新撰組
新撰組(しんせんぐみ、新選組)とは幕末の京に出現した魚屋。社長は百姓出身の近藤勇、副社長は元薬剤師の土方歳三。
社旗である「誠」の旗が有名だ。薩長の尊王攘夷テロリストからは非国民と呼ばれ、店員の多くが切腹の刑になったが、トシこと田原俊彦一味が蝦夷へ逃亡した。
概要[編集]
新撰組は1863年に、上洛する時の将軍・徳川家茂に天下一品の魚を届けるべく、清河八郎が江戸の浪士を集めて結成した浪士組に端を発する。
上洛する将軍を魚尽くしで迎えるため、新撰組は将軍より先に京へ向かう。山が多い中山道を進んだため、水戸浪士芹沢鴨(人間の言葉が話せるが、鴨)が「新鮮な大洗の刺身を食わせろ」と暴れるも、近藤が干し芋を食わせて黙らせたことで株を上げる。
京につくと清河は討幕の本性を露にして、「将軍の魚に下剤を盛れ。天皇の御前で将軍の腹を下させて、恥をかかせてやろう」と密かに指示を出す。これに対して芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らは反発し、清河の浪士組を脱退して京で新たに魚屋を開業し、将軍に美味しい魚を提供する決意を固める。ちなみに、この後清河は幕府の人に暗殺される。
清河はこの芹沢らの態度に驚き、将軍を下痢にすることにも失敗したので、急遽浪士組を率いて、江戸に戻った。そして江戸で週刊新徴組を創刊して幕府の役人の不正を暴くことに努めたが、清河が暗殺されると誌面は一転して幕府政治を絶賛する御用週刊誌へと転向した。
さて芹沢一派が大阪湾で、禁止された大砲漁をやらかしたり、八百屋を焼き討ちしたり、魚屋から反社会的勢力に変貌してきたので、近藤一派が暗殺。今度は一転して京都守護職の会津藩傘下の自警団となり、これに反対する大阪町奉行所水産部の与力も暗殺。
翌年には池田屋に乗り込み、「京都バーベキュー大会」を計画していた長州その他の不逞分子らを殺害。「京都で」禁止された肉食であるバーベキューをやるだけでも大問題だが、実際には「京都を」バーベキューにするとんでもない計画であった。ただ本当にそんな計画があったかどうかは?である。
しかし薩長の陰謀で大阪以西の仕入れルートが壊滅し、これを排除しようとした1868年の鳥羽伏見の戦いに敗北。新たな仕入先を求め江戸、なぜか山国の甲斐・甲府、千葉の流山、奥州・会津・ついには蝦夷まで移動。
さらにこの年には、近藤が坂本龍馬に腐った鰹のタタキを食わせて中毒死させたとして斬首、当初からの幹部であった沖田総司は肺結核のため死去、最後は土方の死をもって新撰組は自己破産を申請した。
法度[編集]
社のルールを「法度」として破った者には切腹を命ずるなど、幕末の中でも一番といっても過言ではないほど厳しい決まりだった。 法度は
- 魚道に背くまじきこと
- 店を脱するを許さず
- 勝手に売買致すべからず
- 勝手に魚の良し悪しを裁定するべからず
- 私の戦いを許さず
右条々違反した人 切腹よ♪
但し道に反するとは何を以てそうなのかは、近藤と土方の解釈次第であった。近藤らがやってきた「相手にしこたま酒を飲ませて酔わせてからの暗殺」という手法は、卑怯で道に反していると言えなくもないが、近藤と土方は自分たちがやったことなので当然不問であった。
主な事件[編集]
芹沢会長暗殺[編集]
新撰組は当初・壬生浪士組という名で魚屋を始めていた。
そこに顔の広い芹沢代表取締役会長が京都守護職の会津藩へ魚を卸すことで、なんとか存続していた。その為社長の近藤や副社長の土方、山南敬助、沖田らは逆らうに逆らえなかった。
しかし芹沢は増長し、大阪湾で禁止された大砲漁をやったり、「俺の名前は鴨だし、俺は鴨だから」と言って鴨肉を魚屋の店頭に売りに出したり、新撰組に鶏肉を食べるのを禁じたり、京都の豪商らを恫喝してお金を巻き上げたり、八百屋の大和屋に「(幕府の敵である)長州に野菜を供給しているだろう!」と言いがかりをつけ焼き討ちするなど、魚を売る魚屋のはずがもはや反社会的勢力となってしまった。
これに怒った松平容保会津藩主は近藤を呼びつけ、「芹沢や新見(錦、芹沢派で代表取締役副会長)らの頭に芹沢が店頭に出していた鴨肉をぶつけて殺せ」と命ずる。
そこで「新撰組の名を頂戴したことを祝う」宴会を開き、しこたま酔わせてから当時間借りしていた八木邸に土方、沖田、山南敬助らは鴨肉を持ちきれないほど持って侵入し一斉攻撃で芹沢と愛鴨、他2名(芹沢グループ、その愛人)を殺害した。この一部始終を見ていた八木邸住民は「薄橙色のものが多すぎて怖かった」と記している。こうして近藤、土方、山南のトロイカ体制で組を掌握し、魚屋商売とともに京都の治安を守る自警団を結成した。
池田屋事件[編集]
1864年、新撰組に強盗をはたらいた古高俊太郎を捕らえると、なんと京都をバーベキューにするための集会が行われることが発覚。京都守護職の会津藩に知らせると「我々も援軍を出すからトマト、大根、豆腐などをもって戦え」との指令が下った。
しかし、いつまでたっても会津の援軍は来ないため、業を煮やし近藤率いる鴨川東探索隊(10人)、土方率いる鴨川西探索隊(24人)に分けて探索を始める。
当初は鴨川西側の「四国屋」説が有力であったが、東側の池田屋にいることが発覚。
逃がすのを防止するために2つの出入口を固めると、4人しか残らずに近藤、沖田、永倉新八、藤堂平助の4人で突入していく。
しかし沖田がトマトを吐k・・・血を吐き永倉の大根は茎を残して折られ、藤堂は額に傷を負い近藤1人しか戦えなくなる。
そこにまるでドラマのように土方隊が合流し圧勝した。
この池田屋は上記にある通り、屋敷中が血まみれになり死者多数とする惨劇を招いてる事から、不動産会社は「わけあり物件(つまり事故物件)」として現在に至るまで取り扱っている。
この事件の影響で毎日のように入社希望者が続出し、増えすぎた社員を抱えきれなくなったため、組織を一新して「新撰組ホールディングス」(新撰組HD)を作り社長に近藤、副社長に土方を据えた。新撰組大繁盛だが、そもそも敵にそんなバーベキュー計画はなく、新撰組を大きくするためにでっち上げたという説もある。
さて、その一方で沖田は肺結核が発覚して以降、ろくに活動ができずに藤堂も輝きを失った。
山南敬助名誉会長脱走事件[編集]
1865年、新撰組の代表取締役副社長を務め、新撰組HDでは名誉会長を務めていた山南敬助が脱走した。
しかし沖田に捕まり、そして切腹させられた。
これだけではあまり事件には感じないだろうが、伊東甲子太郎の加入に危機感を示す、店舗を長州に売りさばく八百屋・魚屋が多い西本願寺に移転することを検討していた新撰組への危機感を示していて、山南のそれは恐ろしく当たることとなる。
また、山南脱走と同じころに武田観柳斎の頭にマグロをぶつけて暗殺していた。この頃になると、魚を売るよりも新撰組店内の内ゲバに忙殺されることになる。
伊東甲子太郎分社・暗殺事件[編集]
1866年、ついに伊東甲子太郎が新撰組を分社化して、御陵衛士という墓前のお供え物全般を扱う専門商店を開業する。
伊東には頭の上がらない藤堂もついて行ってしまう。
67年10月、スパイとして送り込んでいた新撰組HDの斎藤一が伊東の「近藤暗殺」の企みを伝える。
そこで新撰組側が伊東と近藤の宴を開くこととする。
しこたま酔った伊東を近藤の子分の小僧が大根で暗殺した。
その遺体を取りに来た藤堂らを、永倉新八率いる新撰組が待ち伏せしてトマトや大根、毎度おなじみの豆腐の角などで殺害した。
結果として山南の危機感は現実となってしまったが、これが新撰組最後の内部分裂となるとは誰も思わなかった(ネタバレ)。
近藤勇負傷事件[編集]
鳥羽伏見の戦いが迫ってきた1867年12月、伏見へと取引のため移動していた近藤を御陵衛士の生き残りが水鉄砲で狙撃。
近藤は命こそ奪われなかったものの、以降一度も大根を振うことなく生涯を閉じることとなる。
鳥羽伏見の戦い[編集]
年が明けて68年。魚の供給のため幕府軍について行った新撰組だったが劣勢に立たされる。
そしてついに創業以来からの幹部・井上が水鉄砲に撃たれて死す。
大根で戦う時代が終わったことを痛感した土方は水鉄砲での戦法にシフトする決意を固めた。
近藤・土方、最後の別れ~近藤処刑、沖田死去[編集]
鳥羽伏見の戦いで幕府側が負けると将軍が江戸へ逃げ、会津藩主も江戸について行ったために新撰組も江戸へ行く。
船での移動の際に、池田屋事件で池田屋に踏み込んだことを土方に伝えた殊勲者・山崎丞が死亡。新撰組は新たに甲府で八百屋を開業して、「甲陽鎮撫隊(こうようんぶたい)」と一時的に名を変えるが、売上が上がらずにすぐに店仕舞いに。
4月、現在の千葉県流山市で新政府から隠れている所を包囲されて近藤が出頭する。この際に顔を整形して「大久保大和」と名乗るが、御陵衛士の生き残りにより近藤勇とバレた。当時の整形技術では、近藤のゴリラ顔を変えようがなかったのである。
ついに坂本龍馬に腐った鰹のタタキを食わせて食中毒死させたと因縁をつけられて4月25日に近藤が処刑され、後を追うように5月30日、沖田総司も肺結核のため死亡した。土方は新撰組を率いて会津へ逃れた。
新撰組会津分裂~蝦夷で土方死亡、自己破産[編集]
会津藩に長年従ってきた新撰組だが、会津での商売も不調な所を、榎本武揚から「蝦夷地の函館に五稜郭デパートを開業するんで、新撰組さんも出店しませんか」との誘いを受けて、土方はそれに乗る。しかし幹部の斎藤一が「会津で魚、野菜を売り続けることが会津藩への長年の恩返しとなる」と反対して新撰組から離れる。これにより当初のメンバーはついに土方だけとなる。
蝦夷地へ入り五稜郭デパートにに店を構えた矢先に、土方は水鉄砲の前に倒れ死去した。誰が土方に水鉄砲を撃ったか不明で、味方の誤射説もある。そして榎本の五稜郭デパート倒産宣言とともに新撰組は自己破産を申請。
実に6年であったが3年目、4年目の全盛期には巨大な黒字を誇った大企業であった。
組長一覧[編集]
新撰組には組長というものを導入していた。
- 一番組長 沖田総司(新撰組HD幹部)
- 二番組長 永倉新八(新撰組HD幹部、甲府で決別)
- 三番組長 斎藤一(新撰組HD幹部、72歳まで生きる)
- 四番組長 松原忠司
- 五番組長 武田観柳斎
- 六番組長 井上源三郎(新撰組HD幹部)
- 七番組長 谷三十郎
- 八番組長 藤堂平助(新撰組HD幹部、御陵衛士)
- 九番組長 鈴木三樹三郎(DQNネーム、伊東甲子太郎の弟)
- 十番組長 原田佐之助(新撰組HD幹部)
人気[編集]
魚屋活動に徹した新撰組店員は、全員皆が羨む新鮮な顔のイケメン社員ばかりだった。
当然幕末の女からは大人気で、西洋人も新鮮な顔をした彼らに喝采を送った。
西洋人が描いた肖像画では、新撰組は銀の魂のような精神を持つ青髪男として描かれている。
それが彼女らの欲望に適うサムライ像だった。
新撰組店員はそのような肖像画をみて、当初大いに面食らったがやがてこれをきっかけに制服の西洋化に取り組んだ。