによって明るみに出る、なんてことが起こるわけで*2。


 さて、ふろむだ氏はこうも言います。金儲けのみを追及する企業は「中長期的には、逆に、売上も利益も減少していくことが多い」。しかし、「多い」とは、何を根拠にいっているのか。たとえば、偽装問題では、発覚した企業においては、確かに「中長期的」に「売上も利益も減少」してます。しかし、これは結果論です。多くのケースで、発覚したケースの多くが偶然的な要因によるものであり、逆に、発覚しないケースはもっと多いのではないか、との推測も十分に成り立ちうるものです。

 実際、今でこそチッソのような企業が「中長期的」に「売上も利益も減少」したといえるかもしれないけれど、問題が起こった当初は国をバックにした大企業に責任を認めさせることはきわめて困難、およそ不可能というのがまともな見方だったはず。当時とすれば、有害物質を捨てて地域住民の健康を著しく害したことも含めて、「中長期的」に「売上も利益も減少」しない選択だったわけです。それが、関係者の数十年に及ぶ努力があって、初めてひっくり返された(しかも、未だ十分とはいえない)。まるで水戸黄門みたいに、時間がきたから自動的に悪事が露見して社会的制裁を受けた、というわけではありません。

 仮にふろむだ氏がいうとおりだとするならば、つまり、金儲けのみを追及する企業は「中長期的には、逆に、売上も利益も減少していくことが多い」のだとすれば、それはむしろ、「企業とは金儲けのみを追求するものだ」という猜疑心を持って多くの人が企業を厳しい目で監視しているから、ということになるでしょう。

迷信2 うまくいかない非営利組織は経営に問題がある

 たとえば、現行の診療報酬体系を前提していうならば、医療機関におけるよい経営とは、産科や小児科のようなコストのかかる診療科はとっとと閉鎖して、安定した収入につながりやすい診療科に重点化すべきだ、ということになります(ドラマ「Tomorrow」の世界ですね)。介護についていえば、手間のかかる要介護者はスルーして、同じ報酬で労働負担の少ない(つまりコストの低い)要介護者を選んでサービスを提供するのが経営的に正しい、ということになります。あるいは、介護や医療では十分な収益がえられないというのであれば、いっそ廃業すべきなんですよ。

 産科や小児科が必要だというなら、産科や小児科が維持可能な診療報酬体系を整備しなければ無理です。要介護者を差別せずに必要な介護が提供されるべきだというならば、それが可能になる報酬体系が整備されなければ無理です。で、日本の場合は、そこがメチャクチャになっているわけですが、ふろむだ氏はそんなことに頓着しません。それでも、産科も小児科も必要な人がいるから、ほぼ持ち出しで(つまり、経営的には「まちがい」を犯して)維持していたりするわけです。ですが、そういうものはバッサリ切り捨てておしまいにするのが、ふろむだ氏的には正しい、というわけですね。わかります。

 しかし、問題は、むしろ国レベルの医療制度や介護制度の「経営」にあるわけで。そんな制度を作ってきた連中もそういう政治を支持してきた連中も、自分たちが作ってきた環境において「いかなる経営が可能であるか」なんてことをついぞ考えていないわけです(そうでなければ、産科小児科は潰れろと本気で思ってるってことでしょう)。つまり、ネオリベの経営論とは、インセンティブの向きには関心を払うわけですが、インセンティブ以前に資源が絶対量として足りているか、あるいは、達成されるべき目標水準をどこにおくか、ということを全然考えないわけです。

 こんな人たちから「経営」指南などされたくないですな。

迷信3 経営スキルとは、経営者の理屈である

 たとえば、引用されているhokusyuさんの次の記述。

そもそも、少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料をというのはがんばった労働者に与えられる褒美ではなくて、労働者が持つ不可侵の権利なのですから、大学で変に経営者の理屈を内面化するよりも、経営者と殴りあう作法を学んだほうがよほど世の中に貢献できる気がしますけどね。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080731/p2

 まったくそのとおり、という他ない。これはつまり、労働者が「自分の「労働力販売事業」の目的を明確にし、顧客を定義し、成果を定義し、戦略を策定し、戦略に合わせて人脈を構築し、目標を設定し、マーケティングを行い、方針を打ち出し、意志決定を行」うことができるようになるべきだ、と主張しているのであって。

 言うまでもなく、「労働力販売事業」の目的とは自身の生活の福祉の向上であり、顧客とは経営者であり、成果とは賃上げと労働環境の改善その他諸々であり、……といった具合に、労働組合活動もまた「経営」ということになる。まぁ、それでいいと思うけど。もちろん、ふろむだ氏はそんな風には思ってないんだろうけど、知ったことではない。

 逆にいえば、このhokusyu氏を批判していることによって、ふろむだ氏のいう「経営」が「誰にとっての」経営なのかが、ハッキリするわけです。つまり、ふろむだ氏において、経営スキルとは経営者の都合を考えることそのものであって、そこに労働者の生活の福祉を含めて考えてはいけないわけです。労働者に求められる経営スキルとは、経営者が考えることを察知し、それに全面的に同意することなんです。たとえ、異論があるとしても。自由主義が聞いて呆れますね。経営とはもっと広いものであり、経営者の都合以上のものです。労働者の生活の福祉も、単なる個人的利害ではなく、社会的価値です。ですが、エライ人にはそういうことがわからんのです。


 以下、「ネオリベへの誤解」にも何か書こうかと思ったけど、もう疲れたのでとりあえず終わる。

*1:で、ふろむだ氏の紹介では、normativeな議論と正反対の含意を持っちゃいますよね。ドラッカーも草葉の陰で泣いてるんじゃないかと思うのですが。

*2:内部告発自体は、やった本人にとっては損にしかならないことが多いよね。自分もそこで働いて、それを生活の基盤にしているんだから。合理的企業、合理的経済人の中には、こういうことをする要素はまったくない。良心の呵責とか、そういうものが内部告発を支える。まぁ、個人的な恨み、とかもあるかもしれんけど。少なくとも、企業の本質としての自浄作用なるものは、ないよな。どこにも。