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土橋正幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
土橋 正幸
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京府東京市浅草区(現:東京都台東区
生年月日 (1935-12-05) 1935年12月5日
没年月日 (2013-08-24) 2013年8月24日(77歳没)
身長
体重
178 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1955年
初出場 1956年6月6日
最終出場 1967年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 東映フライヤーズ
    日拓ホームフライヤーズ (1969 - 1973)
  • ヤクルトスワローズ (1984 - 1986)
  • 日本ハムファイターズ (1992)

土橋 正幸(どばし まさゆき、1935年12月5日 - 2013年8月24日)は、東京都台東区出身[1]プロ野球選手投手)・コーチ監督解説者

軟式野球から硬式野球に転向した異色の経歴ながら、昭和30年代(1950年代後半~1960年代前半)に東映で主力投手として活躍。現役引退後は東映→日拓→日本ハム、ヤクルトでコーチ・監督を歴任した。江戸っ子風の頑固親父的な独特のキャラクターで、野球解説者としても人気を博した。

経歴

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少年時代

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浅草雷門の生まれで、実家は鮮魚店だった[1]。戦時中は千葉の幕張疎開していたが戦後、東京に戻った中学生の時に水泳部に所属する傍ら野球と出会い[1]、草野球チームの雷門サンダースに所属していた[1]

都立日本橋高校を卒業後、家業の魚屋で働く傍ら浅草にあったストリップ劇場「フランス座」(現在は「浅草フランス座演芸場東洋館」に改称)が保有していた軟式野球チームに所属していた[2]。当初は捕手であったが、のちに投手に転向し[3]作家井上ひさしともバッテリーを組んでいた。当時のフランス座は、鶴田浩二率いる鶴田ヤンガースと張り合ったチームで[3]読売新聞が主催する23区の軟式野球大会に出場すると、台東区の予選で優勝[1]後楽園球場で行われた本選では、第一戦で前年度優勝チームの府中刑務所を破った[1]

1954年秋に東映フライヤーズの入団テストを受ける友人に付いて行ったところ、土橋が合格し入団することになった。土橋は、家業の魚屋で使うような長靴でテストに臨んだが、普通は30球ほど投げるところを10球ほど投げたところでOKが出たという[4]

プロ野球時代

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契約金はなく、月給は5,000円だった。合宿所の1日の食費が200円で月6,000円引かれたため、1958年まで4年間実家から毎月1万円の援助を受けていた[5][6]。東映入団に対して母親は猛反対していたが、土橋は「3年間で駄目だったら帰ってくる」と約束。のち、入団3年目の1957年に初勝利を挙げ、ぎりぎりの所で約束を守っている[7]

二軍時代の練習は、午前10時から練習を始めて約1時間の投球練習(約150球)、次にフリーバッティングの投手を務め、それから二軍戦に登板。さらに、土橋がモノになると見込んだ投手コーチの今西錬太郎によって、居残り特訓として約2時間の投球練習を課されるなど、1日の練習時間は7,8時間に及びほとんど投げてばかりいた。しかし、この過酷な練習のおかげで、一軍に昇格した頃には目を瞑っていても外角低め・内角低めに思うままに投げられるようになっていたという[8]

入団3年目の1957年8月1日近鉄戦に完封でプロ初勝利を飾ると[1]、終幕までに5勝を挙げて頭角を現す。翌1958年には21勝(16敗)防御率2.12(リーグ6位)と東映のエースとなる。同年5月31日には当時三連覇中で流線型打線と呼ばれた強力打線を擁する西鉄相手に、1回2死で登場した四番・大下弘から三番・中西太まで9連続奪三振のNPBタイ記録(当時[注 1][10]。9人目の中西を三振に仕留め、10人目の大下を迎えたところで、捕手の安藤順三が「大下さん、もう一つお願いしますよ」と新記録を願ったが、大下は「ダメだダメだ」と言って、当てに行くバッティングでセカンドゴロを打ち、新記録にならなかったという[11]。この試合では、沢村栄治の15奪三振を上回る1試合16奪三振の日本記録(当時)を樹立している。1959年にはオールスター前までに早くも20勝に到達。後半戦はペースダウンするが、杉浦忠(38勝)、稲尾和久(30勝)に次ぐ、27勝を挙げ、防御率2.36(リーグ5位)を記録した。

1960年は、開幕前の調整がうまくいかなった影響で12勝23敗と大きく負け越したものの、東映で2桁勝ったのも200投球回以上投げたのも土橋だけだった[1]。土橋は球団から「12勝23敗だから年俸は10%ダウンだって言う。冗談じゃない。俺が一人で頑張ってんのに、何が10%だ!」[1]。それで契約しないでいると、当時巨人のコーチであった川上哲治と選手の藤田元司から「巨人に来ねぇか?」と誘われたという[1]。土橋によると「いろんな条件面も言ってくれてね。年俸は東映の倍だって言う。それは私だってプロだもの、心動きますよ。川上は今日はオヤジ(水原茂)は他の用事で来られないと言ってたけど、実はもうその時点で、監督が川上に替わるのは決まってたと思うな」と語っている[1]。年が明けて土橋が東映と契約しないでいたところ、同年から東映の監督に就任した水原が「巨人の話は断った。俺は東映で契約のお金まで口出せる立場になった。だから減俸しない」と言われ東映に残留することになった[1]

土橋は水原について、「水原は血もない涙もない監督だった。でも、監督はそれぐらいじゃないとダメ、優勝できないね。私は結婚して、仲人、水原だったけど、シーズン中、水原と会話もなかったし、一度も褒められたことがない」と語っている[1]。「巨人であれだけ実績を残した人が、東映へ来てまた一からチームを把握していったのだからすごい」とも語っていた[12]。東映が「暴れん坊チーム」と呼ばれたことについては「だって山本張本らがいただろう。見た目がそうだったんだよ」と笑い飛ばしていた[12]

1961年には30勝(16敗)防御率1.90とキャリアハイの成績を残したが、同年に稲尾和久が42勝、防御率1.69を記録したため、土橋はいずれも2位に終わるなどタイトルに関しては不運だった。1962年は17勝14敗、防御率2.38(4位)と勝ち星は伸びなかったが東映のリーグ初優勝に貢献。一方で、3度のサヨナラ本塁打による敗戦を記録している[注 2][13]阪神タイガースとの日本シリーズでは全7戦のうち6試合に登板し、2勝1敗、防御率1.71と活躍。バッテリーを組んだ種茂雅之とともにMVPに選ばれるが、2人同時受賞はNPB史上唯一となっている。水原から強い信頼を受けていた土橋は第1,2戦で連続先発するも、いずれも打ち込まれ連敗。水原はこれに衝撃を受けたが、「ヤツはそんなやわなピッチャーではない」と、土橋への依存は変わらず、以降はリリーフに回ってフル回転する[14]。第3戦で5回を零封して引き分けに持ち込むと、第5戦でも4回零封の好リリーフを見せサヨナラ勝ち。甲子園球場に舞台を移した第6戦でも阪神の追い上げをかわして3回1/3を無失点に抑えて逃げ切ると、第7戦でもリリーフで登板、延長12回1死でマイク・ソロムコを三振、更にルーキーの藤井栄治一塁ゴロに仕留め、土橋はこの試合の勝利投手及びシリーズ胴上げ投手となっている。

1963年1964年は連続で20勝に到達し、7年連続2桁勝利を挙げた。しかし1965年は肩痛もあって4勝[15]に終わると、1966年は復活して6月26日に6勝目を挙げるも、7月14日の近鉄戦で激痛に見舞われ[15]右わき腹の筋断裂で全治3カ月と診断され、以降シーズン終了まで登板なし[15]1967年になると右手首痛や両足のアキレス腱痛もあって未勝利に終わり、同年限りで引退した[15]。通算162勝は球団最多記録。

元同僚で、悪役俳優の八名信夫とは仲が良かった[12]

現役引退後

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引退後は、東映で二軍投手コーチ(1969年)、一軍投手コーチ(1970年 - 1971年)を務める。

東映コーチ時代には高橋善正ら5人の選手が門限を破り土橋に説教されたことがあったが、その選手の一人である松本俊一が「僕らを殴ってください」と言い出す。これを聞いた高橋は「おいおい。やめろよ」と思ったが、土橋は無言で松本を殴り、松本は4mも吹っ飛んでその後1ヶ月ムチむちち症に苦しむことになり、高橋と吉田誠も殴られた[16]張本勲大杉勝男ら当時の東映にいた武闘派の選手からも恐れられており、高橋は高校の後輩でもある江本孟紀に「土橋さんに5、6人ぶっ飛ばされている。5メートルぐらいぶっ飛んだ奴はいくらでもいる。」と忠告している[17]。一方で、江本は「最近はやたら科学的なトレーニングが取り入れられているが俺は土橋さんの鬼のような特訓[注 3]で成長させてもらったと思っている。それに土橋さんは怖い人だけではなく厳しさの中で愛情が感じられ、不思議と反発感情は生まれなかった。これぞ人徳だろう。今日の野球界に、土橋さんのような豪快と優しさを兼ね備えた人がいなくなったことを本当寂しく感じる。少なくとも投げられるピッチャー江本に育ててくれたのは東映であり、土橋さんだ」と評している[18]

1973年の前期は5位に終わり、田宮謙次郎監督の更迭を受けて同年後期から監督に昇格し、ヘッド兼打撃コーチには選手兼任で張本が就任。前期終了後にはオールスター前に長野県善光寺でサマーキャンプを実施し[19]、後期の成績は6年ぶりの3位であったが、球団が日本ハムへ身売りし、大社義規オーナーと同じ香川県出身の三原脩が球団社長、三原の娘婿にあたる中西太が監督に就任し、土橋は解任され張本は一選手に戻った[20]。なお、このことについて、土橋は「日拓で後期から監督になった時は、やりたくなかったのに説得されてだった。なのに球団身売りでサヨナラだからやってられねえよ」と語っている[15]

退団後はフジテレビニッポン放送解説者(1974年 - 1983年)を務め、この間の1981年オフには契約を1年残して退団した山内一弘の後任監督としてロッテオリオンズから就任要請を受けるが、断っている[21]。 

また、同じ頃ヤクルトスワローズは投手陣の崩壊により2年連続で最下位(1982年 - 1983年)となり、特に「投手陣の立て直し」が緊急の課題になっていたため、厳しい指導で知られる土橋に白羽の矢が立ち、一軍投手コーチとして1984年より就任[22]。しかし4月27日武上四郎監督は開幕から18試合消化した時点で、「8連敗を含む4勝13敗1分けという不成績の責任をとる」と言い休養[22]翌28日から代理監督となった中西太ヘッドコーチが同じく18試合を戦い終えた時点で、「1分けを挟む8連敗」を記録し「健康上の理由」で姿を消した[22]。そのため5月22日からは土橋が代理監督代行(のちに代理監督)として指揮を執った[23]。この時点で9勝25敗3分、5位横浜大洋ホエールズに4ゲーム差の最下位だった[22]

土橋は4月20日、「闘争心のない選手は使わない」と表明[22]松岡弘井本隆井原慎一朗の3ベテラン投手にファーム行きを命じ、6月15日から代行から正式に監督に昇格すると[22]、一度、一軍ベンチに引き上げていた松岡に二度目のファーム行きを命じるなど、チームの体質改善に躍起となった[22]。6月になってプロ入り5年目の大川章に初先発を命じたり(初勝利)、一度引退し打撃投手になっていた有沢賢持に現役復帰を命じたり、あらゆる策を模索し打っていた土橋は、開幕以来抑えが多かった尾花高夫を再び先発に回して投手陣の柱にし、8月には5勝2敗2セーブ、9月は5勝0敗1セーブと成果を上げその指導は見事に実った[22]。ほか、ルーキーの高野光は10勝12敗2セーブ、梶間健一は12勝11敗2セーブをマークした[22]。チームも8月には15勝10敗の成績を挙げ(1982年4月からずっと続いていた連続月間負け越しは18カ月でストップ)[22]、後半戦は26勝23敗2分と巻き返す。最終成績は5位で3年連続の最下位は免れた。なお被本塁打177本、失点653、防御率4.76はいずれもリーグ最低の数字だった[22]。打線は若松勉(打率.325でリーグ2位)、ボビー・マルカーノ(打率.300、15位)はよく打ったものの、チーム個人最多本塁打が八重樫幸雄の18本で、チーム本塁打101本は、リーグ最多の中日ドラゴンズよりも90本も少なかった[22]。チーム盗塁数も49で、リーグ盗塁王高木豊(大洋)の56盗塁よりも少なかった[22]

1985年神谷定男を作戦コーチで招聘。若松・杉浦亨・八重樫と3割打者が生まれ[24]、プロ16年目で初めて3割を超えた八重樫が杉浦とともにベストナインに選出された[24]。弱体化した投手陣は実績のある尾花・梶間頼みで、2人を先発と抑えにフル回転させたが、ローテーションの頭数が足りない。急遽、アンディ・ビーンを入団させ6月に入ってから投げさせたが、わずか8試合の登板、2勝2敗(防御率7.25)の記録を残したまま肩を痛め、9月には帰国(解雇)してしまった[24]。8月9日の対巨人戦では入団3年目の荒木大輔がプロ入り初の完封勝ち[24]。この年はチーム防御率4.75、チーム打率.264もリーグ最低で、順位も最下位に終わった[24]。前年まで頼りにしていたマルカーノが95試合(先発出場は80試合)しか出場できず、打率.299だったが、ホームラン、打点とも前年より下回り、衰えを見せていたものの12本塁打、51打点を記録[24]クリス・スミスはわずか16試合出場でホームラン0、3打点。打率.158で解雇[24]。投手陣は荒木と、彼の同期でもある阿井英二郎が台頭[24]、野手では新人の広澤克実を我慢して正一塁手として起用し続け、主力打者に育てた[25]。広澤は「野村監督が強いヤクルトをつくっていった事は間違いない。ただ、忘れてはならないのは、その前に土橋監督がいて関根監督がいたということ」「今思えば土橋監督はいろいろと苦労されていたと思います。78年にリーグ優勝した時の戦力がベテランの時期にさしかかっていることでしたし、起用してもらっている僕もなかなか結果で応じることができていませんでしたね。」と語っている[26]。また入団2年目の池山隆寛は65試合に出場、85打数12安打、二塁打3、本塁打0、打点1、三振29、打率.141だった[24]。入団5年目の岩下正明は規定打席数には達しなかったが112試合の出場で269打数85安打、5本塁打、34打点で打率.316。若松、杉浦と並んで外野の一角を埋める活躍だった[24]

1986年、前年は大洋で打率3割、31本塁打、110打点をマークしたレオン・リーマーク・ブロハードの入団で打線は充実したとの前評判であった[27]。開幕の巨人との3連戦を全て落とし、続く本拠地・神宮球場での阪神タイガース戦に2勝1敗と勝ち越したが、ロードに出て5連敗、4月7勝14敗、5月5勝13敗2分け、6月6勝11敗1分け。5月15日、椎間板ヘルニアで梶間が登録抹消、6月10日の大洋戦で4番・杉浦が右ひざ半月板損傷でダウン、「このシーズンの復帰は無理」と言われた[27]。阿井は43試合登板して9勝6敗1セーブで活躍、ルーキーの伊東昭光が4勝11敗、同じルーキーの矢野和哉はこの年優勝した広島東洋カープから2勝、前半戦では苦闘していた荒木もよく耐え、8勝まで勝ち星を伸ばし、ファン投票で初のオールスター出場を果たした[27]。レオンは130試合全試合に出場、リーグ4位の打率.319、チームトップの34本塁打、97打点[27]。ブロハートは打率.258、21本塁打、64打点と今一つだったが、優勝を広島と争っていた巨人との最終戦で槙原寛己から逆転の2ランを放ちファンの溜飲を下げた[27]。若松は入団以来最低の打率.275に終わり、池山は65試合出場、打率.245、6本塁打[27]。打撃コーチ兼任であった若松が入団3年目の栗山英樹のスイッチヒッターへの転向を土橋に進言したところ、「『お前にそう(スイッチに向いていると)見えるのならやってみろ』と了解し[12]、栗山は規定打席数には達しなかったが打率3割をマークして注目された(107試合出場、打率.301、4本塁打)[27]。若松は「栗山はその後、センターに定着して生まれ変わった」と語っている[12]。シーズンが終わってみれば2年連続の最下位[27]、優勝した広島には12勝14敗と善戦しながら、2位巨人、3位阪神にはともに9勝16敗1分け、5位中日には8勝16敗2分けと大きく負け越し、49勝77敗4分け、勝率.389だった[27]。土橋は荒木の勝利で最終戦(対中日戦)を飾った翌10月17日、辞表を提出した[27]

退任後はフジテレビ・ニッポン放送の解説者(1987年 - 1991年)を再度務める。

1992年には古巣・日本ハムの監督に就く。ヘッドコーチに高木公男、投手コーチに新美敏を招聘[28]。広島との交換トレードで津野浩を放出し獲得した金石昭人が14勝を挙げ、抑えの白井康勝が9勝10セーブ、野手でマット・ウィンタースが35本塁打、新人の片岡篤史が打率.290と健闘するも[29]、借金18の5位と低迷[30]。契約を1年残してこの年限りで解任された[31]。当時を知る多くの人たちが明かしているように、土橋は起用法や練習方法など様々な面において選手たちから反発を買い、その責任を問われる形で1年間の契約を残して、わずか1シーズン限りで解任へと追い込まれてしまった。当時の球団常務取締役・大沢啓二によると、選手の代表、トレーナーやマネージャー、広報や通訳、いろんな裏方がみんな揃って「もう、ダメなんです。土橋監督と選手たちの関係は修復不可能なぐらいこじれちゃってるんです。」と言っており、これを聞いてやむなく土橋を解任したという[31]。当時の日本ハムの選手からは、以下のようにコメントされている。

  • 土橋さんは、本当はいい人なんですが、その表現が下手というか、選手との距離があった監督さんでした。当時のおとなしい選手たちには合わなかった。打てなかったわけではないのにオールスターが終わったらいきなりスタメン外され、プロ野球選手ですから結果が出ないじゃあ使わないなら納得するしかありませんが、このとき以外でも納得できないことが多かったんでメンタル的にだいぶやられました。実際、僕だけじゃなく、若い連中からもかなり不満が出ていましたね。監督は選手に好かれればいいというわけではありませんが、監督の動向は、選手みんながよく見ています。球界の大先輩に失礼かもしれませんが、僕自身が監督になったときの反面教師にもなりました。(大島康徳[32]
  • 投手陣を代表して、先発投手は登板翌日をオフにしてほしいとお願いし、土橋は「7回2失点以内に抑えたら」という条件付きで一度は了解した。しかし、西崎が8回2失点で抑えた試合のあとに確認しにいったら「何、言ってんだ!今日の試合は負けたじゃないか!」と怒られた。約束が違うと、土橋と喧嘩のようになってしまった。(西崎幸広[33]
  • 土橋さんの思い出はキャンプで走らされたキツさ。攻守交代の練習というのがあって、ベンチから各守備位置に全力疾走して、また戻るのを繰り返すんですよ。あの練習にはどういう意図があったんでしょうね。今の野球だとこの練習は科学的にこういう意味があると合理的な説明があるのですが、思いつきでしたよね。昭和の野球ですよ(田中幸雄[34][35]

なお、日本ハム監督時代には、土橋は退場処分を受けている(平和台野球場での試合。自軍攻撃時の一塁での判定を巡って、塁審を両手で突いたことによる)。

後任監督の招聘は難航し[注 4]大沢が自ら就任した。

また、ヤクルト・日本ハムを通じて監督時代は本拠地で対戦相手の胴上げを見せつけられる事が多かった(ヤクルト時代の1985年阪神・1986年広島、日本ハム時代は1992年西武)。テリー伊藤は自身の著書の中で「怒鳴れば格好がつく無法松な『顔面突撃』監督」と評している[36]

その後は、みたびフジテレビ・ニッポン放送解説者としてCSを中心に評論活動を行い、フジテレビONEで放送中の『プロ野球ニュース』にも出演。一方で、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームス監督も務めたほか、1990年代前半から2012年まで沢村賞の選考委員、2007年からは選考委員長に就任している。

死去

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2012年9月に筋萎縮性側索硬化症の診断を受け、自宅療養を続けていた最中の2013年8月24日に東京都内の病院にて死去した[37][38]。77歳没。

土橋の死後の8月27日に東京ヤクルトスワローズ北海道日本ハムファイターズでは試合前に黙祷を捧げ、選手一同が肩に喪章をつけてプレーをした。同日ヤクルト対中日ドラゴンズ戦が行われた神宮球場には半旗が掲げられた。[39][注 5]同日のフジテレビONEで放送された「プロ野球ニュース」においては、冒頭の内容を大幅に変更して土橋と親交が深かった解説者・選手・指導者(関根潤三大矢明彦平松政次谷沢健一、司会・金村義明遠藤玲子)を迎えて土橋の追悼コーナーが行われた。

選手としての特徴

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江戸っ子投法」と呼ばれる余計な駆け引きをしない投球スタイルで、速いテンポでストライクをどんどん投げ込んだ。データ上でも無四球試合46は歴代4位[1]、与四球率1.21は通算2000イニング以上投球者では歴代1位と、めったに四球を出さない投手だった[40]

当時のパ・リーグの覇者であった西鉄ライオンズの主力選手から、以下のような評価がある。

  • スピードは僕よりあった。細かくコントロールするのではなく甘めでも打つなら打ってみろとばかりにストライクを投げ込む(稲尾和久[15]
  • キャッチャーみたいな小さなフォームでポンポン投げてくる。スライダーもよかった(豊田泰光[3]

人物

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1954年秋の東映の入団テストの際に監督であった井野川利春は、1955年から審判に転向し、土橋が登板する試合で球審を務めることもあった。若手時代に土橋が井野川による投球の判定に不服な態度を見せると、試合直後に土橋は井野川に呼び止められて審判室へ連れて行かれ、コンクリート床の上に正座させられて、「お前をテストで採ったのは誰だと思っているんだ。そのオレにケチを付けるとは何事だ」「新前のくせに生意気だ」「未だ半人前のくせに」「オレのジャッジは正しいのだ」等、長々と理不尽な説教を食らったが、土橋は「ハイ、わかりました。すみません」とひたすら繰り返していたという。この件について土橋は「だって下手なんだよ本当に。まあしかし、監督だったっんだからハイハイって聞いてたよ」とコメントしている[41]

ヤクルト監督時代には、土橋のその江戸っ子風の頑固親父的な雰囲気がその当時の下町的な球団イメージと合っていたためか、チーム成績は芳しくなかったにもかかわらず人気があった。フジテレビの「珍プレー好プレー」でも別に土橋本人は特別に何かをしているわけではないのに「俺が土橋だ」的なコーナーがあった[42]

江戸っ子の土橋は、「ひ」を「し」と発音する。「プロ野球ニュース」の解説をしていた時、土橋は広島(カープ)を「しろしま」と発音した[42]。それをアナウンサーに指摘されると怒ってしまい、土橋は以後「カープ」としか呼ばなくなった。

プロ野球ニュース」解説者の谷沢健一とは、犬猿の仲とされた[42]。「プロ野球ニュース」の軟式野球の試合で、アキレス腱を切った土橋に対して、谷沢が「酔って階段から落ちて切った」とおちょくったのがその始まりである[42]。その後、番組中でも色々やりとりがあり[42]、2006年シーズンオフの企画では、トーク内で土橋に茶々を入れた谷沢に対し、本番中にもかかわらず土橋が激昂した[42]。一方で、2008年にも共演している。その後も、2011年12月24日放送の「プロ野球ニュース 2011 総まとめスペシャル」には、隣席で出演し、谷沢が「土橋さんに突っこめるのは僕だけ。」との趣旨の発言をしていたことから、仲直りしていたと見られる。2012年のオールスター時の「プロ野球ニュース」では、土橋が「谷沢さんとも勝負したかったね。」と語っている。

フジテレビ系「殿様のフェロモン」にゲスト出演した際に、土橋がナインティナインをだますという内容で進行し、特に理由も無くナインティナインの岡村隆史の顔面にパイをぶつけた[注 6]。だまされた側の岡村は「土橋!」と数回呼び捨てにしたところ、収録後のエレベーター内で「お疲れさまでした」と挨拶した岡村に怒りを露にし(岡村曰く「てめえ、このやろう。誰に土橋って言ってんだよ!」と凄い剣幕で怒鳴ってきたという)、放送終了後に番組スタッフが土橋とその関係者に謝罪するまでに発展した。これに関して、野球に疎い岡村は、当初「ナインティナインのオールナイトニッポン」で「呼び捨てしたのは、お笑いだから」「土橋は野球がうまかったのか?」と相方の矢部浩之に同調を促していた。しかし、2009年の書籍『ナインティナインのオールナイトニッ本 Vol.1』の付属CDでナインティナインはこの当時を回想し、岡村は「あれは完全に、私が言っている事が間違っている」とこの一件について反省し、謝罪している[43]

大の麻雀好きでもあり、西崎幸広は「日ハムの監督時代、遠征で試合後ホテルに戻ると土橋がすぐに雀荘に向かってしまうため、コーチ陣が後を追いかけ、結局雀荘で試合後のミーティングを行うのが常だった」と証言している[44]。1996年に、フジテレビ「THEわれめDEポン」を題材としたゲーム「芸能人対局THEわれめDEポン」が発売された際には、対局相手の一人としてゲーム内に登場した。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1956 東映 4 2 0 0 0 0 1 -- -- .000 29 6.1 9 1 2 0 1 3 0 0 8 8 10.29 1.74
1957 26 6 3 1 0 5 2 -- -- .714 386 97.1 79 2 21 0 4 74 1 0 31 27 2.48 1.03
1958 54 28 18 6 4 21 16 -- -- .568 1202 309.2 239 18 53 6 6 222 3 0 97 73 2.12 0.94
1959 63 34 21 1 10 27 16 -- -- .628 1336 339.0 293 23 43 6 4 217 2 0 101 89 2.36 0.99
1960 44 32 17 1 6 12 23 -- -- .343 1076 263.1 258 19 39 4 7 193 1 0 113 92 3.14 1.13
1961 63 37 25 9 10 30 16 -- -- .652 1538 393.0 313 23 45 5 6 298 2 0 111 83 1.90 0.91
1962 48 30 14 4 7 17 14 -- -- .548 1084 272.0 256 12 24 3 2 140 0 0 89 72 2.38 1.03
1963 53 32 15 1 5 20 16 -- -- .556 1210 301.0 279 31 36 2 13 169 1 0 128 102 3.05 1.05
1964 48 35 12 3 0 20 15 -- -- .571 1102 270.1 250 20 46 1 8 132 1 1 113 99 3.30 1.09
1965 24 17 3 0 0 4 10 -- -- .286 551 129.0 148 9 20 3 2 67 1 0 68 59 4.12 1.30
1966 19 15 6 2 4 6 6 -- -- .500 472 122.1 97 11 9 0 1 43 0 0 33 31 2.29 0.87
1967 9 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 62 15.0 16 3 1 0 0 4 0 0 9 9 5.40 1.13
通算:12年 455 268 134 28 46 162 135 -- -- .545 10048 2518.1 2237 172 339 30 54 1562 12 1 901 744 2.66 1.02
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

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1973年 日拓 5位 130 55 69 6 .444 5位・3位 133 .254 3.97 38歳
1984年 ヤクルト 5位 130 51 71 8 .418 25 101 .264 4.76 49歳
1985年 6位 130 46 74 10 .383 26.5 143 .264 4.75 50歳
1986年 6位 130 49 77 4 .389 27.5 119 .252 4.27 51歳
1992年 日本ハム 5位 130 54 73 3 .425 26 99 .259 4.20 57歳
通算:5年 549 221 303 25 .422 Bクラス3回
  • ※1 1973年から1996年までは130試合制
  • ※2 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は前期順位・後期順位の順に表示
  • ※3 1973年、田宮謙次郎監督の退任に伴い、後期開幕(7月27日)から監督に就任(65試合30勝32敗3分)
  • ※4 1984年、武上四郎監督休養後の中西太監督代行が休養した5月22日から監督代行。6月15日監督に就任(94試合42勝47敗5分)
  • ※5 通算成績は、実際に指揮した試合

表彰

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記録

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  • 連続奪三振:9、1958年5月31日対西鉄ライオンズ戦(駒沢球場) ※NPB歴代2位タイ記録
  • 連続イニング無四球:56回、1961年7月29日 - 8月23日。51回2/3、1959年6月28日 - 7月16日
  • 通算与四球率:1.21(投球回2518.1/与四球339) ※NPB記録(2000投球回以上)
  • 日本シリーズ1シリーズ登板数:6、1962年 ※NPBタイ記録
  • オールスターゲーム出場:7回(1958年 - 1964年)

背番号

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  • 51 (1955年)
  • 48 (1956年 - 1957年)
  • 21 (1958年 - 1967年)
  • 61 (1969年 - 1970年)
  • 73 (1971年 - 1973年)
  • 74 (1984年 - 1985年)
  • 81 (1986年)
  • 72 (1992年)

関連情報

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出演番組

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CM

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脚注

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注釈

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  1. ^ 前年に記録した梶本隆夫とタイ記録。2022年4月10日に佐々木朗希が更新するまで、60年以上もの間、日本記録であった[9]
  2. ^ 前年までの日本プロ野球記録は2度であったが、この年近鉄バファローのルーキー・徳久利明が土橋の成績を上回る5度も記録している。
  3. ^ 毎日の練習メニューが江本曰く半端なものではなく、うさぎ跳び100回、レフトとライトのボール間を全力で10本ダッシュ、腹筋と背筋を500回ずつでここまでがウォーミングアップでフリーバッティングに登板し約40分間。試合ではベンチ入りした。
  4. ^ 大沢は、王貞治上田利治を候補に考えていたが王は自身の活動スケジュール(主に世界少年野球推進財団の関連)の都合で辞退し、上田は好意的だった大社義規オーナー(日本ハムの前身は、上田の出身地だった徳島県で起業した。)以外の球団上層部から「関西出身の上田では人気が出ない」と了解を得られなかったという。その後、他の幹部を押し切る形で大社自らの要請により、上田が大沢の後任として監督を務めている。
  5. ^ 8月26日は試合がなかったため
  6. ^ 土橋がパイを投げる直前に岡村を抱えて落としたと言われるが、これは別人である。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『野球小僧 6月号 2012』白夜書房、白夜書房、2012年、P186-P195
  2. ^ 草野球出身土橋正幸、シーズン30勝!これで優勝だ!?
  3. ^ a b c 『プロ野球三国志』116頁
  4. ^ 週刊ベースボール 2020年6月8日号 連載『張本勲の喝!!』50-51頁
  5. ^ プロの給料5000円、軟式野球5試合やれば5000円、60年前のプロ野球の待遇はひどすぎた。合宿のご飯もおかわりダメ
  6. ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』159頁
  7. ^ ベースボールマガジン別冊夏祭号 1954-1972東映フライヤーズ暴れん坊伝説 ベースボール・マガジン社.2020年.p16-17
  8. ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』160頁
  9. ^ “佐々木朗希が連続13奪三振、64年ぶり記録更新…六回まで「完全試合」も継続中”. 読売新聞オンライン. (2022年4月10日). https://full-count.jp/2022/04/10/post1204754/ 2022年4月10日閲覧。 
  10. ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』161頁
  11. ^ 『プロ野球三国志』117頁
  12. ^ a b c d e 難病と闘った江戸っ子エース・土橋正幸さん ゆかりの人々からあふれる思い出話”. 産経ニュース. 2013年9月7日閲覧。
  13. ^ 宇佐美徹也『日本プロ野球記録大鑑』講談社、430頁
  14. ^ 『プロ野球三国志』118頁
  15. ^ a b c d e f 『週刊プロ野球データファイル』2012年53号、ベースボール・マガジン社、P19-P20
  16. ^ 日刊ゲンダイ2015年7月29日号、高橋善正「プロ野球サムライは死んだか」第7回
  17. ^ 江本孟紀『野球バカは死なず』文藝春秋、2018年、P91
  18. ^ 『野球バカは死なず』P102-107
  19. ^ 長谷川晶一「虹色球団 日拓ホームフライヤーズの10カ月」柏書房2019年3月12日ISBN 978-4-76-015072-4、p163。
  20. ^ 恩讐の彼方に――張本勲氏が日本ハムのユニホームで初めての始球式 スポーツニッポン
  21. ^ 【虎番疾風録(39)】仰天ロッテ山本監督決定 産経新聞、2018年10月10日
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』、ベースボール・マガジン社、pp.307-310
  23. ^ 監督代行の代行/メモ
  24. ^ a b c d e f g h i j 『ヤクルトスワローズ球団史』、ベースボール・マガジン社、pp.312-315
  25. ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)ベースボール・マガジン社、2019年、92頁
  26. ^ 週刊ベースボールプラス6 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡、ベースボール・マガジン社、2011年、P58-P59
  27. ^ a b c d e f g h i j 『ヤクルトスワローズ球団史』、ベースボール・マガジン社、pp.318-322
  28. ^ ファイターズ50年史(B.B.MOOK1651)、ベースボール・マガジン社、2024年、112頁
  29. ^ ファイターズ50年史、77頁
  30. ^ ファイターズ50年史、ファイターズ「指揮官列伝」、99頁
  31. ^ a b 大沢啓二『球道無頼』(集英社、1996年)、P216-P220
  32. ^ 週刊ベースボール2018年9月10日号大島流『危険球に負けない方法』【大島康徳の負くっか魂!!第75回】、79頁
  33. ^ 「ケンカみたいになっちゃって」元日本ハム・西崎幸広が明かす“やりにくかった監督”とは? 栗山政権は評価も「エースが出てこなかった」
  34. ^ 幻に消えた宮沢りえ監督【田中幸雄連載#11】 東京スポーツ
  35. ^ 週刊ベースボール2024年3月4日号、レジェンドを訪ねる、昭和時代の言い残し、田中幸雄(元日本ハム)②、60頁
  36. ^ 知恵の森文庫「お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝」テリー伊藤、光文社、2004年11月ISBN 9784334783259
  37. ^ 土橋正幸氏死去 東映の主力投手として活躍、ヤクルトの監督も スポーツニッポン 2013年8月26日閲覧
  38. ^ “元東映投手、土橋正幸さん死去 ヤクルト、日ハムで監督”. MSN産経ニュース. (2013年8月26日). オリジナルの2013年8月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130830224049/http://sankei.jp.msn.com/sports/news/130826/bbl13082617280003-n1.htm 2022年11月8日閲覧。 
  39. ^ “ヤクルト&日本ハム 土橋氏しのび喪章でプレー 試合前には黙とう”. スポニチ. (2013年8月28日). https://web.archive.org/web/20160304125652/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/28/kiji/K20130828006499390.html 2013年8月28日閲覧。 
  40. ^ 走り込み、投げ込みは必要か/上原浩治氏の投球論2”. 日刊スポーツ (2020年5月9日). 2020年5月10日閲覧。
  41. ^ 『プロ野球助っ人三国志』114頁
  42. ^ a b c d e f 「特集 佐々木信也責任編集・プロ野球ニュース革命〜巨人、ON偏重報道から一線を画し、新たな野球の見方を提示した伝説の番組〜 『関根順三×佐々木信也×土橋正幸 ここからすべて始まった』」『野球小僧白夜書房、2010年12月、pp. 108-115頁。 
  43. ^ 『ナインティナインのオールナイトニッ本』(vol.1) ISBN 978-4847041945
  44. ^ 第三話 西崎幸広25歳。俺の評価が低すぎる事件の真相 - デーブ大久保チャンネル・2022年5月10日
  45. ^ 「今月の広告批評 / 東海林さだお ; 高橋源一郎 ; 高橋章子 ; 中森明夫 ; 編集部」『広告批評』第102号、マドラ出版、1988年2月1日、104 - 105頁、NDLJP:1853067/54 

参考文献

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  • 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1986年
  • 小川勝『プロ野球助っ人三国志』毎日新聞社、1994年

関連項目

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外部リンク

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