2010.04.09 Fri 坂本竜馬が大ブレイク
活文禅師が多聞塾を開いた龍洞院(上田市)
NHK大河ドラマ「龍馬伝」が異常に盛り上がっている 。長引く不況や製造業の斜陽で新たなビジョンを求めている現在の日本だからこそ志を求められている。志と言えばやはり明治維新 維新の立役者と言えばやはり坂本龍馬でしょうね。やっぱり革命って何時でも心が熱くなるもんです。
幕末は今から150年ほど前の出来事ですが、すでに近代ですので写真等の資料も多く残っていて調べればかなり詳細な事まで分かります。150年て昔の事の様に思うかもしれませんが、現在40歳台前半の人が生まれた時で丁度100年 80歳の人なら60年前の出来事だからそんなに昔じゃないんですね。
オレの祖母は明治33年生まれの人で98歳まで生きていたから、子供の頃よく幕末の話をしてくれました。この祖母かなりの資産家の家に生まれ、お嬢様育ちで歴史好きだったので 彼女が子供の頃に実際に維新の中を生きていた人から実際の話を数多く聞いていて、その話なんかをオレに話聴かせてくれました。そんな訳で自然とオレもその辺の話は本で読むより生々しく感じているんで、龍馬伝かなり真剣に観てます。そんな幕末時代あまり知られていないの事などをBlogに書いてみようと思います。
さて幕末と言えば、坂本竜馬を筆頭に桂小五郎 西郷隆盛 勝海舟 等歴史に燦然と輝く人の名前が浮かんで来ますが、活文禅師という僧侶を知っている人は少ないと思います。活文禅師は維新の約90年ほど前、信州松代藩の武家の次男として1774年に生まれます。江戸 長崎に学び和漢蘭の三分野に精通していて、中国語(清国語)、蘭学(天文学)、詩歌、書、彫刻、一弦琴など多種多様な学問を学びました。一説に中国に行って学んだとも言われています。とにかく大天才で日本のレオナルドダビンチみたいな人です。この活文禅師 出家して僧侶となり信州上田の龍洞院という寺の住職となり毘沙門堂で私塾「多聞塾」を開きます。当時としては最先端の学問を教えた活文に吸い寄せられるように集まり弟子は千人をこえ、多くの人が学びました。
その中に近代国家の創設に身命をささげ大活躍をした幕末の志士、佐久間象山や赤松小三郎、それに高井鴻山、山寺常山、竹内八十吉(彫刻家)といった文化人がいます。赤松小三郎(上田藩士 京都で薩摩藩士に暗殺される )は、オランダ語と英語に堪能で、京都薩摩藩邸で英国式兵法を講義し日本の軍隊の近代化の礎を作った人です。赤松小三郎の教え子に、日露戦争の英雄東郷平八郎がいます 高井鴻山は、維新後長野県を教育県にせよと最初に唱えた人です。信州小布施の豪商で維新前は葛飾北斎のスポンサーとなった人です。佐久間象山はご存知の通り吉田松陰 勝海舟 坂本竜馬 小林虎三郎等を教えています。その中の吉田松陰は後に「松下村塾」で伊藤博文や高杉晋作を教えたことで有名な人です。また小林虎三郎は後に「米百俵」で有名になる人です(小泉内閣当時の話題ですが覚えてますか?)弟子達は皆、教育が今後の日本の礎を築くと各地で教育の重要性を説いています
この様に活文禅師から始まった近代国家という思想教育が礎となり明治維新へと繋がるのです。またこの様な教育と教育への高い意識があったからこそアジアで唯一欧米列強に 植民地にされなかったとも言えます。
活文禅師恐るべしでしょう?たった1人の僧侶の教えが弟子から広がり、遂には明治維新という革命まで成し遂げたのです。しかしながら歴史の本にも出てこないし小説 伝記等もないので、知っている人は少ないと思います。昨今の幕末ブームで多くの人が感心を持っていると思い、この機会に歴史から消えている日本が誇る偉人 明治維新の陰の功労者の活文禅師を是非知って貰いたいと思います。
追記
オレ自身も祖母に「あんたの菩提寺は活文禅師が住職だった寺だ」と教えられなければ知らなかったのだ。しかしながら幕末・明治維新で活文禅師を取り上げる歴史書は殆ど無く檀家としては寂しい限りなんですね。もっともっと評価されても良いと思っています。
活文禅師が私塾「多聞塾」を開いた上田市は戦国時代 知将と知られた真田昌幸・幸村の居城があった場所です、天下を狙う徳川家康は2度戦いに敗れているのですがその2度とも真田に完敗しています。その辺の所はhttp://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/ueda.htmlに詳しく載っています。
真田氏は昌幸 幸村は豊臣に味方し大坂夏の陣で敗戦し滅亡するのですが、幸村の兄 信之は徳川家四天王 重臣の本多忠勝の娘が妻だったため徳川方に味方した 徳川が天下を取った後 真田家は譜代大名として幕末まで松代が所領となった。幕末期には8代幸貫が老中として幕政に関与している。
しかし徳川がどうしても勝てなかった真田の松代藩から徳川に大政奉還をさせる道筋を作った活文禅師や佐久間象山が輩出されたのは不思議な因縁を感じる 結果徳川は真田に3度負けたことになるんじゃないか?
明治維新後日本の経済発展は主な輸出品の絹で外貨を稼いだわけだが、製糸産業の本拠地が真田の領地の上田市周辺なのもお知らせしたい よく知られている「ああ野麦峠」の舞台の岡谷市・諏訪市は工場があった場所であって、蚕の品種改良等の研究や製糸機械の開発、輸出関連は高い教育水準があった上田周辺によって成り立っていた。現在は信州大学繊維学部と上田蚕糸(蚕の卵 今でもほぼ100%)があり伝統は続いている。
上記の祖母は母方の人ですが、父方は戦国時代は真田藩士 徳川時代は庄屋&筆屋だったため活文禅師やその弟子に筆等を納めていたらしい。(亡父によれば佐久間象山の書などかなり所有していたらしいが、曾祖父が寺へ寄進したと話していた)現在オレが受け継いでいる古文書は元禄時代からの年貢米の領収書みたいな書き付けが多く資料的文献としては価値があるらしいが、金額的な価値は無いらしいです(残念)
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