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2021年5月 3日 (月)

魯山人と大田神社のカキツバタ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

現在外出自粛中で、今日は過去数年間の大田神社のカキツバタの記事を再編集してお届けします。題名の魯山人はこの地に生まれた多彩な芸術家ですが後ほど。

神社の「大田の沢」には約2万5千株のカキツバタが群生していて、1939年に国の天然記念物に指定されています。

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沢を取り囲むように植えられている山ツツジが満開です。道路を隔てた向かいに福徳神を祀る「福徳社」がありますが、上賀茂神社の境外摂社です。

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「大田神社」は、かつては「恩多社(おんたしゃ)」とも呼ばれ、独立した式内社でした。平安時代には、国から財政的補助がある官幣社であることがわかっています。最初に本殿にお参りします。

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古くは渡来系の先住民の福神が祀られ、上賀茂神社よりも古く鎮座した農耕神あるいは地主神とみられています。拝殿は江戸時代の1628年の造営で、数年前に修復工事が行われました。

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本殿には祭神として、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀り、芸能・芸事上達の信仰があります。天鈿女命は天照大神が隠れた天岩戸の前で踊った女神です。本殿も拝殿と同時期に建立されました。

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拝殿の前に、老後安泰の神・猿田彦命を祀る「白鬚(しらひげ)神社」、病気平癒の神・大国主神と少彦名神(すくなひとなのかみ)を祀る「鎮守社」、船玉神(ふなだまのかみ)を祀る「百大夫社」があります。

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この地には、壬生、丹生、小野などの氏族の祖神が祀られ、それらは末社の白鬚社、百大夫社、福徳社として今も存続しています。その後、沼沢の開墾に関わったた賀茂氏一族の影響が及び、上賀茂神社の摂社になったとみられています。(社務所・授与所)

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鳥居の向こうにある大田の沢に入ります。カキツバタの育成には多額の費用がかかるそうで、神社では見学に協力金をお願いしています。

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数年前に獣害でカキツバタの花がほとんど咲かなくなりましたが、その後の対策で徐々に回復してきました。以下の写真には獣害以前のものも混じっています。

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ところで、北大路魯山人(明治16年-昭和34年)は、大田神社の向かいにあった上賀茂神社の社家で北大路清操(きよあや)と登女(とめ)の次男として生まれました。

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士族の家でしたが貧しく、東京に職を求めたり京都に戻ったりの父は、房次郎(魯山人)が生まれる4ヵ月前に自殺してしまいました。登女は大津の農家に房次郎を預けて行方が分からなくなりました。

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房次郎は放置状態で、農家を紹介した服部巡査の妻が連れて帰りその戸籍に入りました。しかし服部巡査が行方不明、妻が病死してしまい、同じく養子だった夫婦が幼い房次郎の面倒を見ることになりました。

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まもなく義兄が死亡、義姉は房次郎と息子を連れて実家に戻りました。この家で義姉の母から虐待を受け、見かねた近所の人が竹屋町の木版師・福田武造に養子をあっせん、房次郎は33歳まで福田姓を名乗りました。

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平安時代の歌人・藤原俊成の歌碑「神山やおほたの沢の杜若ふかきたのみは色にみゆらむ」。「上賀茂神社への心からの願いは、近くにある大田の沢のカキツバタの紫色にあらわれているようだ」という意味だそうです。

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房次郎は6歳の頃から炊事を買って出て味覚と料理の基本を学びます。尋常小学校を卒業後、烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に住み込みの丁稚奉公に出されます。

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奉公の最中、森ノ木町の仕出し料理屋「亀政」の行灯看板の一筆書きの亀の絵と文字に心を奪われます。それを描いたのは亀政の長男で後に京都画壇に君臨することになる竹内栖鳳でした。

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養父の木版の手伝いから扁額や篆刻などの技術や感覚を身に着け、一字書の書道コンクールで初の応募ながら3枚が特選などを受賞、以後受賞を重ねます。14、5歳の頃には稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始めました。

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20歳の時、縫箔屋の主人が従兄と名乗って現れ、母の所在を知りました。会いに行くも受け入れられず、そのまま東京に残り書家を志します。翌年日本美術協会の展覧会に出品、一等二席を受賞、21歳での受賞は前代未聞の快挙でした。

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明治38年(22歳)町画家・岡本可亭(岡本太郎の祖父)の内弟子となるも、次第に可亭より仕事の発注が増えて独立。翌年に結婚、長男が誕生、仕事は繁盛して稼いだ収入を書道具・骨董品・外食に注ぎ込むようになりました。

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27歳から3年間、関係が改善した実母と朝鮮・中国に旅立ち、上海で書家・画家・篆刻家の第一人者・呉昌碩に会います。帰国後、長浜の素封家・河路豊吉に招かれて滞在、天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を残しました。

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その後、敬愛する竹内栖鳳の款印を彫らせてもらう機会があり、それを気に入った栖鳳が門下に紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになりました。

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大正5年(33歳)長男の兄が他界したことにより母に請われて北大路姓を継ぎ、北大路魯山人を名乗りました。この頃、京都・金沢の素封家に招かれ食器や美食、料理の造詣を深めました。裏山の「大田の小径」に向かいます。

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その後、古美術店・大雅堂を共同経営、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、大正10年会員制食堂「美食倶楽部」を発足、自ら厨房に立ち食器を創作しました。

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大正14年東京・永田町の会員制料亭「星岡茶寮」の顧問。昭和2年には宮永東山窯から荒川豊蔵を招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立、本格的な作陶活動を開始しました。

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戦後の昭和21年銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店、在日欧米人から好評を博しました。しかし、経済的には困窮し、不遇の生活を過ごしました。

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昭和29年ロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、ピカソ、シャガールらを訪問。昭和30年織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年病死しました。

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晩年、3歳の春に養姉に連れられて(大田の小径につながる)神宮寺山を散歩したとき、真っ赤なツツジが咲き誇る光景を見て「美の世界」に生きようと決心したと述べています。

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コメント

きれいな写真と詳細な記事をありがとうございます。
毎年大田神社の杜若を楽しみに上賀茂に出かけておりましたが、去年と今年は断念。いつも以上に嬉しい今日の内容です。
同じ杜若とはいえ、こちらのお花の色が一番美しいように思えます。
事態はなかなか収束に向かいませんが、どうぞご自愛くださいませ。

投稿: もっちゃん | 2021年5月 3日 (月) 09:22

ここのカキツバタは、一時大変なことになってましたよね。
コロナ禍のうちに、元に戻ることを願っています。
カキツバタは、美味しい花なのかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2021年5月 3日 (月) 15:14

★もっちゃんさん こんばんは♪
大田神社は家から遠くないのですが、外出自粛期間では見に行けません。ニュースで季節の変化を知るのは悲しいので、来年は平常に戻ってほしいですね。

投稿: りせ | 2021年5月 5日 (水) 00:17

★munixyuさん こんばんは♪
カキツバタの蕾が美味しいようです。それを鹿に食べられたおかげで、青々と茂っているのに花が咲かない年が続きました。

投稿: りせ | 2021年5月 5日 (水) 00:20

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