「漫画、アニメ、ゲームのせい」は「天狗の仕業」と同じ思考停止

不可解な事件が起こったらとりあえず、漫画やアニメ、ゲームのせいにするのは「天狗の仕業じゃ!」と叫ぶのと同じ。

「妖怪」とは「怪異」に対する説明付け

天狗は妖怪の一種である。天狗は元々中国の物の怪であり、日本では山伏の服を着て鼻が高く赤ら顔、背中に翼がある姿が一般的。山伏の姿なのは密教と深い関わりを持つ。また、日本古来の山岳信仰とも関わりが深い。由来は諸説あるが、現在の姿は様々に混交しているので元の姿を知るのは難しい。同様に混交した妖怪に河童がいる。河童と聞くと、甲羅を背負い頭に皿を載せたおかっぱの童子を思い浮かべるだろうが、元々は日本各地の水神や水の怪異を生業とする別々の妖怪である。古くは大工とも関わりがあったとも言われる。

妖怪は「怪異」に対する説明付けである。例えば「家鳴り」。昼間は気が付きませんが、夜中など静かになると天井から「ミシッ」とか「パキツ」とか音が聞こえます。これは、寒暖の差で健在が膨張する際に鳴る音だと考えられますが、気味の悪い音です。特に夜中で真っ暗な時ほど気がつきやすいので一旦気になるとかなり怖い。そこで昔の人はこの音を「家鳴り」という妖怪のせいにしました。妖怪のせいにすることで納得したわけです。最近ではラップ音に取って代わられていますが。
ちなみに、「家鳴り」と耳鳴りとは別もの。耳鳴りは殆どの人が体験してますが、多くの人は気付いていないあるいは気になっていない。耳鳴りで悩んでいる人の多くは、その今まで気が付かなかった耳鳴りに悩んでいることが多い。今まで気が付かなかった耳鳴りに気付く原因がストレスだったり病気だったりするわけで。問題は、耳鳴りはするもなので一生付き合うものだから上手に付き合うことを考えた方がよかったり。私の祖母は耳鳴りが気になったので耳鼻科に行った際に医者に「どんな耳鳴りがするんですか」と言われ「蝉みたいな音なんです」と答えたら「蝉ですか。風流で良いじゃないですか」と返されて気にならなくなったとか。風雅だなぁ。勿論外因的な耳鳴りは専門医の治療を受けましょう。

「家鳴り」は音だけの妖怪だが田舎には姿の無い音だけの妖怪が多い。例えば青森の「うわん」は古い屋敷などで誰もいないのに「うわん!」と叫び声が聞こえる怪異。「べとべとさん」や「テケテケ」は暗い夜道で人の後をつける妖怪だが姿は無い怪異を説明するための妖怪である。後世になり、「うわん」は鳥山石燕に「べとべとさん」は水木しげるに描かれてキャラクター化されている。田舎の妖怪は怪異を説明するために存在するので本来は姿かたちは無いが後世に図案化されキャラクター化されることが多い。
一方で都市部の妖怪は形ありきな場合が多い。器物のお化けである付喪神もその例か。付喪神自体、特に何かをする妖怪と言う訳ではない。都会の妖怪は形ありきだが名前が無かったり、何かを起こすものではなかったりすることが多い。どのような「怪異」を起こすかは後付でこの辺は田舎の怪異を説明するために生まれた妖怪とは逆である。都市部の妖怪が姿ありきなのは物が多く、古びた物は気味が悪いなどの理由だろうか。この姿ありきの都市部の妖怪の影響で姿無き田舎の妖怪が図案化されることになる。図案化され草紙などに描かれることで、姿無き「家鳴り」は子鬼みたいなのだと皆に認識され、以後「家鳴り」が起こると子鬼が添乗を揺らす姿を想像するようになる。しかしある時から、子鬼を見て「家鳴り」を想像する逆転現象が起こる。この時、妖怪はキャラクター化されたと言える。
ここら辺の妖怪のキャラクター化に関しては、京極夏彦の豆腐小僧をお読みください。
万物に魂が宿るアニミズム的な世界観から考えれば擬人化なんて全然普通のことですよね。むしろ、アニミズム的な世界観や図案化による一般化などの流れを考えれば日本で「萌え」が生まれるのも自然な流れなのかもしれません。

「現象」に対する理由が納得できればなんでも良い。

「妖怪」ではないけど怪異を説明するメカニズムは多々ある。例えば心霊写真や顔に見えるシミなどを幽霊や怨念のせいにする場合など。写真に白いモヤモヤなど不快なものが写ったら気持ち悪いので、もっともらしい理由付けとして「幽霊」のせいにする。本当は、カメラのレンズやフィルムのなど正しい理由があるはずだけど、原理を知らない人にとっては心霊写真が撮れるのは「幽霊」の方が説得力がある。心霊写真が「幽霊」のせいだと思っている分には心霊写真をお払いするのは非常に有効で、お払いにより「不可思議」に対する畏怖が取り除けるなら正しい処置である。
人間の顔に見えるなんてのも脳の仕組みによるらしい。「∵」とこんな単純な記号でも人の顔に見えてしまう。これは、脳で物を見る際にかなり単純化された記号に置き換えて認識しているから。だから、単純なシミでも顔に見えてしまう。恐らく顔を認識する用の器官が脳にあるのだろう。実際その部分が先天的に発達していない、あるいは後天的に傷ついた人は人の顔を認識できなくなるという。

怪異を説明するメカニズムとしてはUFOのキャトルミューテーションやアブダクションなども。ジンクスも「運」を説明するメカニズムだが、偶然起こった関係ない事象を結び付けているに過ぎないことが多い。人間は記憶のメカニズムとして同時に起こったことを関連付けて覚えるようだ。そのため、本来全然関係の無い事象であっても思い出す際に芋づる式に思い出し関係の無いことをさも関係しているかのように錯覚し易いのだろう。年号の語呂合わせなど全然関係ない事を橋渡しで関連付けで覚える記憶術はこの記憶のメカニズムを応用していると考えられる。

ジンクスの一例として「黒猫が前を横切ると不幸な事が起こる」と言われる。しかし、これは単に黒猫が目立ち気付きやすく記憶にも残りやすいため、その後に起こった不幸と関連付けされやすいだけであろう。ジンクスには迷信も多いが、天気に関連するジンクスはある種の経験則に基いているので正しいものが多い。例えば、「朝焼けは雨、夕焼けは晴」は天気が西から東に変ることに基くし、「ツバメが低く飛ぶと、雨が降る」は雨が降る前は上昇気流が起こらないのでツバメの餌となる虫が低空を飛ぶためである。
このように、人間は関連付けする生き物であると共に理由が分からないと不快になる生き物である。この二つが科学を発達させた原動力であるともいえる。しかし、全然慣例のない事象に因果を求め結果納得してしまう事もある。納得さえできてしまえば不快は解消できるので、全然関係のない事象に因果を求めても不快を解消するメカニズム的には正しい。

不可解な事件は「ゲーム」のせいにしとけば社会が納得する

人間は「事象」に「理由」を求める生き物である。特に不可解な出来事ほど理由を求める動機が強くなる。だから、不可解な「怪異」に対して「妖怪」を理由として対処してきた。しかし、現代において「妖怪」のせいにすることはできない。昔なら不可解な事件が起きても「狐憑き」とか「天狗の仕業」などで皆が納得することができたが現代でそのメカニズムは失効している。

不可解な猟奇的な事件は無くならない。平和で何も無い時ほど不可解な事件は目立つものである。逆に、平和でなければ「貧困」だから「世の中が乱れている」からという理由付けを用いる事ができる。不可解な事件は理由をつけ説明し納得しなければ社会が沈静化しない。現在その役割の多くを担うのはテレビである。社会を沈静化させるためテレビ、主にワイドショーはその不可解に理由を用意しなければならない。その不可解の理由付けとして槍玉に挙げられるのが古くは漫画、その次はアニメ、そして現在はゲームも加わっている。どこぞのアメフト部が集団でレイプをしてもアメフトのせいにはならない。これは、スポーツは健全であると社会的に認知されているから、アメフトが事件の説明の理由付になりえない。
漫画は昔読んでいた世代の年齢も上がっているためか昔よりも槍玉に上がる事は少なくなった印象。しかし、漫画は今では考えられないような過激な根絶運動が戦後行われている。丁度手塚治虫が有名になり始めた1955年頃で、手塚自身も壮絶な焚書運動に関するエッセイを残している。まぁ、明治頃には今では文豪と言われる夏目漱石や太宰治も女子供が読むものと認識されていたようだが。実際太宰は、説の面白さ で「小説と云うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うと云うような性質のものではないのであります。」等と書いている。若いメディアは叩かれるってだけでしょう。最近ではインターネットもそんな感じ。

漫画などが槍玉に挙げられるのは、それらに真剣に向き合った事が無いから。理解はできないが、分かりやすい画像のある漫画などを取り上げるのだろう。実際にゲームをやってみれば、単純な事でイチイチ切れていたらゲームなんて進められないと分かるだろう。「リセットがあるから命の尊さを云々」などという論調があるが、リセットボタンを押さなければならない状態がどれほど苦しいか全く分かっていない。バーチャルで現実がどうのこうのというが、アクション映画を見て自分が強くなったように感じるのは誰にでもあるし、そんなの熱が冷めれば忘れる。というか、力石徹の葬式をやった世代には余り言われたくない。
逆に言うと、漫画やアニメ、ゲームに向き合った事が無く得体の知れないものだからこそ不可解な事件を漫画やアニメ、ゲームのせいにできると。さらに、漫画などは画像があり中身が理解できなくともインパクトはある。理解できなくとも説得力はありキャラが立っている。つまり、現代では漫画やアニメ、ゲームが「妖怪」的名役割を担ってしまっているのだろう。まさに「天狗の仕業」と同じメカニズム。要するに「社会」が納得するならゴルゴムの仕業でもなんでも良いんですわ。ただし、そこに相互理解は無く思考停止なんですけど。