昨日、岡田斗司夫のyoutubeチャンネルをいくつか見ていた。まず、岡田斗司夫って誰っていうところにさらっと触れておくと、過去オタキング(オタクの王)を名乗りテレビなどのメディアで先頭に立って活躍していた人、エヴァンゲリオンを作った会社であるガイナックスを立ち上げた人、去年の初めに9人彼女がいることが話題になった人というぐらいでいいかな。この人を初めて知ったのは、高校生のときにBSマンガ夜話というマンガ解説の番組だった。マンガを技術的、文化的、専門的に解説する姿を、僕はこの番組で初めて見た。夏目房之介という人が「夏目の目」というコーナーを持っており、マンガを文法的に批評するとか、そんな番組だ。あれは衝撃だった。島田紳助が漫才のテンポと構成を語っていたときぐらい衝撃だった。僕が見たのは自分が好きなマンガの回だけなんだけど、大衆の娯楽であるマンガについてあまりにも真面目に、ただのファンとは違う目線から楽しそうに語っている番組というは他に類を見なかった。しかもその語っている内容というのが、どこかで感じていたけれど言葉に出来なかったようなものであったり、今まで知らなかったような裏設定、自分にはない観察眼や理論など、自分が作品に対して抱く「好きである」という感情を補強するような内容だった。岡田斗司夫とBSマンガ夜話についてはWikipediaがかなり詳細に書かれているので、興味ある人はこちら。
岡田斗司夫 - Wikipedia
BSマンガ夜話 - Wikipedia
そんな岡田斗司夫がニコ生でチャンネルを持っていることを昨日知った。youtubeでも公開している。4年に及ぶ長い期間、毎週更新を続けており、1本1時間超の動画が400件以上あって、実に勤勉な人なんだなーと思いながらいくつか見ていた。僕自身は岡田斗司夫のファンではない。「評価経済」の本は知っていたが著作を一冊も読んだことがなく、マンガ夜話のイメージしかなかった。今回ニコ生でやっている「岡田斗司夫ゼミ」をたまたま見つけたのも、堀江貴文やひろゆきについて話していたからだった(ネット黎明期世代だからそちらのほうが馴染みがある)。この人は例によって、一般的にはくだらないと言われるようなことでもかなり深く調べ、掘り下げ、考えて真面目に話しているから大体どのテーマの内容を見ても面白い。自分が真面目に考えたことあるようなテーマだったり興味のある内容の動画を見れば尚更楽しめるだろう。
オタク・イズ・デッド
僕が見たのは堀江貴文との対談と、ひろゆき、堀江貴文の事例も出てくる「4タイプ別ダメ人間決定戦」、9月25日に放送された「脱!貧困!貧乏だから不幸は間違い?貧困問題は解釈の違いを理解することで解決できる!!」そして最後にオタク・イズ・デッド。今回はその最後に見た「オタク・イズ・デッド(オタクは死んだ)」という話に触れる。その前に、僕がいわゆるオタクなのかというと、そう言う人もいればそうでないと言う人もいる。自分自身のメンタリティで言えばどうなのかというと、わからない。関根勤も大槻ケンヂも好きだからオタク気質ではあるのだろう。これをサブカルファンと呼ぶのか(サブカルファンではない気もする)、オタクと呼ぶのかどうかもわからない。じゃあオタクってなんだ?オタクの定義とは?岡田斗司夫が考えるオタクの定義と、時代の変化や世代の移り変わりによる、いわゆる世間一般の「オタクの定義」の変容もこのオタク・イズ・デッドにて語られている。
そして、オタク・イズ・デッドとは一体何なのか、どういう意味なのか。オタク・イズ・デッドの動画は今から10年前に新宿ロフトで行われたイベントの録画であり、時間にして2時間半もある。10年前ここで、オタキングを名乗っていた岡田斗司夫は「オタク」という共同体、ここでは民族とか大陸とか言っているが、かつて存在した「オタク」という一つの枠組みの死亡宣言を行った。
ここでは過去にあった「SFファンの崩壊」という歴史と「オタク・イズ・デッド」が同じ系譜を辿って終了宣言してしまったことが解説され、1980年代のオタクという文化、共同体の成立から90年代の第二世代、そして2000年代に入っての変容から崩壊までの道のりが語られている。メインカルチャーの視点から見ると実にバカバカしい、こんなことを真面目に語って何になるんだというような内容かもしれないが、それが実におもしろおかしくて、同時に「マイノリティとはなんぞや」ということを考えてきた自分からすれば身につまされるような話でもあった。
オタクという共同体の誕生と崩壊
オタクの勃興から衰退について、動画にあった内容をざっくり述べると、オタクとは世間から「おたく」という蔑称で分類されることにより生まれた概念だった。アニメ、マンガ、ゲームに限らず鉄道、航空、ミリタリなどに没頭し、世間から「あいつら気持ち悪い」と蔑まれる人たちが「おたく族」と呼ばれた。「おたく」と差別された人々はジャンルは違えど肩を組み「俺らは本当に面白いものがわかる選ばれた存在なんだ」という共通意識の元に「おたく」を「オタク」に書き換え、反抗心を燃やしたのが第一世代の「オタク」だった。第一世代の特徴を岡田斗司夫は「貴族主義」と語っており、「流行を追っているような中身の薄い連中に俺らのことは理解できない」という選民思想を持ち、世間から違う存在であることを認めることで差別を耐え忍んでいた。
第2世代は「エリート主義」と呼ばれる。宮崎勤事件などをきっかけに世間から苛烈な迫害を受けるようになったオタクが、「そうじゃない、こんなにも素晴らしい俺たちオタクを認めろ」と社会的な理解を求める運動を起こした世代とされている。この世代のオタクたちは文化としての市民権を得るために迫害を跳ね除け、世間に対して生存を賭けた訴えかけを行っていた。エヴァンゲリオンが一般社会にまで台頭したことなどが当時の代表的な出来事になる。
そして第3世代、崩壊へ向かう世代は、オタクが市民権を得て単なる消費対象と化してしまった時代の人々だ。なんだかよくわからない気持ち悪い存在だった「オタク」が、「萌え」という概念や「電車男」などのわかりやすいフィルターを通して、世間一般に対しある特定のイメージで浸透してしまった。その世代のオタクは「萌えがわからなければオタクじゃない」などと言い始め、元々オタクだった人たちは違和感を覚えた。そして、それまで鉄道からミリタリまで包括的に含んでいた「オタク」という共通の概念にほころびが生じることとなった。世間一般からの「オタクも悪くないよね」というある程度の理解を含んだイメージの広がりにより、ライトオタクの参入、今までに存在したオタクという共通概念の崩壊、オタク趣味の多様化と個々のアイデンティティ化が広がった。それまでにあった「俺たち理解されない者同士肩を組んでいこうぜ」という共同体としてのオタクは失われてしまった。オタク同士肩を組む必要がなくなったと同時に、肩を組むことがままならなくなった。
これはなんと言えばいいのだろう、例えるならマンガ、アニメ、ゲーム、鉄道、ミリタリなどといったそれぞれの民族が、「世間」という大国からの侵略と戦うため肩を組み「オタク」という連合軍を立ち上げ闘争の果てに絶滅を逃れ、和解という結果を勝ち取った。しかし逆に世間側からの流入による「新たなオタク概念」の一般化や、生まれたときからオタク連合があった「新世代」との意識の違いなどに耐えられなくなり「オタクからの離反」が生じた。連合は維持できなくなり「オタク」という共通の意識のもとにかつては共に手を取り合い戦った民族同士は、バラバラになってしまった、と言えばわかりやすいだろうか。ソ連という世間の荒波に対抗するため、岡田斗司夫ティトー率いるオタク汎スラブ主義という理念の元でユーゴスラビアオタク連邦を立ち上げたが、冷戦構造の終焉に伴い共通の敵を失った各オタク民族たちは、独立して個々の国を作ってしまった、と言えば余計わかりにくいか(ユーゴスラビアの崩壊とオタク・イズ・デッドは全然違う道筋を辿ったが)。
一つ言えるのは、共に手を取り合い、ジャンルは違ってもお互いを仲間と思える「オタク」という概念の共同体は、世間との闘争はあれど一つの理想郷の形だった。同時にそれはユーゴスラビアのような幻想でもあった。今オタクと呼ばれる人たちは、かつてオタクと呼ばれたジャンルの垣根を超える共通の価値観を元に、お互いが仲良くすることなんて最早できないだろう。オタクという共通概念のもとに世間と戦ってきた歴戦の勇士(岡田斗司夫)たちは、オタクに対する差別が減った現状を喜ぶと同時に、オタキングとして戦った一つの時代が終わったことに、哀愁を感じるのである。オタク・イズ・デッドはそういった、喜びと哀しみの物語だ。
「オタク」を失った人々が直面する新たな闘争
オタク・イズ・デッドの講演から10年たった今、かつてオタク的だったものはさらに街で見かけるようになった(数年前、初音ミクがローソンでかかっていたときは何かの間違いだろうと思ったがそうではなかった)。そうやってやや当たり前に浸透し、差別は減ったと言えど根絶はされていない。何か事件がある度、いまだに「犯人は気持ち悪いオタクだ」ということで槍玉に挙げられ、偏った趣味の愛好家たちは世間から冷ややかな視線を浴びせられる。しかし、オタクという共同体はもはや崩壊してしまった。オタキングやオタク貴族、エリートオタクといったオタク全体のために世間と戦ってくれる存在はなくなってしまった。これからは自分の「好き」を主張し、自らを迫害から守るために個々人が世間に対して訴えかけ、生存を勝ち取っていかなければならない。それが可能になった、やりやすくなった時代とも言える。
僕がなぜこの話に惹かれたかというと、これはオタク文化だけに限られた話ではないからだ。オタクより前にSFファンが同じような経過を辿ったように、他の文化、マイノリティ、共同体においても同じような誕生と崩壊の歴史を辿ってきたんじゃないだろうか。かつてあったオタクという共同体は、自分にはとてもうらやましい存在に感じる。思想は違えど共通の意識を持ち、共闘できる同士がいるということはまさに理想郷のように見える。そういう誰かと共通の意識を元に戦える拠り所のようなものが僕にはなかったから、実現し得ない共同体に対しての憧れがある。それが衰退し、かつて共同体に属していた人たちが、単に愛好家たち、もしくは個人というところまで没落してしまったことに哀愁を感じる。そして、かつてオタクだった者たちはオタクという共同体の誕生から崩壊までの過程を乗り越えたことで、僕らが持ち得ない教訓や生きる力を携えていることだろう。それも羨ましい。
「オタク・イズ・デッド」は岡田斗司夫というオタキングを中心に作られたオタクという一つの共同体が世間との闘争を繰り広げ、和平協定を結んだが故に王国内部にほころびが生じ、崩壊への道を辿ったという一つの物語でした。