« 上徳寺 世継地蔵尊大祭 | トップページ | 雪降る八坂神社から知恩院へ »

2017年2月10日 (金)

両足院 冬の庭園と毘沙門天

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jnd_4274a
※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の建仁寺・久昌院を出て、建仁寺境内の東にある両足院を訪れました。こちらは冬の特別公開の最中でした(1月29日まで)。

Jnd_4193a

「両足院」は、龍山徳見(りゅうざんとっけん)禅師を開山とする建仁寺の塔頭寺院「知足院」が始まりです。徳見は、建仁寺の開山・明庵栄西(みんなんようさい)禅師の法脈・黄龍派(おうりょうは)を受け継いで再興しました。

Jnd_4210a

徳見禅師の遺骨が知足院に葬られてからは、徳見禅師の法脈を継ぐ3世文林寿郁(ぶんりんじゅいく)の両足院や一庵一麟(いちあんいちりん)の霊泉院などの黄龍派寺院の本院でした。(庫裏から入って方丈に向かいます。)

Jnd_4214a

「閼伽井庭」 方丈と庫裡の中庭で、閼伽(仏膳に供える水)を汲む井戸とその水を受ける水鉢があります。三尊席が中心にあり、横に礼拝石と燈籠、水鉢を配置しています。

Jnd_4215a

創建当時の両足院は、知足院の別院として建仁寺開山堂・護国院の中にありました。(「方丈前庭」 桃山時代作庭の枯山水式枯山水庭園です。)

Jnd_4224a

丸窓の反対側は唐門になっていて、その向こうに「唐門前庭」があります。こちらは今回の特別公開に含まれていませんが、白砂と苔地、青松からなる簡素な庭園です。

Jnd_4225a

天文年間の火災の後、「知足院・両足院」の両院を併せて「両足院」と称することとなり現在に至ります。(苔地の奥に道、その向こうの塀の前に木が植えられています。)

Jnd_4229a

改称の理由には諸説ありますが、一説では時の天皇・後奈良天皇の諱名「知仁」に触れた事が原因とされています。(方丈の東側の庭は、その向こうの池泉回遊式庭園の延長のようです。)

Jnd_4241a

以後、両足院は安土・桃山から江戸時代の8世利峰東鋭の代までは主に、林浄因(の子孫によって、霊泉院は龍山和尚の生家・千葉氏出身の禅僧たちによって護持されます。霊泉院も(霊源院と改められましたが)今も存続します。(池もつながっています。)

Jnd_4250a

「書院前庭」 10世・雲外東竺の元に参禅した茶道の薮内流5代・竹心紹智の作庭による。池泉回遊式庭園で、京都府指定名勝になっています。向こうに茶室の水月亭(左)と臨池亭(右)が見えます。

Jnd_4255a

水月亭は織田有楽斎好みの如庵(国宝)の写しとして明治43年に建てられ、2畳半台目。臨池亭は大村梅軒好みの茶室で6畳。高台寺にあった大村家別荘の茶室を昭和元年に移築したものです。今回茶室は公開されていません。

Jnd_4265a

大書院に向かいます。大書院は、もともとは寺院の僧侶の私室、書斎ですが、現在では学術研究の一時的研究室、法要の控室、大寄せの茶席、展示会場など多様な用途で使用されているそうです。

Jnd_4256a

中央に水字形の細長い池があり、周囲にさまざまな植栽、石組、飛石、石橋、灯籠などが配置されています。

Jnd_4272a

池の手前には、半夏生(はんげしょう)が植えられ、夏至を過ぎた頃に穂状の花が咲く風景が美しいことから、「半夏生の庭」とも呼ばれています。

Jnd_4278a

ところで、両足院を護持した林浄因(りんじょういん)は、南北朝時代の1349年龍山徳見が元から連れてきた宋の人で、饅頭(まんじゅう)を日本にもたらしたことでも知られています。

Jnd_4281a

中国では肉饅頭を意味していましたが、肉食が許されない日本の僧のために、茶菓子として現在のような饅頭が公案されたそうです

Jnd_4286a

茶室の手前まで来ました。方丈から続いてきた踏み石は茶室を通り、書院前庭は茶室の露地庭にもなっています。

Jnd_4289a

林浄因の子孫の林家は奈良で饅頭屋を営み、京都に分家した林家は後に塩瀬家と改め、宮中や将軍家に出入りを許されて繁盛しました。(最初に入った庫裏の玄関に戻ります。)

Jnd_4293a

江戸幕府が開かれると塩瀬家は江戸に移り、徳川家康と縁を深めたといわれています。大坂夏の陣で、真田幸村に攻められて家康が逃げ込んだ先が奈良の林家だったといわれています。江戸に移った「塩瀬総本家」はいまも営業を続けているそうです。

Jnd_4304a

両足院の北にその鎮守の「毘沙門天堂」があります。この毘沙門天はかって鞍馬寺の毘沙門天の胎内仏でした。織田信長の比叡山焼き討ちの際、鞍馬寺の僧が安全のため尊像を室町将軍家の茶家・比喜多養清宅に疎開させました。

Jnd_4195a

武将・黒田長政は1600年の関ヶ原の戦いに際して、尊像を内兜に納めて奮戦し、戦勝したことから、代々黒田家で信仰されました。比喜多養清は、京都の黒田家御用達だったそうです。(ここは狛虎が守っています。)

Jnd_4199a

明治時代の1877年頃、尊像は両足院に寄進され、1888年に新築した毘沙門堂に安置されました。以来、勝利の神として商売繁盛、合格祈願、誓願成就などの信仰を集めています。

Jnd_4198a

お堂には本尊の毘沙門天と、脇仏に閻魔大王、不動明王を祀っています。香炉にも虎がいて、寅年生まれの人を守護するともいわれています。

Jnd_4197b

祇園の芸舞妓が、いい旦那様が見つかりますようにとお参りして、願いがかなったことから、良縁成就のご利益もあるとされています。

Jnd_4309a

Jnd_4306a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をして下さると嬉しいです。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jnd_4294b

|

« 上徳寺 世継地蔵尊大祭 | トップページ | 雪降る八坂神社から知恩院へ »

コメント

仏さんを守るのも大変なんですね。
疎開させたり、仏さんの存続には、
住職の頭脳も大きなポイントとなっているのですね。

投稿: munixyu | 2017年2月10日 (金) 11:47

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 上徳寺 世継地蔵尊大祭 | トップページ | 雪降る八坂神社から知恩院へ »