( ´H`)y-~~ボクのパパの話(10)
( ´H`)y-~~さて、ママが亡くなってから数年。ボクは島外で仕事しながらしょっちゅう実家に帰ってごはん作ったりしてたんだけど、実家ではパパと弟の2人暮らしで限界が見え始める。
平成14年の初め頃、パパは肺炎になって入院。その時点で肺の半分以上が機能していない状態だったので、弟だけではどうしようもなくなってきたので、ボクは島に戻ることにした。
戻ってもいい働き口はなかったし、それに看病とか家事の都合があったのでしばらく再就職は諦めてパパの回復を待つ…つもりだったんだけど、医者から遠回しに長く持たないと言われる。
パパが肺梗塞になったのはボクが大阪に住んでいた頃、今から20年ぐらい前。だから入院した時点で在宅酸素を続けてかなりの年数がたっていて、医学的、統計的には、この病気で生きられる限界が近づいているという話だった。酸素を供給するのはいくらでもできるけど問題は二酸化炭素の排出で、二酸化炭素の濃度が高くなると、いろんな問題が出る、という事だったと思う。
記憶で書いているのでこのあたりの話は曖昧だけど、確かに初めの頃、まだ体力があったパパは二酸化炭素濃度が高まって錯乱状態になりチューブや点滴を引き抜いたりするので看病も大変だった。
でも、その後、人工呼吸器を使って二酸化炭素を排出したり、体調がよくなると自発呼吸も回復したり、起きあがって自分でごはんを食べたりできるようになったりしたけど、退院には至らなかった。
長く持たないように言われたのに、パパの肺はがんばり続けた…問題はボクの方。
パパの調子にも波があって、寒くなってきたりすると、体調が悪化して食事介助が必要になったり、病院から呼び出されたり、主に医療型の病棟にいたので、おむつを購入して病室に持っていったり、家事や買い物、看病、見舞いの都合で昼間は開けて、時間の融通が利くバイトをするしかなくなったわけだけど、弟の収入やら色々合わせても家計は常に苦しくて、特に個室に移らざるを得ないほど悪化したときはなんとか借金せずに済むという程度。
ボクも弟も精神的にもかなりギリギリの状態だったと思う。
この頃、ボクたち一家を支え、励ましてくれた人も沢山居るけど、みなさんには感謝したい。
特に、今はもう連絡が取れなくなってしまった人たちにはこの場を借りて感謝の気持ちを示したい。
あの頃、生きる希望を与えてくれて、本当にありがとう。