本多重次
本多 重次(ほんだ しげつぐ、1529年(享禄2年) - 1596年8月9日(文禄5年7月16日))は、戦国時代の武将。徳川家康に仕えた。通称は作左衛門であり、その豪胆な性格から「鬼作左」の異名を持つ。徳川家の元祖ご意見番でもある。同時に家康の次男の松平秀康の育ての親でもある。
天野康景、高力清長と合わせて三河三奉行、あるいは徳川四天王に対して「徳川三闘神」と呼ばれる。他の二人が「誰コイツ…」程度の知名度ゆえ、三人の中では彼が一番知名度が高い。豊臣秀吉の母親にして尾張最強のモンスター婆さん、大政所と熾烈な激闘を繰り広げたことで有名。
人物[編集]
- 無骨で土臭い典型的な三河武士であり、晩年は井伊直政のような新参の外様や本多正信のような参謀が重宝されるのを憤り、「昔は良かった」と愚痴る事が多かったとか。鬼の目にも涙という諺通り、泣く時はとてもやかましく男泣きする。
- 三河一向一揆との戦いで武功を挙げる一方、行政面でも辣腕を振るった。また浪人であった水軍の将向井正綱を勧誘し、背泳ぎ50メートルで勝ったら部下にしても良いという条件の元水泳勝負を挑んできた正綱に対して見事勝利を収め、正綱を配下に加えた。
- 民衆のため、高札を立てるときなどは難しい漢字を使わず、かな文字で書いていたという。ある法令が守られなかったとき、高札に一言「まもらねば、さくざがしかる」とだけ書いて掲げたところ、民衆はたちどころに法令を守るようになったという逸話もある。機転のきく鬼である。
- 処刑が決定された家康の嗣子岡崎信康が岡崎から遠州堀江城に移転した時に代わって岡崎城代となった。その時に作左は信康に近づき「若殿…くれぐれも身辺の周りに気をくばってくだされよ…」と鬼の目に涙を流して見送ったという。
- 家康は44歳の時に悪性腫瘍を患った。しかし猜疑心が強い家康は医者を信用せず、薬学の心得を学んで病を患っても自分で薬を作っていた。しかし自作の薬を呑んでも回復の兆しが見えない、そこで重次は旧武田家の典医の糟屋長閑という鍼専用の医師の元で治療を受けてはどうかと助言するが、家康は断固拒否。困り果てた重次は形振り構ってられないと家康を縄でグルグル巻きにして米俵に包み、荷車に乗せて無理矢理長閑の元へと連れて行き治療させた。無理矢理束縛されて長閑の元へ送られる最中、家康は「さては武田と共謀してわしを屠るつもりか」などと罵詈雑言を浴びせていたが、長閑の治療を受けると病は快癒、すっかり元気になった家康は態度を一変させ、生涯この恩は忘れぬと重次を誉めた。
大政所との死闘[編集]
彼を語る上で欠かせないのが秀吉の母親大政所との死闘である。これは主の徳川家康が、妹朝日姫を嫁がせてもなお上洛命令になかなか従わなかった事に業を煮やした豊臣秀吉が、最後通告の意味合いを兼ねて母親大政所を人質に出した事に端を発する。母親まで人質に出すとあっては流石に上洛しないわけにはいかないと家康もついに折れ、上洛し秀吉に従属を誓うことを決意する。
しかしこれは秀吉が仕掛けた巧妙な罠であった。つまるところ、彼は家康を従わせるのと同時に厄介払いを押し付けたのである。彼の母親大政所は大阪のおばちゃんよりもワンランク上の破壊力を持つ名古屋のおばちゃんであり、秀吉、豊臣秀長の兄弟はおろか浅野長政や蜂須賀小六、福島正則、加藤清正らも散々泣かされた女傑であった。年季も入った彼女は名古屋のおばちゃんからさらにランクアップして「尾張の最強鬼ババア」に進化しており、もはや秀吉の手に負えなくなっていた。そこで秀吉は彼女を人質と言う建前の元徳川家に追い払ってしまおうと画策したのである。果たせるかな、計画は見事に成就、家康を屈服させるだけでなく、大政所の世話まで押し付けることに成功し、秀吉は一石二鳥を得た。
快哉を叫ぶ秀吉とは対照的に徳川家は阿鼻叫喚の巷と化した。大政所は駿河に着くなり屋敷がボロイ、風呂に入らせろ、肩を揉め、マッサージしろ、三回回ってワンと言えなど言いたい放題我侭を言って家康や家臣達をほとほと困らせ、少しでも聞き入れられないと所狭しと暴れ回り、あわや駿府城が崩壊するか否かというほどの大惨事となった。尚この時家康は鬼の形相で暴れまわる大政所に対してこの世のものではないと思うほどの恐怖心を懐いて腰を抜かし、生涯何度目になるかわからない脱糞&失禁をしてしまい、三方ヶ原の時のようにこれは焼味噌だ、カルピスだと言い訳する余裕も無かった。
またいつ大政所が再び暴れだすかわからないため、どこかに隔離しなければならないことになり、大政所を麻酔で眠らせて離宮に隔離するという作戦が立案された。しかし尾張最強の鬼ババアである大政所を取り押さえるには一筋縄ではいかず、仮に成功したとしても多大な犠牲を強いる事が予想された。本多忠勝や井伊直政ら戦力となる一線級の勇将達をこんなことで命の危険に晒したくない、かといって三流の武将では返り討ちにされるだろう、誰か適任者はいないか…かくして、鬼作左衛門本多重次に白羽の矢が立ち、彼は大政所を取り押さえ、隔離するという大役を任されたのである。一説によると、井伊直政が、かつて家康から栗毛の名馬をもらったことを重次に「万千代のような小僧に名馬を与えるとは」と馬鹿にされたことへの仕返しの念を込めて、家康に重次が適任者であろうと進言したとか、平岩親吉や大久保忠教が、自分に役が回されるのを嫌がって必死で重次を推薦した、などと言われている。愚直な重次は家康の期待がかかった命令を断るに断りきれなかった。かといって、一人では心細い重次は同じ三河三奉行の高力清長、天野康景に合力を仰いだが、仏高力と呼ばれた清長には笑顔で断られ、慎重さで知られる康景には「お前が失敗したら、次は俺がやってやろう」と言われる始末、重次は同僚の冷たさをその身に直と感じていた。
かくして大政所に麻酔を打ち込む為に重次は大政所に近づき、まずはよけいな波風を立てずに優しく接し、気付かれないように麻酔を打ち込もうとしたが、大政所はむさ苦しい重次が傍によるのも嫌だったらしく、重次が半径5メートル以内に踏み込むや否や凄まじい抵抗を見せ、取り押さえんとする重次と激闘を繰り広げる。重次は重傷を負い満身創痍となりながらも大政所に麻酔を打ち込んで眠らせることに成功する。重次は身体のあちこちに無数の傷痕があったと伝わっているが、その傷の大半がこのときの激闘でつけられたものである。
かくして、重次は大政所を隔離施設に隔離する事に成功した。しかし事はこれだけで収まらなかった。大政所が麻酔から醒めてしまい、外へ出せとわめき散らして大暴れしたのである。挙句の果てには名古屋のおばちゃんの必殺技、火炎放射で屋敷を内側から焼き払って外へ出ようとしたのである。慌てた重次は放水による鎮火を試み、部下に水桶を屋敷目掛けてかけるように命じた。しかし…
何と大政所の気迫に怯えていたせいか、部下達は水桶と間違えて油の入った桶をぶっ掛けてしまったのである。案の定、大政所の火炎放射に引火し施設は見る見るうちに炎上。大政所の安否は絶望的なものとなり、取り返しの付かない事をしてしまった重次はただただ呆然と立ち尽くすばかりであった。
だが重次の絶望は杞憂に過ぎなかった。地上最強の生物であるおばちゃんたる大政所がこの程度で死ぬはずが無いのである。屋敷の焼け跡の中に立ち尽くす人影が一つ。彼女はピンピンしていた。それどころか、直後に怒り狂って重次に襲い掛かって半殺しにしてしまい、重次の方が病院送りになる始末であった。
重次の後釜として大政所の世話を任されたのは井伊直政であった。事の顛末を聞いた直政が、重次はレディの扱いがなっていないとコケ下ろしたところ、本多忠勝や榊原康政ら他の家臣達から「じゃあお前ならできるのか」と一斉に詰め寄られ、その結果重次に継いで大政所の世話役を任されたのだが、直政はかつてホストクラブでバイトをしていた経験もあって女性の扱いには長けており、また他の多くのおばちゃん同様イケメン弱い大政所は、寵童として家康に愛された美男子である直政に対して、重次の時とはうってかわって従順になり、大人しく言う事を聞いたという。この話を耳にした家康は「適材適所」という言葉を痛感した。重次にとってはまさしく踏んだり蹴ったりであったが、重次の不幸はそれだけに留まらなかった。一月の人質生活を終え大坂へ返された大政所は重次から受けた粗略を針小棒大に誇張して秀吉に告げ口した。マザコンの秀吉は激怒し、すぐさま重次を打ち首にしろと家康を脅迫した。家康は困り果て、一時は重次に全ての責任を擦り付けて腹を切らせてしまおうかと思っていたが、彼と対立していたはずの井伊直政が大政所を説得し、その結果何とか重次は許された。しかし蟄居処分に命ぜられ、直政に借りまで作られ、身体もプライドもボロボロになった重次は失意の内に没したという。
一筆啓上[編集]
「一筆啓上 火の用心 お仙[1]泣かすな 馬肥やせ」
この一文は、重次が長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙であり、最も短く簡素な手紙として知られる。だが、妻への手紙に書くことがこれしかないということは、重次と妻の夫婦仲が冷却しきっていたか、あるいは重次が妻を粗略に扱っていたのかと疑念を抱かれ、フェミニズムの観点から、重次は大政所に対する扱いも含めて、「女性に対する配慮が足りない」と非難されることとなってしまった。一方、最後の「お仙泣かすな」の一句が重次の妻が自分の息子を虐待していた可能性を示唆し、険悪な夫婦間はむしろ妻の幼児虐待が原因で重次に非は全く無いと重次擁護の意見もある。
注釈[編集]
- ^ 後の丸岡藩主本多成重の幼名