2009年10月13日
無手勝流 総選挙奮闘記(お礼)
稲村公望さんから総選挙の顛末記が届いた。東京の「沖縄経済文化研究会報」に掲載したもので、著者の了解を得て転載します。
総選挙で東海ブロックの比例区から、国民新党で立候補した。比例区は立候補者の名前を書くのではなく、政党名を書く選挙である。東海ブロックとは、名古屋市を含む愛知県、静岡県、三重県、岐阜県の大選挙区である。日本の人口の大体一割をしめる大選挙区である。
国民新党から立候補したのは、衆議院議員当選九回の経験があり、前回の総選挙でわずかに千三百票不足で、約32万票を取りながら次点となった青山丘氏と小生の二人であった。
名簿の登載順位は、青山丘氏が一位であったから、35万票を獲得すれば、一人は当選するとしても、つまり2番手の当選は至難の技であることは承知していた。大選挙区であるから、手分けして選挙区を駆け巡り、国民新党の主張を訴えて得票を増やす役割で、刺身のつまのような候補者であったが、選挙であるから、あわよくばの気持ちは大事にした。
国民新党を選択したのは、郵政民営化の抜本的な見直しを掲げていることが第一の理由である。四年前まで郵政公社の理事をしていて、民営化に抗して退任したから、その後の観察でも、民営化は、郵政資産の単なる私物化と切り売りで、国際金融資本の強い影響下での、郵便貯金・簡易保険で蓄積した巨額の国民資産の海外持ち出しの投機経済の目論みであることを理解した。
郵政刺客選挙で議会制民主主義をないがしろにするようなやり方で、強圧的に民営化したものを見直すためには、政治的に決着をつける必要があると考えていたから、特にかんぽの宿の問題で、出来レースの不正を追及した鳩山総務大臣が更迭され、日本郵政の元銀行頭取の社長の続投が決まったときに、義を見て為さざるは勇なきなり、と思い至った。
郵政省時代の上司でもあった、国民新党の長谷川憲正参議院議員から「役人生活で功成り名も遂げたのだから、世話になった郵政に恩返しをしても良いのではないのか」との誘惑? があったことも一因である。
東海ブロックにしたのは、その昔、二回も勤務した関係で、気の置けない仲間が多数居て、土地勘があった。
最近の風潮としての役人叩きをみるにつけ、不甲斐なさを感じると同時に、公務員の卒業生としての経歴の枠から一歩踏み出す必要も感じていた。実際、国民新党から公認の証書をもらったときには、初めて、奄美の島を離れて、開聞岳を船から眺めながら、「旅の出で立ち〜丑拝でぃ」と登り口説を口ずさんで新しい人生を始めた時のような気分であった。
南足柄市長の沢長生君、李下に冠をたださずと明解に主張した鳩山邦夫大臣や、年金問題で奮闘する桝添要一厚生大臣、民主党の古賀一成衆議院議員などの政治家が同級生にもいたし、若い時には政治学の専攻で、国際政治の勉強もしていたから、今でも政治は総合的な学問であると考えている。
国民新党から、公認料で500万円を頂戴したが、領収書に署名して、その場で選挙事務の担当者に渡し、支持者がたむろできるような選挙事務所もつくらなかった。照会も多数受けたが、がらがらとトランク一個を引っ張り、バック一個を肩にかけて、新幹線で往来して、駅におりると、支持者の車に乗せてもらって講演会や集会に参加することだったから、カネを使わない選挙の典型で、「さすらいのポストマン」の風体であった。名古屋では、温泉のあるビジネスホテルを常宿にし、駅前ホテルを泊まり歩いた。三重県では友人が所有する高原の別荘にも泊まった。
インターネットの時代で、立候補予定者としてのホームページを立ち上げようとしたが、余裕がなかったところに、なんと沖縄観光速報社の渡久地明氏が、稲村公望を国政に送りこもうというブログのサイトを立ち上げてくれた。愛知県の友人は、小生の書いた雑文をよく読んでいただいて、主張をサイトにまとめていただいた。インターネットによる選挙運動は、文書配布として、選挙期間中禁止されているが、経費がかからない運動でもあり、政治の議論を活発化させるためにはむしろ解禁すべきではないだろうか。
大票田である大都市で、大宣伝を行うことが、選挙勝利の要点であることは分かるが、比例区の立候補は、地元出身の名前は出ても、小生の名前などは、一行も地元新聞には載らなかった。沼津の中小企業の経営者は、ネット上の拙論を読んだとして、日本経済を復活させる為には、緊縮財政ではだめだ、積極財政論だ、とのメールをわざわざ頂戴した。冷静な議論を行うためには、ネット上の議論の方が、大量政治宣伝のテレビ討論などより有効のように見える。
選挙期間中は、他の比例区の候補者が足を運ぶことをためらうような、過疎地も回ることにした。
三重県の最南端の町も訪れた。十三年ぶりに、当時の町長と議長に会ったが、町のさびれ様は、一目瞭然であった。地方への財政交付を47兆円削減した構造改革が、改悪でしかなかった現実を体感した。高山から、御母衣のダムを抜けて、荘川から、郡上八幡近くまで辿った。高速道路ができてすっかり便利になっていたが、過疎化はいよいよで、電源開発の総裁が、水没する湖底から移植した二本の桜の大木を拝むようにして、立ち止まらずに通り過ぎた。一気に秋の気配が立ちこめた飛騨の山々であったが、共同体を守るために必死に暮らしている人々に出逢い、三人、四人、五人のミニ集会を繰り返した。
浜松の奥の水窪(みさくぼ)から、佐久間にも抜けた。お目当ての日本一小さな村であった、冨山(とみやま)には行け着けなかったが、天竜川の峡谷に沿って、街道を一日がかりで上り下りした。地域の住民からは、郵便局のサービス民営化後急速に悪くなったことや、郵便配達員からは、局内の壁の仕切りあり、また、郵便集配業務が日に日に劣化している現実についても聞かされた。
神島にも行った。三島由紀夫の名作「潮騒」の舞台となった伊勢湾に浮かぶ島である。東京の離島の政治経済に詳しい知人に連絡したら、手際よく手配していただき、地元の漁協の関係者にも紹介していただいた。
島から望む海原の先には、我が南島が水平線の向にあり、実際、潮騒が描写したように、島の青年は、船乗りとなって、沖縄の運天港で台風の夜に船を繋ぎ止めて大人となった。選挙通の同志からは、島を回っても票にはならないと言われたが、神島に行けただけで、立候補した甲斐があったように思えたのは、不思議である。
静岡市の繁華街の呉服町の交差点では、亀井静香先生に従って、街宣車による街頭演説もした。奄美の小学校の同級生がいて、演説を誉めてくれたし、関西からの激励電話もあった。シマンチュの情けは深い。選挙終盤には、郵政民営化に反対して先の刺客選挙で議席を失った城内実氏(今回見事に当選した)の応援をする意図もあって、浜松駅前でビラ配りもした。もう政権交代だ、国民新党の主張が、国民を守る、ぶれない政治、日本復活であると知っていても、ともあれ政権交代だとの小泉・竹中政治に対する怨嗟の声が満ちあふれ、ビラ配りが鈍った。
戦後政治の枠組みであった五五年体制を終焉させる、歴史の転換を画する選挙であった。自立自尊を失った自民党政治に懲罰を加えた。寄り合い所帯の民主党に全幅の信頼を寄せた訳ではない。構造改悪の日本破壊に激怒した国民は、政権交代を実現させ、「郵政民営化の見直し」の政治目標をより具体化するよう圧倒的な支持を与えたから、小選挙区であれば当選できる13万212票の票が入り、「負けたが勝ち」の気分である。
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総選挙で東海ブロックの比例区から、国民新党で立候補した。比例区は立候補者の名前を書くのではなく、政党名を書く選挙である。東海ブロックとは、名古屋市を含む愛知県、静岡県、三重県、岐阜県の大選挙区である。日本の人口の大体一割をしめる大選挙区である。
国民新党から立候補したのは、衆議院議員当選九回の経験があり、前回の総選挙でわずかに千三百票不足で、約32万票を取りながら次点となった青山丘氏と小生の二人であった。
名簿の登載順位は、青山丘氏が一位であったから、35万票を獲得すれば、一人は当選するとしても、つまり2番手の当選は至難の技であることは承知していた。大選挙区であるから、手分けして選挙区を駆け巡り、国民新党の主張を訴えて得票を増やす役割で、刺身のつまのような候補者であったが、選挙であるから、あわよくばの気持ちは大事にした。
国民新党を選択したのは、郵政民営化の抜本的な見直しを掲げていることが第一の理由である。四年前まで郵政公社の理事をしていて、民営化に抗して退任したから、その後の観察でも、民営化は、郵政資産の単なる私物化と切り売りで、国際金融資本の強い影響下での、郵便貯金・簡易保険で蓄積した巨額の国民資産の海外持ち出しの投機経済の目論みであることを理解した。
郵政刺客選挙で議会制民主主義をないがしろにするようなやり方で、強圧的に民営化したものを見直すためには、政治的に決着をつける必要があると考えていたから、特にかんぽの宿の問題で、出来レースの不正を追及した鳩山総務大臣が更迭され、日本郵政の元銀行頭取の社長の続投が決まったときに、義を見て為さざるは勇なきなり、と思い至った。
郵政省時代の上司でもあった、国民新党の長谷川憲正参議院議員から「役人生活で功成り名も遂げたのだから、世話になった郵政に恩返しをしても良いのではないのか」との誘惑? があったことも一因である。
東海ブロックにしたのは、その昔、二回も勤務した関係で、気の置けない仲間が多数居て、土地勘があった。
最近の風潮としての役人叩きをみるにつけ、不甲斐なさを感じると同時に、公務員の卒業生としての経歴の枠から一歩踏み出す必要も感じていた。実際、国民新党から公認の証書をもらったときには、初めて、奄美の島を離れて、開聞岳を船から眺めながら、「旅の出で立ち〜丑拝でぃ」と登り口説を口ずさんで新しい人生を始めた時のような気分であった。
南足柄市長の沢長生君、李下に冠をたださずと明解に主張した鳩山邦夫大臣や、年金問題で奮闘する桝添要一厚生大臣、民主党の古賀一成衆議院議員などの政治家が同級生にもいたし、若い時には政治学の専攻で、国際政治の勉強もしていたから、今でも政治は総合的な学問であると考えている。
国民新党から、公認料で500万円を頂戴したが、領収書に署名して、その場で選挙事務の担当者に渡し、支持者がたむろできるような選挙事務所もつくらなかった。照会も多数受けたが、がらがらとトランク一個を引っ張り、バック一個を肩にかけて、新幹線で往来して、駅におりると、支持者の車に乗せてもらって講演会や集会に参加することだったから、カネを使わない選挙の典型で、「さすらいのポストマン」の風体であった。名古屋では、温泉のあるビジネスホテルを常宿にし、駅前ホテルを泊まり歩いた。三重県では友人が所有する高原の別荘にも泊まった。
インターネットの時代で、立候補予定者としてのホームページを立ち上げようとしたが、余裕がなかったところに、なんと沖縄観光速報社の渡久地明氏が、稲村公望を国政に送りこもうというブログのサイトを立ち上げてくれた。愛知県の友人は、小生の書いた雑文をよく読んでいただいて、主張をサイトにまとめていただいた。インターネットによる選挙運動は、文書配布として、選挙期間中禁止されているが、経費がかからない運動でもあり、政治の議論を活発化させるためにはむしろ解禁すべきではないだろうか。
大票田である大都市で、大宣伝を行うことが、選挙勝利の要点であることは分かるが、比例区の立候補は、地元出身の名前は出ても、小生の名前などは、一行も地元新聞には載らなかった。沼津の中小企業の経営者は、ネット上の拙論を読んだとして、日本経済を復活させる為には、緊縮財政ではだめだ、積極財政論だ、とのメールをわざわざ頂戴した。冷静な議論を行うためには、ネット上の議論の方が、大量政治宣伝のテレビ討論などより有効のように見える。
選挙期間中は、他の比例区の候補者が足を運ぶことをためらうような、過疎地も回ることにした。
三重県の最南端の町も訪れた。十三年ぶりに、当時の町長と議長に会ったが、町のさびれ様は、一目瞭然であった。地方への財政交付を47兆円削減した構造改革が、改悪でしかなかった現実を体感した。高山から、御母衣のダムを抜けて、荘川から、郡上八幡近くまで辿った。高速道路ができてすっかり便利になっていたが、過疎化はいよいよで、電源開発の総裁が、水没する湖底から移植した二本の桜の大木を拝むようにして、立ち止まらずに通り過ぎた。一気に秋の気配が立ちこめた飛騨の山々であったが、共同体を守るために必死に暮らしている人々に出逢い、三人、四人、五人のミニ集会を繰り返した。
浜松の奥の水窪(みさくぼ)から、佐久間にも抜けた。お目当ての日本一小さな村であった、冨山(とみやま)には行け着けなかったが、天竜川の峡谷に沿って、街道を一日がかりで上り下りした。地域の住民からは、郵便局のサービス民営化後急速に悪くなったことや、郵便配達員からは、局内の壁の仕切りあり、また、郵便集配業務が日に日に劣化している現実についても聞かされた。
神島にも行った。三島由紀夫の名作「潮騒」の舞台となった伊勢湾に浮かぶ島である。東京の離島の政治経済に詳しい知人に連絡したら、手際よく手配していただき、地元の漁協の関係者にも紹介していただいた。
島から望む海原の先には、我が南島が水平線の向にあり、実際、潮騒が描写したように、島の青年は、船乗りとなって、沖縄の運天港で台風の夜に船を繋ぎ止めて大人となった。選挙通の同志からは、島を回っても票にはならないと言われたが、神島に行けただけで、立候補した甲斐があったように思えたのは、不思議である。
静岡市の繁華街の呉服町の交差点では、亀井静香先生に従って、街宣車による街頭演説もした。奄美の小学校の同級生がいて、演説を誉めてくれたし、関西からの激励電話もあった。シマンチュの情けは深い。選挙終盤には、郵政民営化に反対して先の刺客選挙で議席を失った城内実氏(今回見事に当選した)の応援をする意図もあって、浜松駅前でビラ配りもした。もう政権交代だ、国民新党の主張が、国民を守る、ぶれない政治、日本復活であると知っていても、ともあれ政権交代だとの小泉・竹中政治に対する怨嗟の声が満ちあふれ、ビラ配りが鈍った。
戦後政治の枠組みであった五五年体制を終焉させる、歴史の転換を画する選挙であった。自立自尊を失った自民党政治に懲罰を加えた。寄り合い所帯の民主党に全幅の信頼を寄せた訳ではない。構造改悪の日本破壊に激怒した国民は、政権交代を実現させ、「郵政民営化の見直し」の政治目標をより具体化するよう圧倒的な支持を与えたから、小選挙区であれば当選できる13万212票の票が入り、「負けたが勝ち」の気分である。
稲村公望
Posted by 稲村公望ファン at 17:07│Comments(0)
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