武田勝頼
武田 勝頼(たけだ かつより)は武田信玄の四男で、甲州武田氏最後の当主である。伯父の武田信廉や譜代の家臣の多くから敬遠されていたらしく、その生涯は孤独であった。武田を潰した馬鹿、親父の負の遺産を背負った気の毒な人など、その評価については様々なものがある。
なお、勝頼を嫌う人々は、彼が武田の姓を名乗る事すらおこがましいとして、彼の母親の実家である諏訪氏の姓で「諏訪勝頼」と呼んでいる。この傾向は(信玄を郷土の誇りと絶賛する)山梨県民に顕著だといわれており、彼らは勝頼が武田を潰した所為で、山梨県は未だに交通や産業が発達していないと考えている。
出自[編集]
1546年、勝頼は信玄と、側室の諏訪御前との間に誕生した。この諏訪御前というのは、信玄が滅ぼした信濃の大名で、諏訪神社の神官でもある諏訪頼重の娘である。敵の姫君ながら、英雄色を好むという言葉通り、女漁りに余念のない信玄は彼女に惚れ込んでしまい、気が付いたときには閨で一晩過ごしてしまっており、正室三条夫人らを「これも諏訪の地の民との共存策のひとつだから」と妥協させて側室として抱えた。
そんな複雑で業が深い誕生の経緯を持つ勝頼だが、諏訪の地ですくすくと育った。しかし、武田の譜代の家臣達は、武田に滅ぼされた諏訪頼重が、武田に復讐する為に生まれ変わったのではないかという疑念を、勝頼に対して抱いており、中には露骨に敵意を抱くものもいた。そういう事情があったため、勝頼は武田の家中からは疎外された空間で育った。譜代の家臣達は勝頼を敬遠して近寄らず、彼を養育したのは山本勘助とかいう、軍師気取りの得体の知れない小間使いであったという。
そんな勝頼であったが、どういうわけか武田家の正式な跡取りとなってしまった。勝頼は四男であり、上に三人の兄がいた。武田の家督は、本来であれば長男武田義信が継承するはずだったのだが、義信は信玄と方針を巡って対立した末にクーデター未遂事件を起こし、幽閉されて間もなく死んだ。死因については病死だったとも自殺だったとも言われており判然としないが、当時の武田家中では勝頼が刺客を送って殺した、或いは諏訪頼重の亡霊に祟り殺された、あるいは義信のクーデター計画は勝頼の讒言によるでっち上げ、という風聞が飛び交い、譜代の家臣達は勝頼に対する嫌悪をいっそう深くした。
次男の竜宝は視覚に障害を抱え、出家しており、三男は夭折していた。そのため、四男の勝頼にお鉢が回ってきた。一部家臣が猛反対した。その筆頭となったのが山県昌景である。昌景の兄、飯富虎昌は長男義信の傅役を務め、クーデターの折これに荷担して、責任を取り自害していた。そういう経緯もあって、勝頼に対する反発は強かった。しかし信玄は重臣の反撥を押さえ込んで、強引に勝頼を当主に据えた。
家督継承[編集]
1573年、信玄は病死し、勝頼が名実ともに当主となった。信玄は死去する際、勝頼に遺言を残しているが、それによると、信玄は勝頼に、上杉謙信は義侠を重んじる男だから頼りになる、だから謙信と手を結べと遺言したらしい。
当時、武田は北条と一度は決裂した同盟を再度結んでおり、勝頼は北条氏政の妹を妻に娶り、嫡男・信勝の継母としていた(実母は織田信長の養女で、信長と信玄が一時同盟を結んだ際に嫁いでいた)。そして、氏政は上野国の保有を巡り謙信と激越な敵対関係にある。つまり、信玄は嫁の実家の不倶戴天の敵と手を結べと遺言したことになる。とんでもなく無責任な遺言である。勝頼が困惑した事は、言うまでもない。晩年の信玄は、病によって正常な判断さえ、出来なくなっていたようだ。
長篠の合戦[編集]
勝頼は進路を南西に取り、敵対していた織田信長、徳川家康と幾度も兵刃を交えた。勝頼の采配はそこそこ優れていたらしく、難攻不落の要所であった高天神城をも陥落させ、遠江を巡る徳川との角逐で優位に立った。
しかし1575年、とんでもない出来事が起こる。遠江長篠で織田信長、徳川家康の連合軍と大規模な合戦に及んだ際、山県昌景を初めとする譜代の家臣達が、勝頼の命令を聞かずに鉄砲を中心とする布陣で磐石の迎撃態勢を構える敵陣に遮二無二突撃し、自殺同然に戦死していった。いや、完全に自殺であった。
前述の通り、山県昌景を初めとする譜代の家臣達は、諏訪の出自である勝頼を敬遠、嫌悪している者が多かった。両者の間には埋めようもない軋轢が生じており、足並みは乱れていた。譜代の家臣達は、勝頼にこれ以上仕えることを潔しとせず、無謀ともとれるエクストリーム・バンザイ突撃を敢行して「自殺」する道を選んだのだ。
無軌道にエクストリーム・バンザイ突撃し戦死していく武田の重鎮達の姿は、織田、徳川勢には大層滑稽に映った。勝頼と譜代家臣との埋めようのない軋轢を知らない信長や家康は「ああ、勝頼って突撃しか脳のない真性の馬鹿なんだな、こんな馬鹿相手ならわざわざ厳重な布陣を敷く必要もなかったな」と呆れた。
斜陽[編集]
長篠の合戦を契機に、武田は坂を転げ落ちるように凋落して言ったという認識が強いが、勝頼の勢威はなお健在だった。むしろ、自分の足を引っ張る重鎮達が勝手に自殺してくれたお陰で、足枷が取れて縦横に動きやすくなったともいえる。信長も家康も、長篠の圧勝から勝頼を完全に侮っていた。じわじわと追い詰めてはいけるものの、勝頼はなかなかしぶとく食い下がり、たまに痛恨の反撃を浴びせたりして、家康などは手を焼かされた。
そんな最中、父信玄の最大のライバルである上杉謙信が酒を飲みすぎてトイレで足をもつれさせて便器の中へアタマから落っこちて急死し、御舘の乱と呼ばれる跡目争いに発展した。跡目の片方上杉景虎は妻の実家北条氏の一族であったため、その関係から当初は義兄北条氏政と共に景虎を支援していたが、もう片方の跡目である上杉景勝と交渉というか、文通を繰り返すうち、自分と同じく周囲に疎外され、孤独な環境で育った景勝に同情してしまい、また樋口与六とかいう小僧に銭で篭絡されたこともあって景勝側に鞍替えした。勝頼の鞍替えによって趨勢は景勝有利に傾き、追い詰められた景虎は自害し、乱を制した景勝が上杉家を継承した。
滅亡[編集]
しかし梯子を外された北条氏政が激怒して織田信長、徳川家康と結託、勝頼は三方から攻撃されていよいよ窮地に立たされる。甲斐や信濃の国人達も木曽義昌を初め、次々と勝頼を見限って織田徳川に寝返り、勝頼は進退窮まった。勝頼に残された退路はただ一つ、真田昌幸を頼り信州に逃れることだった。しかし、勝頼は南へと進んだ。勝頼は妻の実家である北条氏の本拠である小田原を目指していた。自分が逃げるより、妻を実家である北条家に送り届けるのが先だと考えたのである。イイハナシダナー。もっとも後世の自称歴史研究家は「勝頼はこの期に及んで北条家に泣きついて助かろうとしていた」と曲解してるが。
しかし相模に下る道中、小山田信茂の所領を通過した際信茂の手勢に追い詰められ、天目山で妻子と共に自害して果てた。その後小山田信茂は織田信長に下ったが、勝頼を助けると見せかけておきながら騙して殺したと思い込んでいた信長は信茂を処刑した。
人物・評価[編集]
勝頼はその出自のせいなどもあって家中で孤立していた。譜代の重臣達は先入観のみで勝頼を評価し、かれの一挙手一投足を常に悪意を以って解釈し、愚物のレッテルを貼った。彼の心情を理解し、偏見なく接してくれたのは長坂光堅と跡部勝資のたった二人であったと、甲陽軍艦は婉曲的に伝えている。
周囲と円滑なコミュニケーションが図れず、外に出る服がないなどといって家から一歩も出ることさえ出来ない重篤な患者が出るほど周囲から孤立した孤独な人間が急増化した現代(さらにはイレギュラーの存在を世間はそう簡単には認めないのが現実である)。周囲から疎外され(さらに後世の歴史家や歴史小説家に日本版劉禅として酷評された)、孤独であった勝頼の境遇に自らを重ねる若者が多く、その人気は鰻登りに急上昇している。