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2012.01.03 Tue 黒船来航 なんで日本は植民地にならなかったのか?その時真田は?その1

 

 

前に真田は徳川の天敵なんじゃないかと書いた。戦国時代無敵の徳川を2度にわたり退けた真田。現在の戦国武将ランキングで堂々の1位に輝く真田幸村は大坂冬の陣では徳川軍重大な損害を与え、夏の陣では家康本陣まで攻め込み家康は自害を覚悟したほどの強者なのは有名です。

真田家はこれで本来滅亡してもおかしくないんですが、幸村の兄の嫡男信幸(後に信之に改名)は家康の娘(重臣本多忠勝の娘・小松姫を養女にした)を妻とし徳川軍についていたため真田は存続することになる。戦後旧領上田を納めたが後に信濃松代藩(現在の長野市松代)に移封された。真田は本来は外様大名であるのだが上記の事から扱いは譜代大名として幕末まで真田家は存続する事になる。

さて、その真田家からまた明治維新に繋がる流れが始まったんじゃないか?ってことも前に書きましたが繰り返すと、松代藩士の子として生まれた活文禅師という大天才僧侶が出てくる。彼の薫陶を受けた佐久間象山や赤松小三郎が維新の流れを作っていった 考えればまたも真田が徳川の天敵となって結果徳川の支配は終わったんじゃないか?って話です。

昨年、いろいろ場文献を読んでいて新たなことを知るにつけ話はもっと大きな世界の中で動いていたんじゃないかと考えるようになりました。今回はその辺の所を追記したいと思います。

幕末期に決定的な出来事はペリーの黒船来航ですが、その時期前後で真田はどうなっていたんだって事を調べていていたら面白いことを発見しました。

時代は天保(1830年)の頃です。天保の大飢饉 百姓一揆の多発 大塩平八郎の乱といった混乱の時代 国外では列強によるアジア進出で阿片戦争が起こるなど幕府を揺るがす事件が多発していました。幕府は財政の再興をのため改革に乗り出しましたこれが天保の改革です。老中首座の水野忠邦は徹底した緊縮財政を断行し諸藩も藩政改革が実施され諸藩は自立的藩財政を運営するに至ります。要するに各藩は自分で藩財政を運営し自給自足しろってことですね。これにより長州や薩摩はヨーロッパで言う公国的な存在となります。当然自給自足で藩を運営するのですから幕府の影響力は低下していったでしょうね。

そんな時代に松代藩主・真田幸貫は老中首座・水野忠邦に補されて幕政の中心 老中となりました。全ての始まりはこの辺なのかも知れません。幸貫は希代の名君であり見識が高かった人物で混乱した幕府にあって改革を断行しようとした水野にとって必要な人物であったことが外様大名である幸貫を異例の老中に抜擢したことでも判ります。

幸貫はその見識から藩政改革を行い殖産興業・産業開発や文武奨励し文武学校開設したり佐久間象山をはじめとする有用な人材を数多く登用して洋学や海外情報研究に当たらせ藩政改革を成功させます。この流れは次期藩主・真田幸教以下松代藩全体に引き継がれていきます。1857年ペリーが浦賀に来航した際 幸教は横浜警備や江戸湾警備といった外交最前線の一翼を担います。

もうひとつ当時真田の旧領である上田藩の藩主・松平忠固は老中首座・阿部正弘に補されこれまた老中に抜擢されています。忠固は攘夷派水戸学の徳川斉昭が海防参与になることを激しく反対しています。理由は行政を一任されている幕府が朝廷の意向を聞くなんて(攘夷派)ことは幕府の統治能力の無さを内外に印象づけるだけというものです。このことから忠固は現実主義の開国派であることが伺えます。事実この時の幕政を行った老中たちは、その後の日本にものすごい遺産を残すことになります。

さて日本にとって正念場といえる時代の中核にいた人々は一体何を行ったのでしょうか?私たちは明治維新の歴史を知ってはいますが、よく考えればそれらの歴史は徳川幕府を崩壊させた薩摩や長州の人々によって書かれたものです。この時点で日本の政策の中心は幕府にあって決定権は老中たちが決定していたことを忘れてはなりません。すこしずつわかってきた当時の幕府の中枢のエリートたちが行ったことをもう一度考えてみようとこれを書いているのですが、何分にも長文になってしまうため回を改めて続きを書いていこうと思います。

 

 

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