モチベと更新頻度は比例するようで、また更新する気になったので。
GWは上越貨物が止まってしまうので、再び東線へ。
新緑色の東線は、10年近く前に山スカや臨時特急目当てでこの路線に電車で来ていた頃を思い出させてくれて、とても懐かしかったです。
上越ではコンテナ編成に見慣れているので、石油列車を牽引する姿は、東線に来た!という実感を与えてくれました。
貨物以外にも特急や普通もすごい頻度(注釈:上越国境比)で来るので、色々な撮影地を効率よく回収できるのも、とても楽しかったです。
しかしやはり撮り慣れていない路線だからか、普段撮り慣れた路線しか撮っていないからか、1日撮ってもさらっと表面をさらっただけというような感覚がぬぐえません。
それなりに構図はまとまっているのに、”見つけた”光景でなく、”見えている”光景をただ撮っているだけという感覚というか。
この路線はもっともっと奥が深いという事を感じさせられました。
かつてはロクヨンや183・189、115と様々なガチ勢の方々を魅了してきた路線。
今でも257や353ガチ勢の猛者の方々が山中からVカットを量産している姿を時折ネットで見かけます。
粗方開拓はされつくしてしまっているのでしょうが、まずは今度は電車で行って、撮ってみたいところをしっかり足でロケハンしてみようかな。
- 2023/05/08(月) 00:00:00|
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春はその陽気に誘われて新芽やら虫やら不審者やら色々なものが出てくるというが、いつまで続くかわからない私の何かを書き連ねたいという気持ちもむくむくっと出てきたので、またつらつらと思ったことをここに書いてみようと思う。
”最近”。
過去に撮った写真を見返していたり、知人と思い出話をする中で、ついこの前と思っていたことが、気づいたら数年前とかになっていて驚かされたりすることが良くある。
例にもれず、冒頭に申し上げた”最近”というのも、既にここ数年の事を指しているわけだから、年を取ったんだなと感じざるを得ない。
学生の頃、諸先輩方が当時から5年くらい前まで上越線を走っていた貨物機重連のロクヨンセンの話をしてくださったり、写真を見せてくださったりした。
憧れだった釜のとんでもなくカッコよいその姿を生で見ることが出来なかった自分にとっては、それはそれはとても遠い昔の話に感じたのだが、きっと話してくださった方々からすると昨日のような感覚だったのだろうと今になってわかる。
何故なら、昨日のように思い出せるそんな出来事も既に10年近くも前の話であるからだ。そんな話をしてくださった方々とも沿線で会わなくなり、次第に疎遠となってしまっている。
なんならロクヨンセンを腰を据えて撮っていたのも既に5年も前のことになる。
そしてそれは同時に今の被写体を撮るようになって5年が経つことを意味している。
にわかに信じがたいが。
5年。
定量的に表せば等しいその長さ。
しかし、感覚的にはここ数年でとても短いものになった。
5年前の写真を見て、この5年間を思い返してみる。
その写真を見て思う事も当時とは変わっているし、撮った当時は知りえなかったり、想像できなかったようなことを考えたりもする。
やはり自分は間違いなく5年という時間を歩んでいることを実感すると同時に、その期間に詰まっている密度は当時より濃くなってさえいると感じる。
密度が濃くなっているのに、そこに感じる時間は短く感じる。謎である。
ここ数年、なんとなく腑に落ちなかったこの問題に、一つの解を見つけた気がするので、持論を展開してみようと思う。
車の運転をするときの話。
初めて行く道を知らない場所は到達するまでの見込みや、これからの道のが想定できないのでとても長く感じる。
しかし同じ距離でも道を知っていれば、次は10分後くらいにこの道に右折で入るとか、あと何分で目的地に着くという事を想定できるようになる。そうすると初めて行くときより疲れないし、長かったなという感覚も薄れる。
もっというと、運転の経験が増えると、知らない道でもこういう道は大体こういうパターンが多いとか、ナビを見てあと何分くらいだなと見当を付けられるようになり、経験が少ない頃より疲れは感じにくくなるし、途方もなく遠く感じることも無くなる。
車の運転の場合、やっていることの密度は変わらない、もしくは運転技術の向上で濃くなっているが、感じる体感時間は短くなっている。
年齢を重ねるごとに時間が短く感じるようになるのはこれに似たようなものではないかと思う。
自分が持っている知識、経験、知っている感覚の量が増えたことに端を発しているのはないかと思うのだ。
あの頃と比べてこれからどのようなことが起きるか、どうしたらやりたいことを実現できるか、どの程度のことからは実現が難しいか。
そういったことがある程度見えてしまっていて、それを大方なぞるように未来が今になり、過去になっていく過程が進んでいく。
そういえば最近、自分のやっていることが、ノベルゲームの主人公を操作しているような感覚になる事がある。
自分の人生があらかじめ決まっているストーリをなぞっているようなあの感覚も、この持論なら説明がつく。
もしこの持論が合っているとすれば、これから更に年を重ね、経験や知識を獲得するほど早く早く加速していくはずだ。
そしてそれが事実であることは、知人の諸先輩方の証言から大方間違いのない事らしい。
すると今の自分が取るべき行動は何か。
そもそも自分の人生なんだから”べき”とかないでしょという意見もあると思うが、後悔しないという意味では、その事実を受け入れ、今という時間をしっかりと考えて生きていくことしかないのかなと思う。
自分以外の〇〇のせいでとか、なんとなくではなく、しっかりと自分の行動一つ一つを考えていく。
自分の気持ちをごまかしたり、何かを批判することで逃避したりするのではなく、しっかりと考えて向き合っていく。
そうすることでしか、こんなに早くなってしまった時の流れの中で後悔しない生き方をすることなんて出来ないんじゃないかと思わされる。
それが簡単じゃないから困ってしまうのだが。
そんなクソみたいな持論をこんな所に書いている時点で後悔しない生き方なんで出来ないんじゃないですか?というド正論が飛んできそうなのでこの辺りで終わりにしようと思う。
結局今回も写真は何も関係ないまま終わってしまう。
強いて言うなら、自分はこの釜の在り方にロクヨンセンのかっこよさを感じ、自分でしっかりと考えて撮り始めた。
そしてそのことはこの5年間揺ぎなく自分の中にあり続けているし、当時は知らなかった様々なことを知り、当時は気づけなかった沢山の魅力に気付くことができ、更にこの路線を走るこの機関車が好きになった。
しっかりと自分で考えて出した結論なら後悔は微塵もないという事は、自分が時の流れの加速の代償として手に入れた過去の経験が証明してくれているという事である。
(お前いっつもやっぱここで撮ればよかった!とか、構図詰めきれなくて再履!とか言ってるやんというド正論が飛んでくる前に本当に終わり)
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- 2023/04/24(月) 00:00:00|
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先日投稿した勝沼のあと、水上の桜が既に咲き始めて、所によっては満開という知らせを受け、撮りに行ってしまった。
平日に電車で行き、うまいそばを食べ、うまい酒を飲み、春の心地よい陽気の中散歩をしながらロケハン。
やっぱりこの趣味は楽しいなぁと感じさせられる時間であった。
そんなこんなで最近は趣味のモチベが上がっていることもあり、また何かを書きたいという気持ちになったので、その時撮った桜×ブルサンの写真を生贄に、思うがままに文章を書き殴って、もとい、打ち殴ってみようと思う。
久しぶりに文章を書いて改めて意識したことがある。
言葉にするということ。
これは誰かに自分の抱いた感覚を伝える上で避けようのないものであるが、自分の中のフワッとしている感覚を、輪郭がしっかり形どられたものに定義されていくという側面を持ち合わせていると感じる。
こいつは突然何を言っているんだと思われる方もいると思うので、もう少し詳しく説明していってみようと思う。
例えば楽しかったという感覚が自分の中にあるとする。
しかし楽しかったという言葉だけでは、それを経験していない人に自分の感覚は中々伝わらないだろう。
他の人に感覚を理解してもらうためには、どういう背景で、何をして、どういったところにそれを感じたのかを言葉にして説明することになる。社会人になると上司への報告は5W1Hを意識しろと言われるのは、まさに人に伝えるのはこういった情報を整理するのが重要であるということの表れであると思う。
しかし私は普段生きていて、この5W1Hだったり、どうしてこういう気持ちになったのかということを意識して感情や感覚を抱くことはほとんどない。
なんとなく抱いた感情、感覚を他人に伝えるときに初めて、どうして楽しかったかということを整理するのである。
この整理をするということが、フワフワっとしている感覚を、輪郭のはっきりしたものに定義する作業であると感じる。
なぜ突然こんな話をしだしたかというと、私はそれにちょっとした恐ろしさを感じているからである。
感覚を言葉に定義すること。
これは他人に対してのみならず、自らの中でも定義されてしまうものである。
逆に言えば言葉に定義する作業の中で取りこぼされたものは、今後掬い上げられる機会はほとんどないように思えてならない。
すなわち感覚を言葉にするたびに、自分の感覚、ひいては自分の考えは凝り固まったものへと近づいていき、一度定義してしまったものを後から改めて定義しなおすことは難しくなっていくということである気がしてならないのである。
取り分けこれを恐ろしいと感じるのは、自分の考え方や性格、行動パターンなどを言葉にした後である。
これを重ねれば重ねるほど、自分という人間はその言葉の枠の中に押し込められていくという感覚を抱くのである。
その枠が正しかろうが、正しくなかろうが関係なく。
人生を歩み、言葉に定義すればするほどにそれは進んでいくことに恐ろしさを感じる。
この趣味においてもそうだ。
最近Twitterを見ていると、誰かの俺はこういう撮り方をする!みたいな意見に対し、こいつは訳の分からん事を言っている。それはおかしいだろ!と、自分の枠を押し付け合っている様子をよく見かける。
そしてお互いがお互いに引かず、言い合いを続けていたり、鍵のアカウントでおかしいんじゃねえのみたいなのをひとりでに呟いているパターンもある。
これもお互いが自分のやり方を言葉として定義し、その枠に収まり、互いが互いにその収まっている枠を正しいと思っているからこそ起きることだと思えばつじつまが合うと思う。
自分も上越国境でこの被写体を撮るようになり、あまり見向きもされないこの機関車のかっこよさがどのようにしたら人に伝わるかを考え、一つ一つを言語化していった。その言語化したものを頼りに、自分が伝わるであろう写真を撮るためにやるべきことを言語化し、それを実行してきた。それを5年近く続けているのだから、その感覚は既にかなり凝り固まったものになっているのだろう。その証拠に時々他の人と意見が合わないこともある。
しかし、自分が言語化する際に取りこぼしているものが無い自信はないし、他人からしたら大したことでもないことを言葉として定義したせいで大層カッコいいものであると誤認している可能性もある。
だからこそ、言葉にするとき。誰かに伝える時。それについては本当にそうかをよく考えなくてはいけない。
そして言語化したものが完全でないものであることを意識し、常に自分の収まっている枠の外で定義されている言葉についても深く考え、時には思い切って取り込む必要があると思う。
生きていくうえで感覚を言葉にすることを避け続けることは不可能である。
だからこそそれを忘れないで生きていくことで、その凝り固まりを少しは解きほぐせるのではないか。
そうすれば他の人を今までより理解できたり、凝り固まっていたら出来なかった経験をすることになり、その経験で得た感覚によって出来なかったことが出来るようになったりするのではないか。
自分の収まっていく枠が少しでも大きいものになっていくのではないか。
私はそう思うのである。
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- 2023/04/04(火) 23:16:05|
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久しぶりに気が向き、何か文章を書きたいなという気持ちになったのでブログにぶつけてみようと思い、筆を取る。
…もとい、キーボードを叩いております。
こんなに更新していないのに、定期的に見てくださっている方が居るのは嬉しい限りです。
今日もいつも以上に駄文を書き連ねていこうと思っています。
近況ですが、最近は仕事にも慣れてきて少しずつ趣味の事を考える余裕が出てきました。
2月くらいから少しずつ鉄を再開していて、やっぱりこの趣味って楽しいなと感じております。
先日はTwitterのタイムラインで各地からの桜の便りが届き、触発され久しぶりに電車で中央東線方面へ。
現地は桜がジャストで見頃で、それはすばらしいものでした。
しかしそれをしっかり物に出来るかは別問題。
しばらく撮っていなかったので腕や感覚が鈍っている上、昨年譲り受けたD850をまだうまく使いこなしきれていないことが露呈している写真を量産して帰ってくることになりました。
フルサイズ独特の画面角の描写が甘くなることへの対処や、高画素機故のブレへの敏感さ。本当に撮る人の腕を試してくるカメラであることを実感しています。
こっちは性能準備しているのに、撮る人の腕がついてこないんじゃなぁ…とカメラに言われているような感覚です。
家を出るときに想定していたままの最高のロケーションが目の前で繰り広げられているのに、それをものに出来ない歯がゆさ。
久しぶりに味わうこの感覚に、改めてこの趣味の面白さを感じさせられました。
絶対来年リベンジしてやる!
そうやって思いながら帰る道中もなんだかんだ楽しい思い出。
しかしこれは期限なしの定期列車を撮っているという余裕あってこそのものなのかもしれません。
この楽しみ方に味を占めてしまったのだから、やはりなんだかんだやめられないんだろうなぁ。と文章を書いていて思う次第です。
という事で今日はその写真を供養。
拡大しなければ分からないので、ブログサイズでなら及第点という事で!
想像以上の駄文となった上、書き始めたものの特に書きたいこともなかったのでこのまま終わっていきます。
次はどこで撮ろうかな。
テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2023/04/02(日) 21:00:04|
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自分の好きなものを誰よりもかっこよく撮ってやろう。
大した腕もないのに、そんな気持ちだけで沿線に繰り出していた頃の写真で今日は更新。
当時の写真を格納しているフォルダが、確かにこれでキめられていればかっこよかったかもという写真の墓場となっていることが、その感覚が間違いでないことを教えてくれる。
あの気持ち、当時の熱量はどこに置いて来たのだろう。と最近何度も感じる。
被写体を変え、しばらくはこの趣味に没頭していた。
毎週のように上越国境へと通い、記録を続ける日々が続いた。
しかし、ここ1、2年で通う頻度は落ち、休みだから、とりあえず暇だからと闇雲に沿線へと繰り出すこともなくなってしまった。
休みの日、天気予報を見て撮りたい場所のイメージが浮かべば行く、けれど寝過ごしてしまったら、それはそれでいいやという気持ちになる。そんなことを繰り返すようになった。
その結果、今は月1で行けば良い方というペースである。曇りや雨の日の写真は減り、手堅く撮るようになり、攻めたこともあまりしなくなってしまった。その結果、出力される記録は想像の範疇を越えてこないものばかりである。
確かにここ数年で、私生活の環境が大きく変化したこともあり、それも確実に影響しているとは思う。
仕事の休み位ゆっくり寝たいから、お金をあまり使う気にならないから、家事をやらなくてはいけないから、体力がなくなったから。
1回1回にはそんな理由を付けることも出来るが、本質はそこにないんだろうなと薄々感じている。
何故なら、本当にやりたい趣味であればそんなことなんとか折り合いをつけて、撮りに行くからである。
お金の制約はロクヨンセンを追いかけていた当時の方が厳しかったし、当時は大学、バイト終わりに早朝の上越線や中央西線に繰り出していた。
なんだかんだと考えた末、突き当たった一番大きい変化は”刺激”が足りないという事である。
当時は同じ被写体を追いかける先輩や仲間がおり、その人たちの記録に刺激を受けながら撮っていた。
こんな俯瞰知らないよ!とか、撮れないと思ってたこの時間帯の列車でこんなかっこいい写真が…とか、自分が撮っていなかった時代のロクヨンセンはこんなシチュエーションを走っていたのか…とか。
今の被写体に乗り換えてから、そんなことがほとんどなくなった。そもそも129とEH200とHK100くらいしか毎日走っている車両が居ない今の上越国境をメインで撮っている人がほとんどいない。EH200を当時のロクヨンセンを追っかけていた人レベルに追っかけている人もあまり見かけない。沿線に繰り出しても人と会うことはまずないし、そもそもこの環境に慣れ過ぎて、知らない誰かと同じ場所で撮る事すら億劫に感じるようになってしまった。
通うたびに、思いついた撮影地の記録がこなされて行き、候補に残るところと言えばは未だ鉄道写真では見たことのない俯瞰アングルや、雪道運転、雪中行軍が必要なアングル、遅れないと撮れない、単機じゃないと撮れない、積雪が大きくないと撮れない、冷え込まないと撮れない、条件がそろっていても現地で写真に収められるか分からないのようなハードルの高いものばかりになって行く。
つまり、どんなに撮っても自分の中でどこまでは求めて、どこからは妥協するかという問題になってくると同時に、まだ撮っていない写真を撮るためのハードルは撮れば撮るほど上がっていくことになる。
周囲からの刺激がないと、そのモチベーションを維持するのが難しい。自分が撮ろうが撮るまいが、誰も撮っていないのだから。
後になって、なんでここ思いついていたのに撮らなかったんだろうと思いそうかどうかという土俵における、行動に移すかのシーソーゲームである。
他の被写体を撮っている人の写真からモチベーションを得ることもあるかもしれないと思いながら写真を見るものの、縁のない被写体というだけで一段熱量が落ちるというのに、想像の範疇を越えてくる写真を見かけることはあまりない。現地を知っていればこんなとこから!?という感動があるのかもしれないが、どんな土地を走っているのかがいまいち伝わってこないというか。これに関しては、自分の写真も上越国境を知らない人たちから見たらそう見えているのかもしれないので、何とも言えないが。
そんな結果、モチベが少しずつ下がり、少ない休みに言い訳を付け沿線から遠ざっていってしまった。
それでも数少ない知人が時々見せてくれるとんでもなくかっこいい写真と、沿線のグルメの魅力が原動力となり、なんとか沿線へと出向いている現状である。
これからも更にモチベが低下していくのであろうか。今は行こうという気持ちと、いいやという気持ちが均衡点を迎えているという感覚であるが、また私生活の如何で低下に向かっていくことは大いにあり得るだろうなとは思う。
気付けばあの頃願ってやまなかった、「とにかくVが撮りたい」という気持ちもどこかに行きかけ、あの頃は理解が出来なかった、とにかく現地に行くのをやめる言い訳を探す人間になってしまっている。
そんなモチベの人間が想像の範疇を越える写真を撮れるわけもないし、あの頃のような楽しいだけの気持ちで趣味に向き合えるわけもないなと思う。
言いたいことがまとまらないし、のんべんだらりと書いていたら2081が水上を出る時間になってしまったのでこの辺で終わろうと思う。
要するに、今はただひたすらにあの楽しかった頃を恋しく思い、何とか今の被写体にあの頃のモチベーションで向き合うことが出来たらいいのにと、わがままなないものねだりをするばかりなのである。
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- 2022/08/18(木) 02:21:00|
- EF64 1000
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