その夜、いつものようにモーリスは猫といっしょに丸まって眠りました。猫のやわらかなしっぽがいくどもモーリスの頬をなで、モーリスはそのたびにきゅっと小さな猫を抱きしめました。どこか遠くで波の音が聞こえるような気がしたのは、どうやら壊れかけたクーラーのせいだったようです。そのせいか、明け方の夢で、モーリスは猫と一緒にあのなつかしい岩だらけの海で遊びました。
そこはかつて、聖ヤコブ様の遺骸がたどりついたといわれる海辺でした。
かれらはうちよせる波のうえを、尖った岩の天辺から天辺に飛びまわりながら追いかけっこをしました。落ちたら危ないなんて、ちっとも思いませんでした。翼のついた靴をはいているような気分だったのです。波飛沫をシャワーのように頭から浴びることもありましたけれど、まるで嫌だとは思いませんでした。塩辛い海の水にごわごわになった白い毛を舐めながら、猫はまんざら負け惜しみではないようすで、甘い水よりも味わいがあるね、といいました。
そのうちかれらは遊び疲れて、海のほうをむいて隣同士で座りました。そうして猫はごろごろと喉をならしてからいいました。
「ようやくぼくは海にやってきたよ」
「うん。ここが海だよ。魚もたくさんいるよ。ぼくのおじいさんは漁師だったんだ」
「漁師! おいしいお魚をたくさんとるひとだね」
はしゃいだ声で、猫がこたえました。けれどモーリスは同じような気持ちではいられませんでした。
「そうだよ。でも、もう、おじいさんはいないんだ。海が見たいって言ってたのに、パリには海がなかったから……」
猫は黙ってモーリスの顔を見つめましたが、彼は海を見たままでいいました。
「あのさ、名前、思い出した?」
猫はなにもこたえませんでした。
あんまり海が綺麗で眩しくて、もしかすると目をつぶっていたのかもしれません。
「もしね、よかったらなんだけど、きいてくれる? 君に名前をつけてくれたひとは、君にとってとても大事なひとだったんだと思うし」
そこで、モーリスは目をあけました。やっぱり、目を閉じてしまっていたのでした。とぎれとぎれの言葉は、彼がずっと長いこと考えていたことなのでした。
「だから、断ってくれてもいいんだ。その……」
またしても、モーリスは目をぱちぱちさせていました。いつのまにか日が落ちて、あたりが眩しいほどの黄金色にかわっていたのです。燃える夕陽が海につかり、じゅうっと音をたてないのが不思議なくらいの輝きです。
モーリスはようやくのこと、自分のとなりの猫を見おろしました。猫は今や茜色に染まっていて、どこもかしこもきらきらと光りを反射していました。ああ、これは夢なんだと、そのときはじめてモーリスは気づいたのです。それでも、ちゃんとさいごまで話さないといけない、と思いました。
モーリスは、猫の、星ぼしを集めたような瞳を見つめながらたずねました。
「もしも、僕が君の名前を見つけたら、君、怒らないできいてくれる?」
「どうしてぼくが怒ると思うの?」
「だって、誰だってまちがった名前で呼ばれたらいやだろう?」
「でも、ぼくは猫だよ。ただの、猫だよ」
「それでも、僕には大切な猫だもの」
それをきいた猫は、なぜだかすこしさみしそうに微笑みました。それから、
「ねえモーリス、どうしてぼくに新しい名前をくれるって言わないの?」
「それはいけないよ。君に名前がないってわけじゃないんだもの」
猫は人間そっくりのやりかたで肩をすくめました。猫にこんなやりかたができるなんてほんとうならびっくりするところですが、モーリスは、この猫が特別な猫だということをもう十分に知りつくしているので驚いたりしませんでした。
「じゃあ、言って、モーリス。きみが見つけたぼくの名前を」
モーリスはすうっと息を吸いました。潮の匂いで鼻腔がいっぱいになり、胸がどきどきしています。猫の目は、さきほど海の向こうに沈んだ太陽の残り火を閉じこめたようにきらめいていました。
「君の名前は」
唇をひきむすび、舌がもつれそうになるのをなだめたところで、聞きなれない電話の音がきこえました。いけない、目が覚めてしまう、とモーリスは思いました。こういうことは、よくあることなのです。モーリスは家にいつもひとりでいることが多いので、電話に出るのは彼の役目でした。妹のマルゴがいたころは違ったのですが。
モーリスの目に、猫の背中の真珠色のかたまりがうつりました。それは電話の音が響くたびに、むくむくと大きくなり、やがて見たこともないほど立派な光り輝く翼になりました。いつのまにか翼の生えた猫は、目を閉じています。あの、猫独特のつりあがった斜めの線に、モーリスは泣きそうになりました。
「モーリス、泣かないで。ずっといっしょにいるよ」
うそだ、とモーリスは言いそうになりました。猫がお別れをいっているのがわかったのです。その翼があれば君はどこでもいけるじゃないか、と叫びそうになりました。叫ばなかったのは、猫の瞳に透明の雫があふれそうになっていたからです。
「目をさまして、さあ」
「いやだ」
このとき、モーリスは猫の名前を呼べばよかったのです。でも、できませんでした。名前を呼べば、猫は飛び立ってしまうことが、モーリスには本当によくわかっていたのです。
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