真田昌幸
親父…頼むから大人しくしててくれ。
〜 真田昌幸 について、真田信之
真田昌幸(さなだまさゆき)は長野県周辺に出没する表裏比興の者である。天正13年年度以降の家康が最も恐れた男ランキング常連ランカーであり、コーエー公認のチート戦国武将でもある。
概要[編集]
「表裏比興の者」(後背が定かではない)の名前のとおり、ともかく生涯でアッチコッチを色んな意味で裏切りながら駆け抜けていった人物である。あまりの裏切りっぷりに昌幸が元々どこの所属だったか、敵も味方も分からなくなってしまうほど裏切りを重ねていった生涯であった。反省はしていない。
なお嫌いな物は徳川家である。
息子信之の嫁、小松姫(稲姫)を極端に恐れている。小松姫が輿入れした時に「なんだ、家康の娘じゃなく下っ端の娘か。」[1]と言ったところ、ブチ切れた小松姫に半殺しにされてしまった。しばらくの間、小松姫の声がしただけで顔から脂汗が吹き出し、顔が青白くなるほどの怯えようだった。後年、いくらか慣れて普通に会話できるほどになったが「嫁が敵将だったら、城まで破壊されてもおかしくない。本当に息子の嫁で良かった。」と語っている。
経歴[編集]
誕生[編集]
1547年に信濃の豪族真田幸隆の三男として生まれる。父は元々武田に攻められて信濃を追放されて上野国の長野業正(武田信玄と敵対していたスーパー爺ちゃん)の世話になっていたのにいつの間にか武田信玄に帰服しているあたり、裏切りの遺伝子は父より受け継がれたものであろう。幸隆長男であり兄である真田信綱、同じく兄であり次男である真田昌輝がいる。しかし兄達は立派な武者ではあったが、猪武者でおつむが弱かったために幸隆が「嫉妬に狂った昌幸の罠にかかり暗殺されないように」昌幸を武藤家に養子に出す事になる。だがこの程度で昌幸の野望が止まるわけがないのである…
家督相続[編集]
1574年、父の幸隆が死去する。口うるさい上に自分を養子として追放した憎っくきジジイを病気に見せかけて始末したのはもちろんの事ながら昌幸である。着々と真田家奪取作戦を遂行する昌幸の次のターゲットはもちろん自分が家督を相続するのに邪魔な兄の信綱と昌輝である。だが暗殺すればさすがにバレてしまう。
そんなこんなで1575年、長篠の戦い。昌幸はこのとき、ふとアイデアを思いつく。
「俺が殺せないのなら、織田と徳川に殺してもらおう。」
この戦いの前に昌幸は兄達を訪問し「織田とか徳川とかザコっしょ! アニキ達の突撃でぶっ潰してやってくださいよ!」と兄達を油断させ、さらに夜なべして作った真田家の六連銭の旗を送るのである。これは三途の川の渡し賃である六文の銭を意味しており、「死をも恐れぬ」という事だがもちろん昌幸の本音は「とっとと三途の川を渡っちゃってください><」という事である。昌幸の期待通り、兄達は織田徳川連合軍をナメくさって何も考えずにアタマから突っ込み壮絶な犬死討死。昌幸は兄二人と父を失った可哀想な子という哀れみの眼で見られながら「計画通り」と真田家の家督奪取に成功したのである。
御館の乱[編集]
昌幸の野望は果てる事を知らない。当主が武田バ勝頼に代わり、有力家臣がバカスカ死んで武田家中の仲も悪くなった所を見てますます悪い事を考え出すのである。
1578年、信玄と長年敵対していた越後の戦国大名上杉謙信の跡継ぎ争いである御館の乱が発生すると勝頼は北条家に依頼され、北条家一門である上杉景虎の支援を行うため上杉景勝と一戦交えるべく出兵する。しかしここで昌幸が勝頼を騙すのである。
- 「北条の言うとおりに支援しても儲けとかあるんですかね?」
- 「景勝殿は味方してくれれば黄金数万を用意すると言っているらしいですぞ」
おバカな勝頼はそれももっともであるなと、突如景虎を裏切り景勝に味方するのである。結果的に景虎は敗死したが、これに北条は激怒し武田はかなり恨まれ戦争になったのである。昌幸も上野に出兵し、北条方の沼田城等を奪取するのだが、北条方にはしっかり「いやあ、今回は勝たしてもらいましたけど北条さんは強いですなあ。勝頼のアホな命令で動かされるこっちはたまったもんじゃないッスよ」とコビも売っておき、上杉には「俺のお陰っすよ。困った事があったら相談するから助けてね」と恩を売っておいたのであった。
事実、上杉は第一次上田合戦から関ヶ原に至るまで真田と付き合うハメになっている。
武田滅亡[編集]
そしてすっかり武田が疲弊した1582年、織田信長による武田征伐が始まる。ボロボロの武田はあちこちで敗戦を重ねついに甲府まで追い詰められてしまう。勝頼は重臣を集めどこに逃げるかを相談したが、昌幸は「ここは我が岩櫃城においでください。兵もバッチリいるし、要害だから織田が来てもボッコボコにしてやんよ」と提案し、自分は戦の準備があるからと甲府から出て行った。もちろん沈みかけた船から逃げ出したのである。
勝頼はそれももっともであると思いながらも「昌幸とかマジ信用ならないッスよ」という小山田信茂の提案である岩殿城への撤退を決めてしまう。結果は小山田信茂の裏切りと天目山の戦いによる武田滅亡である。後世の人々は忠臣・真田昌幸の提案に乗らなかった武田勝頼を哀れんだと言う。
ただし。真田昌幸から北条氏に宛てたこんな書状が残っている。
勝頼のバカがノコノコと沼田に来たら身柄をそっちに引き渡しますからヨロシク。
〜 武田勝頼 について、真田昌幸
嘘ばっかりのこの記事であるが、これはガチである。結果的に勝頼は来なかったのであり、ここでは昌幸の思い通りにはいかなかった。
本能寺の変と神流川の戦い[編集]
こうして武田は滅んだ。そして昌幸はちゃっかり織田家に本領を安堵され、織田家の関東方面軍を指揮する滝川一益の指揮下に収まっていた。
だが、本能寺の変で事態は急転する。
そして昌幸の悪企みも再びむくむくと鎌首をもたげてくるのである。織田を裏切った北条軍が迫る中、昌幸は滝川に「関東武者はわりと一途だから感謝されて戦争でも活躍しますぞ!」と、関東諸侯の人質解放を具申する。普通ならありえない選択であるが、せっぱつまった状況に、滝川はイチかバチかこれを実行! これを見た関東武者たちはやる気を見せず(そりゃそーだ)、滝川は手勢だけで戦うハメになり、神流川の戦いでボロ負け。命からがら伊勢に逃げ帰った。
そして昌幸は北条へ臣従である。昌幸の辞書には義理とか人情とかは無いのだ。
その後はタヌキ・上杉・北条の間を行ったり来たりして、わずか数ヶ月の間に5回以上の主君を変えるという不義理の限りを尽くした。
第一次上田城攻防戦[編集]
1585年、あまりの不義理っぷりについに徳川家康がキレて昌幸の居城である上田城(これも徳川に造らせた)に対して徳川の総攻撃がかけられる。徳川軍の兵数は実に7000人と本気で真田を潰すつもりで来たのである。が、それでも真田を甘く見ていたのは家康の方である。とんでもない山奥にある上田城くんだりまで三河武士達はヒィヒィ言いながら攻めかかったもののビクともせず、おまけに奇襲や追撃戦でとんでもない被害を出して徳川は総崩れになったうえ、昌幸が石川数正をたぶらかして豊臣に出奔させるなど嫌がらせの限りを尽くした。また次男信繁(真田幸村)を上杉に人質として送って、上杉家も無理矢理巻き込ませた。結果的に猿の仲介などもあり、真田はまたも本領安堵されてしまうのである。
殲滅戦の増えた戦国末期に死傷者21~40人(真田)対1,300人(徳川)って何コレ馬鹿にしてんの?
豊臣政権下[編集]
何だかんだで上杉の傘下に収まった昌幸だったが、豊臣政権が確立されるとあっさりと秀吉に臣従する。その時に昌幸は上杉家中に居た信繁を脱走させて、秀吉への人質とした。それを知った上杉景勝は珍しく大いに怒り、秀吉に訴えたが既に後の祭りだった。
さらに長男信之をかつて戦った家康の下へ出仕させて、家康の機嫌を取った。こうした抜け目の無さから、昌幸は秀吉から「表裏比興(ひきょう)の者」と評されたと言う。また北条が自領にちょっかいを出して来たので秀吉を利用して叩き潰したりもした、その際に抜け目無くちゃっかりと自領を拡大したのは言うまでも無い。
第二次上田城攻防戦[編集]
1600年、関ヶ原の戦いが勃発。昌幸は次男信繁とともに豊臣方へ、長男信之は家康から本多忠勝の娘である鬼嫁小松姫(稲姫)を娶っていたため、徳川方に組する事になる。戦争前に長男の嫁と息子達を人質にしてやろうと「孫の顔が見たいので」とノコノコとやってくるが、嫁があまりにも怖かったために断念。「ただ孫の頭を撫でようとしただけなのに嫁がブチ切れて『触んな、このクぴー』と言った上に青竜偃月刀のような薙刀を喉元に突き付けてきた。その時の顔は範馬勇次郎より恐ろしかった。もし連れ帰っていたら、自分の配下どころか西軍全員が殺されていた。」と言い残している。しかしこれは信者達の妨害からか昌幸の負け戦にはカウントされていない。
今回、真田に迫ってきたのは家康の息子秀忠であり、その数実に30000人以上。「さすがにこの数では負けないだろう」と家康は秀忠に中山道を進めさせたが、昌幸の悪巧みと秀忠の戦争下手、そして相変わらず上田城のド田舎さは想像以上であり、またしても真田の前に徳川軍は潰滅してしまう。散々な目に遭った秀忠は真田を無視して関ヶ原に向かうがもうとっくの昔に東軍勝利で終っており、秀忠は家康にこっぴどくしかられるのである。これぞ幕府の黒歴史。何食わぬ顔で徳川を文治政治にしちゃった張本人であろう。
「自分も15年前に真田に負けたのに」と思った秀忠はちょっとだけ家康と仲が悪くなり、昌幸の悪企みは徳川家の家庭事情に悪影響を及ぼし、伊賀甲賀忍者衆や裏柳生剣客軍団達を使った大御所VS二代将軍暗殺合戦にまで至ったのである。
その後[編集]
西軍は負けたので領地没収ではあったが、長男信之の必死のお願いにより九度山に配流され生涯を終える。九度山では大人しくしていると思いきや、信繁とともに長男へ「金送れ、元大名が真田紐製造で食いつないでいるんだが?」の手紙を連発し多大な迷惑をかけている。恐妻家の信之は徳川のスパイである小松姫に隠れながらこっそりお金を大坂の陣まで送り続けさせられ、送られたお金は酒代やらの豪遊と信繁の女遊びに使われたと言う。
脚注[編集]
- ^ 実際、そう言われることは想定内であり、家康から養女として迎え入れられ、便宜上は家康の娘ということになっていた。