四十路の雑感

のんびり暮らす四十路女の雑感です。

母が頻尿かと心配したら、少し怒られる。

年末。

お墓の掃除のために帰省。

お供えのお酒などを買うためにセブンに行った際、寒いのでカフェラテでも飲もうかと。

でも、これからお墓参りに行くのに、お手洗い近くなったら面倒かしらと、母に、「トイレとか近くならない?大丈夫?頻尿とか。」と言ったら、「何言ってるの!そんなの今までなかったし!大丈夫よぉ!」と、驚→ちょい怒→笑 の反応を瞬時にくらい、セブンで二人大爆笑。

私は40、母は67。ぼちぼち、老老介護とかを現実的に考えなくてはならない年かと思っている。

私は私で、40を迎えて、身体のメンテナンスが大事だと意識し始めた年ゆえ。有働さんだって、頻尿のお薬のCMをやっているくらいだし。年齢を重ねたら、もろもろ変化がでてくるのであろうと思っての気遣いだったけれど。母、頻尿ではないらしい。

独り暮らしの母が元気にパートに行って、カーブスに行って、友だちとごはんを作って食べてる、母が元気なことは本当にありがたい。

けれど、いつまでもそれができるとも限らない。全ては変わってゆくから、ある程度は想定し、覚悟しておかないと。


ネットでのお寿司注文に手間取る母。ちょっと苛立つ私。反省。

母が苦戦すること、出来ないことが増えていくのだろう。私が出来ることの方が少しずつ増えていくことがなんとなく寂しい。

年越しそばふくめ、実家に帰るとお料理全般は全て母。

これも、私がやるよっていう時がいつか来てしまうんだろうか。

いつまでも母の料理を食べていたいなぁ、としみじみ願いながら、年を越す。


来年もよい1年になりますように。

皆様にとってもよい1年となりますよう。

(読んでくださり、ありがとうございました。)


評価すること

上の人が自分をちゃんと評価してくれない、は、当然だと思ってます。

というか、他人のことを評価なんて出来ない。だって、わからない。どのくらいその人が頑張っているのか、どのくらい意欲を持ってるのか。

見せかけだけだったり、やる気なさそうに見えて実はきちんとやっていたり。

その人になって、その仕事をやってみて色々実感するのではないかしら。だから、自分自身のことを他人が正当に評価なんて無理かと。その人が何を考えているかが分からないように、他の方も、こちらが何を考えているか分からないだろうし。言ったり表現したりしたとて、100%正確に伝わるとも思えない。

だから、せめて、自分自身がちゃんとやっているね、と思える仕事、納得できることをしたい。

自己満足です。

時たまそれを分かってくれる方がいらしたら、すごく嬉しいですが。たまにそういう奇跡が起こる。100回か、1000回やって、一回くらいあるかもな感じで。

とにかく、自分が「よし」と思えるように、頑張ろう。


一人だけど、一人だからこそ、自由に好きなものをちゃんと食べて今日を終えます。

進化しないことも進化かと。

人工知能の発達やら、チャットGPT、DXやら。とにかくデジタルの波に乗らないといけないみたいな風潮。

そりゃ、進化は必然だからうまく利用する側になることが得策なんでしょうが。

かつてニーチェは、読書する人が増えることが思考の腐敗につながる的なことを言ったとどこかで読みましたが、何かが進むことで何かが衰退するのが自然の摂理。

スマホですぐにいろいろなことが調べられるようになったから、友人の家の電話番号なんて覚えていられない。必要がないから。地図だって、覚えなくてもGoogleマップさんが導いてくれる。きっと、何かが失われている。

けれど、その喪われた、失くしてしまった何かは、すぐには気づかないのだと思う。すごく小さなどうでもよいことかもしれない、実はすごく長く、大きく影響することだった可能性だってある。

そんな、よくわからない、未知なことが多そうな進化に子どもを付き合わせてもいいのかな、と少し不安がよぎる。

教育現場にタブレットはあたりまえ。情報が共通テストに追加され、中学の技術ではプログラミングを学ぶ。

教育に、そんなにAIが必要なのか。

「技術革新」に妄信的になっていないだろうか。「技術革新」の全ては、本当に私たちの幸福につながっているのか。

欧米に肩を並べないと、新興国に負けないようにしないと。そんな理由だけで、教育課程考えてないですよね?文科省。

大きな波に逆らえないことは分かっているが、「本当に、それでよいのか」と、あえて立ち止まってみることも必要かと。

やはり、オーディオブックと読書は違う。

タッチペンを滑らすのと、紙にインクを染み込ませるのはまったく別物だ。

ただの懐古趣味だと言われたらそれまでだけれど、それでもやはり、「不便さ」の中には失くしたくない何かがあると思えてならない。

私は和装が好きだ。下着から何から、揃えるものも、柄や生地など決まりごともとても多く面倒だが、そのこだわりに「文化」を感じる。時代を越えた人々との繋がりを感じる。

あえて「進まない」ということも、「進化」となっていくのではないかなと。言っても仕方ないことをついつい考えてしまいました。


(東村アキコ氏の『銀太郎さんお頼み申す』を読み、あらためて着物文化の良さを実感したことも大いに影響しました。)

ぐだぐだと失礼しました(>_<)