( ´H`)y-~~ボクのパパの話(6)
( ´H`)y-~~さて、そんなこんなで大阪での新生活が始まる。ママは体も小さかったし弱かったのでなかなか子供が出来なかったが数年後、子供が出来る。ボクである。
当時としては年齢高めの出産ということもあり、ぶっちゃけた話、ボクは溺愛されて育った…これが後々の人格形成に影響を与えたんじゃないかなとも思うけど…ボクが物心ついたときにパパの本棚に並んでいたのは創元推理文庫(当時)のレンズマンシリーズや早川のキャプテンフューチャーシリーズ…ああ、そうさ。ボクのパパはオタクの走りのようなパパだったさ。まあ、こうなるべくしてこうなったんじゃないかなと思わなくもない。
ただ、たいへんに博識で賢いパパではあった。ボクが3歳当時、「なんで歴史やかい勉強せなあかんの?」というようなことを聞いたときパパは「『いま』がどうなっとるかをよく知るんには『むかし』どうやったかも知らんといかんからや」と答えてくれた。今に至るまで歴史を学ぶ意味についてこれ以上の答えをボクは思いつかない。
さて、ボクの記憶は生後6ヶ月の検診の時の記憶が一番古い。ついで古いのが万国博覧会のときに駐車場が無くて入れなかったときの記憶であったりする。当時、ボクは幼児で普通なら物心が付く前なのだが、何故か覚えている。その後、ボク幼少時の大阪は万博の余韻もあって幼心に夢の未来都市のように思えた。エキスポランドも当時はまだ真新しかったし銀色の地下鉄や阿波座の立体交差とか四つ橋の電気科学館…プラネタリウムの思いでは今もまだ鮮やかに残っている。
他にも幼少時のボクの記憶にある大阪についてはいずれまた書く機会もあるかと思うけど、ボクたち一家の大阪生活はその後、ボクが小学校に進み弟が生まれた頃に終わりを告げる。
まあ、ママの実家(つまりボクが今住んでるところ)を放っておくのも何だし、家族も増えたし、馴染みのある小豆島に戻ろうということだったのだろう。
年金の記録を見ると、パパは昭和50年に大阪の会社を退職し、しばらくして小豆島で勤めだしている。